「美濃から来た童」
作/久住様



十五、岡崎


「上野介殿、織田から米を買ったとは、いかなる御料簡か」
 岡崎城城代、山田新右衛門は、やはり岡崎城城代の武田上野介を責めたてていた。この二人、お互いにうまが合わないと感じている。
 城代が二人もいるのは、新右衛門の役目が岡崎勢の監視にあることによる。軍事を除き、城代としての通常の権限は上野介が持っていた。上野介の配下が二千石もの米を、織田の勘定方から高値で買い取ったというしらせは、三河全土に張った情報網により、翌日には新右衛門のもとに届いていた。兵糧の調達は上野介の役目であるが、上野介には常のこととして、米の代金の中から、なにがしかのまいないを受けているに相違なく、見返りに織田方に有利な約束をしているのではないか、と新右衛門が懸念するのも当然といえた。だが、上野介の方は新右衛門の追及を当然とは思っていない。お屋形様の覚えがめでたいのをかさにきて、言いがかりをつけているようにしか、上野介には思えなかった。
「新右衛門殿、まあ落ちつかれよ。確かに織田の勘定方から、籠城用の米の横流しは受けた。織田滅亡の後には仕官の口を探す約束もした。いずれも主家滅亡の前にはよくあることではないか。それに、思わぬ拾い物もあっての」
 上野介はいつものように、のらりくらりとした口調で応対した。新右衛門に対する腹の内の嫌悪は、微塵も表われない。
「拾い物、というと?」
「矢立ての孫四郎という名を御存知か」
「織田家中の豪の者ですな。浮野の合戦の時であったか、鬼のごとき働きをしたという」
 織田信秀の死から六年後の弘治二年、信長の庶兄信広と実弟信行が結んで信長打倒を企てた。柴田勝家や林通勝などもこれに加わり、信長勢と反信長勢は浮野でぶつかった。戦いのさなか、信行の小姓頭の放った矢を右目の下に受けた前田孫四郎利家は、矢を抜きもせずに突き進み、その小姓頭の首を取った。今から四年前のことだ。
「その豪の者が、信長とうまくいかずに浪人し、米を売りにきた勘定方の家に居候しておる。その者と合わせて仕官したい、と両名揃って申し出てきているのだ。尾張、美濃はおろか、上洛までもなさるのではないかといううわさのある昨今では、ありがたい話であろう」
「確かに」
 惰弱で有名な尾張勢はともかく、勇猛をもって鳴る美濃勢との戦いを控えて、豪の者は少しでも多く欲しい。だが、何かの策略ということはないのだろうか。
「まだ何か疑っておられるのか。仮に織田の策だとしても、いかほどのことができるというのか」
「それはそうですが」
「信秀が死んでから、織田では親族・家臣の裏切り、内乱が相次ぎ、ようやく尾張半国を統一したといっても、結束は望みようもない。そんな状況の信長に、策など練っている余裕はないのではないか」
「油断が過ぎましょう」
「なに、充分に警戒はしております。早耳の新右衛門殿もおられることであるし、夜も安心して寝られるというもの。それでは多忙故、これにて御免」
 あざけるような響きすら隠した笑い声を残して、上野介は立ち去った。
 新右衛門の中に、何かが引っかかっていた。放置していてはいけない何かが。とらえどころのない焦燥感の中で、新右衛門はあがいていた。

 二日後の深夜、岡部元信は三千の兵を率い、東海道を西へ向かっていた。おぼろ月が、声もなく進む真っ黒な一団をあわく照らしている。関所が見えてきた。元信が近づくと、ゆっくりと関所の門が開く。元信は門近くの黒い影に話しかけた。
「ご苦労だったな、半蔵。関番はどうしている」
「薬で眠らせてあります」
「ここから先は岡崎か。岡崎城本丸の新右衛門に伝えてくれ。油断が過ぎるとな」
「かしこまりました」
 黒い影はすぐに走り出した。
 客将にしては、よく働いてくれる。元信はゆっくりと進みながら、あの影を客将に迎えたときのことを思い起こしていた。

