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「美濃から来た童」
作/久住様
十四、岡部元信
その日、岡部元信は登城の予定はなかった。数ヵ月後に迫った尾張侵攻に備え、兵の調練を行なう予定にしていたのだが、大高城の鵜殿から来た急使が、全ての予定をくずしてしまった。
鵜殿を大高城の城代に推薦したのは元信自身だった。いままでの織田の戦い方から見て、今川の本隊が来るまでに、大高城の城兵をおびきだして叩こうとするであろう。だから、いくさ上手ではないが、少々のことでは動かない慎重な鵜殿は適役に思えていた。そこを、かえって敵に利用されたようだ。
城に向かいながら、元信は鵜殿を推薦したおのれの責任について考えていた。それにしても、ぶざまな負け方をしたものだ。せっかく織田勢が内部崩壊を起こそうとしているのに、この敗北で敵は息を吹き返してしまいかねない。
「岡部五郎兵衛元信、まかりこしました」
「入れ」
お屋形様はむずかしそうな顔で、国境付近の地図を眺めていた。
南西の隅に大高城があり、大高城北東の黒末川をはさんで、南から北西方向に丸根、鷲津の両砦が並ぶ。
そして、鷲津砦の北東に中島、その北に善照寺、善照寺の北西に丹下、と織田方の三つの砦が、鳴海城の南東・東・北を取りまいている。鳴海城の西と南は海である。
どうみても、清洲を守るための布陣ではない。大高,鳴海の両城を奪うための布陣である。両城を奪った上で、山が多く大軍の機動には不向きなこの地で決戦するのが織田信長の目論見であろう。それが、お屋形様との間で何度も検討して出した結論だった。したがって、両城が奪われぬうちは、焦って行動を起こす必要はない。そう考えてじっくりと尾張及び美濃侵攻の準備を進めてきたのだが。
「あのうつけがいよいよ仕掛けてきた。おぬしはどう思う」
「大高城は、あと一月はもちましょう。それよりも気がかりなのが鳴海城です。われらの目が大高城に向かっている間に鳴海城を奪われたら、尾張侵攻の策は画餅になりましょう」
鳴海城はお屋形様に誅された山口親子の息子の居城であった。当然、今川をこころよく思っていない者たちも城内に多い。そこを織田方に付け込まれぬよう、元信はさまざまな手を打ってきた。
「そうだな。織田方からみれば、鳴海城を奪い、鷲津・丸根から兵を引き、守りを固めると、いかに兵数の差があろうと、実に守りやすくなる。それだけは避けねばならん。元信、誰を行かせればよいと思う?」
「ぜひともそれがしにお申し付け下さい。敵の策を逆手に取ってみたく存じます」
「おぬしに行かれると、肝心の本陣が手薄になるではないか。おぬしのようないくさ上手でなければ、わが本陣の守りは任せられぬ」
「やはり、敵の籠城はないとお考えですか」
「何度も言ったように、わが本陣を奇襲によって突き崩し、わが首を取る以外、あのうつけに勝ち目はない。だから、敵主力をわが本陣に引き寄せ、包み囲んで逆に織田の首を取るよう、準備を進めておるのだ」
「それがしも、鳴海城への手配りは、他の者には任せられませぬ。ならば、山田新右衛門を岡崎より呼び戻しましょう」
「おお、新右衛門か。うむ、あれほどの才ならば、信長の首を上げるなど、造作もあるまい」
「それがしが直接岡崎に出向き、いままでの経緯を新右衛門に説明いたします故、しばしお時間をいただきたくお願いいたします」
「それはかまわぬ。鉄砲隊の準備も、あと一月はかかりそうでな。本隊の出陣は、急いでも五月半ば過ぎになるであろう」
「大高城がそれまでもちこたえられるかどうか、危ういところですな。それでは、松平元康の岡崎勢を先発させてくだされ。あの者たちでなければ、大高城の救援はできますまい」
「元康か・・・」
お屋形様は急に口ごもった。
元信は表情を曇らせながら思った。
雪斎長老が元康へ特に目をかけていたのを、今もってねたんでいらっしゃるのであろうか。長老は「この者こそ、いずれ輔弼の良臣になる」とおっしゃり、念を入れてあの者を育ててきたのだったが。
そういえば、長老は尾張侵攻には慎重であった。「圧倒的に優勢なればこそ、細心の注意を払わねばなりますまい」長老がそのように言い続けてきたから、尾張侵攻が今まで遅れてきたともいえる。だが、もう万全の態勢に近い。どのような悪あがきをしようと、美濃からの救援のない織田には勝ち目はない。そのはずなのだが。
「勝利の後には、松平元康に岡崎城を与えると仰せになれば、岡崎勢だけでも織田を滅ぼしてくるのではありますまいか」 元信は自分の気持ちを変えようと、少し冗談めかして言った。
「それはならぬ」お屋形様の目の色が変わった。
「なぜでございますか」元信は少しうろたえながら、けんめいに何かを考えようとしていた。
「家祖国氏公が三河国播豆郡今川荘を領して以来、三河はわが父祖伝承の地。乞食坊主に率いられた山賊どもの末裔などには、寸土も三河の地はやれぬ」
絶句している元信をみやり、穏やかな顔つきになってお屋形様は続けた。
「時勢に合わぬ考えと思うであろうが、乱れ切ったこの世を正すには、どこまでも道理を正さねばならぬ。わしはそのために兵をおこすのだ。わかってもらおうとは思わぬが、やってくれるな」
「御意」
呆然とうなずきながら、元信は思った。お屋形様にはそのための知恵も力もある、世を正すに必要なものはすべてお持ちのはず。だが、何がお屋形様に欠けているのだろう。長老はそれを御存知だったから、その欠けている何かを元康に輔弼させようとなさっておられたのだろうか。
その役は新右衛門にさせなければならない。
「それがしに、鳴海城到着までの間、三河における全権をお与え下さい」
「かまわぬが、何をする気だ」
「三河にいる間に、敵の打つ手を封じてまいります。どのような手を打ったかは、新右衛門を通してご報告いたします」
「期待しておるぞ」
「ありがたき幸せ」
敵に対しても、岡崎勢に対しても、さまざまな手を打たねばならない。わが家中に対しても。そして、お屋形様に対しても。
何かが間違っているような違和感をおぼえつつ、その気持ちを振り払うように、元信は考えを続けていた。
長老殿が御存命でいらっしゃったら。
どうしようもないことながら、うらめしく思えてくる元信であった。
(十四、岡部元信 了)