「美濃から来た童」
作/久住様



十七、立夏


 岡崎城本丸での密談は続いている。
 半蔵は、気配を絶ちながら、岡部元信と山田新右衛門との会話の内容ばかりでなく、息遣いをも聞き取ろうとしていた。
「それと、お屋形様のことだが」
「何でございましょう」
 元信は話しにくそうに続けた。
「お屋形様は、御自身の正義を世に示すために出兵なさるとおっしゃる。その正義が今の世に受け入れられるものかどうか、わしにはわからぬ。今の世が狂っていてお屋形様が正しいのかもしれぬし、どちらが正しいともいえないのかもしれぬ。いずれにせよ、美濃を征して後、お屋形様が何をなさるにしても、お屋形様をお守りせねばならぬ」
 新右衛門は元信の真意をはかりかねていたが、元信がいだいているいいしれぬ不安のようなものが、ひしひしと伝わってきた。
「何があろうとお屋形様をお守りせよと」
「そうだ。いかなる勝ちにも惑わされぬよう、用心してもらいたい」
「そのようにいたします」
 元信は、新右衛門を心配そうに見やった。智も能も忠も元信に引けを取らないが、いくさ場での勘働きには、まだ新右衛門は場数が足りないようであった。だが、そこまで要求するのは酷だろう。元信は話題を変えた。
「ところで、武田上野介が織田方の米を買ったという話だが」
「御存知だったのですか」
 新右衛門はいまさらながら、元信の諜報力に舌を巻いた。
「ああ、どうも納得がいかぬ。前田孫四郎とは、いかなる者であったか」
「幼名を犬千代と申し、信長の寵童であったという話を聞いております」
「寵童だと?」
「はい、それが何か」
「愛憎のもつれならともかく、寵童が利につられて主を裏切るなど、ありえぬ」
「あ」
 新右衛門はおのれのうかつさに腹が立った。確かに衆道の愛情は、欲得では動かない。
「だが、何のために米を売りにきたのだ」
「それがわかりませぬ。何かを探りにきたのでは、とも考えてみたのですが」
「偵察か。ありそうな話だが、敵は何を知りたいのか」
「この三河にあるものといえば、米ぐらいですが」
 そこまで口に出してはっとなった新右衛門は、思わず立ち上がった。
「米蔵の位置を調べにきたのでは・・・」
「まずいな」
 元信は座り直し、新右衛門が座るのを待って、言った。
「早急に松平元康を岡崎に呼び寄せねばならん。後の手配はわしがしておく。おぬしも駿府に至急戻れ。三河の次に敵が仕掛けてくる先は駿府かもしれぬからな」
「承知しました。お屋形様と充分に策を練っておきます」
「頼む。お屋形様は才知に走りすぎるきらいがある故、注意してもらいたい」
「お任せ下さい」
 最近、お屋形様からいささか煙たがられるようになってきた元信よりも、信頼の厚い新右衛門の方が、うまくやってくれるかもしれぬ。元信は、そのことを信じたかった。

 墨俣は、近年になく、騒々しい雰囲気に満ちていた。
 軽装の騎馬武者が次々に弓を的に向けて射ては、走り去って行く。
「御頭、訓練の成果はいかがでしょうか」
 先ほどまで、自分も矢を射ていた小六が、童の姿を見て息を切らせながらやってきた。
「ずいぶん上達したものですね。これなら、うまくいくかもしれません」
 この二月、蜂須賀党の戦闘要員は乗馬と騎射の訓練ばかりを繰り返していた。
「しかし、軽いよろいを身に付けただけで太刀も槍も持たないとは、少し不安な気もいたします。このような戦い方は、聞いたことがございません」小六は最近感じ始めた疑問を述べた。配下の者たちも同じような疑問を感じているようだ。
「胡人が太秦の大軍を破り、太秦の有力な将軍を射殺した戦いがあったそうです。その時の戦い方を参考にしています。重装備の敵に対し接近戦を挑まず、騎馬で馳せ回り、射殺しては逃げ、追いかけてきたところをまた射殺し、砂漠に誘い込んで全滅させたとか。そこまでの大いくさではありませんが、真似ならできそうです」
「さすがに御頭様、物知りでございますな」小六は心の底から感心したように言った。配下の者たちも安心するであろう。
「あと一月、どこまでいけるであろう」童は心の中でつぶやいた。
「何かおっしゃいましたか」
「いえ、何でもありません」童は少し動揺した。どうやら口に出していたようだ。大高城の兵糧がなくなるまでの、この一月あまりのうちに、必ず今川は動く。その先頭は岡崎勢。その時にこの部隊は真価を発揮する。だが、機を読み間違えれば、全滅は免れない。ただ一度しか、その時は来ない。その時を自分は読み切れるのだろうか。そんな不安を胸中に抱きながら、いたたまれずに訓練を見にきたのだが、不安を解消する役には立たなかったようだ。訓練をしている百五十騎、一人一人の顔を見るたび、おのれだけが背負っている責任に押しつぶされそうな気になる。
「御頭、皆の晴れ晴れとした顔がわかりますか」童の様子を見ていた小六が、少し心配そうに尋ねた。
「晴れ晴れと・・・?」
「皆、荷運びの護衛で生涯を終えるのではないかと思っておったのです。それを、一世一代の大いくさに出られると知れば、ここを先途と気が高ぶるのは自然のことでありましょう」
「そんな、私は、皆に生きていてもらうための戦いをしているのに」
「それは、誰もが知っております。今はおおらかに見守っていてくだされ」
 小六の穏やかな笑顔を見ていて、童は、まわりを覆っていた暗い霧から、少し晴れ間が見えたように思った。
 そうか、皆、おのれの命を背負っているのだ。
 そう気がつくと少し、両肩の荷が軽くなるような気がした。

「玄蕃殿、岡部元信が兵三千を率いて岡崎まで来たそうだ」
 飯尾近江守は、鷲津砦で、大高城の監視と情報収集に明け暮れていた。
「いよいよですかな」
 織田玄蕃は、どこか期待に満ちた様子で、近江守に尋ねた。
「まだはっきりとはしないが、今川義元の馬廻りも猛訓練をしているという。こちらもうかうかしてはおられぬ。この砦の守将として、玄蕃殿にはよろしく御采配願いたい」
「いや、わしのような老体には、いくさはこたえます。近江守様のお下知に従わせてくだされ」
「お戯れが過ぎますぞ」
 近江守は、笑いながら答えた。
「ところで近江守殿、千秋四郎のことだが、御子息も参加させてはいかがかな」
近江守は子息もこの砦に連れて来ている。四郎の伏兵部隊に参加させた方が、砦に立てこもるよりも生き残る可能性は高い。援兵に来てくれたせめてもの礼を玄蕃は近江守にしたかった。
「そのことならば、話すまでもないこと」
近江守の表情が厳しくなった。
「だが」
「御老体のお楽しみに水を差すようなことはいたしませぬ。それがしはこの砦で敵の大将の首を取ります。伏兵の四郎殿とは競争ですな」
「しかしだな」
「わが息子のことならば、父の討ち死にの様を見届けたいとの思いから、勝手について参った不孝の息子。まったくお気遣いはご無用に願いたい」
「わかった。もう言わぬ」
 わしも強情だが、さらに上手がおったか。
 不承不承、口を閉ざす玄蕃だった。

 永禄三年、四月。
 春の終わりと共に、人の世も動き始めようとしていた。

(十七、立夏 了)



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