 病床にある雪斎長老に呼ばれたのは五年前のことだった。難問山積であった甲斐の武田・相模の北条との同盟は、紆余曲折を経て、その前年にようやく成立したが、同盟までのさまざまな工作を一手に引き受けてきた心労と過労からか、同盟成立以後、長老の顔から張りが消え、病床にあることがめっきり多くなっていた。
「お加減はいかがですか」
 元信は心配そうにたずねた。今川家の全てを取りしきる執権に万一のことがあると、ようやく落ちついた甲斐・相模との関係も急変しかねない。
「もう年じゃて。今年いっぱいというところであろう」
 長老は、なぜか楽しそうだった。
「甲斐の者どもは、今川家は坊主がいなくては、国を保つことができないらしい、などと申しているようです。国のためにも長生きしていただかなくては」
「還暦を過ぎたじじいにおぶられていると言われては、お屋形様も立つ瀬がなかろう。やはり今年中に逝った方がよさそうじゃな」
 元信の心配は、どうも逆効果だったようだ。
「御用の向きは、なんでございましょう」
「おお、そうであった。半蔵」
 どこにいたのか、気が付くと大柄な若者が部屋の隅に控えていた。
「この者は服部半蔵正成という。この者の父の代から松平家に仕えておる伊賀者じゃ。本来なら元康の配下なのじゃが、元康に百人からの忍びを養う金がなくてのう。わしが借り受けておる。同盟成立まで、実によく働いてくれた。あらためて例を言うぞ」
「もったいなきお言葉」半蔵は落ちついた口調で答えた。
「そこで、わしが死んだら、おぬしにこの者と配下の伊賀者たちを養ってもらえないかと思うてな。半蔵はあくまでも元康の家臣ゆえ、客将としてじゃが」
「なんで長老のお頼みをむげに断われましょう。実にありがたいお申し出にございます」元信は間髪入れずに答えた。
「重ねて言うが、この者は元康の家臣であるからな。くれぐれもよろしく頼む」
「かしこまりました。肝に銘じておきます」
 その年の閏十月に、雪斎は他界した。

 今回の岡崎入りの前にも、元信は半蔵にいくつかの工作を命じてあった。
 その工作の一つ、目印として道々に用意されたたいまつを頼りに、元信とその軍勢はゆっくりと進んでいった。雪斎長老のように、国々を動かすほどの用い方はとてもできなかったが、攻城や野戦に際して、半蔵とその配下は、際立った有能さを示してきた。できることならわが配下としたい、その思いから何度も半蔵を誘ってはみたが、「長老様とのお約束をたがえるわけには参りません」と一言返ってくるばかりだった。伊賀の出とはいえ、やはりこの者も三河者か。断わられるたびに元信は同じことを、にがにがしく思うのだった。この者たちを松平元康が使いこなせるのかどうか、元信にはわからなかったが、敵に回せば危険な戦力であることは明らかだった。
 元康に財を持たせぬようにするしかあるまい、長老の御遺志にはそぐわぬかもしれぬが。
 元信には他の策はないように思えた。
 半蔵の調べでは四百から五百、妥当なところだろう。上野介のような小心者がそれ以上の野心を持っているとは思えぬ。
「あれか」
 たいまつの数が変わり、石で組んだ複数の目印が、ある一点を指し示していた。

「一大事でござる!」あわてふためいて駆けこんできた、とのいの者の耳ざわりな足音で、上野介は目を覚ました。
「なんだ、この夜中にそうぞうしい」
「おびただしい軍勢が、この屋敷を取り囲んでおります。逃げようにも逃げ場がございません」
「そんなはずがあるか!」そう叫んで、上野介は少し冷静さを取り戻した。
「で、どこの軍勢だ。織田か、それとも岡崎勢が一揆を起こしたか」
「岡部様の軍勢です。御味方のはずなのに。何が起こったのでございますか」
 とのいの者は、見ているこちらがなさけなくなるほど、蒼白で泣きそうな顔をしている。
「知るか。出迎える。着替えを持て」
 とのいの者は、またばたばたと音を立てながら走っていった。
 耳ざわりな足音にいらいらしながらも、状況を把握しようと上野介が思案を始めたとき。
「ここまで無警戒とは、おそれいったわ」
 甲冑に身を固めた元信が、口元に殺気を含んだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと入ってきた。
 上野介は声をあげることもできなかった。

(十五、岡崎 了)



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