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「美濃から来た童」
作/久住様
十三、開戦
鉄砲の轟音は、山上の砦にいる四郎にさえ、耳をつんざくように強く響いた。
穴に板を敷いていた人足たちが後方に逃げて行く。降り注ぐ火矢が彼らの足を速める。
警護の武士たちは右往左往するばかりで何もしていない。
「充分に物見も出さぬとは、油断にもほどがある」玄蕃が怒ったようにつぶやいた。
「まあ、それもおぬしらが存分に穴を掘ったおかげかもしれぬが」
「穴掘りと関係があるのですか」四郎は今もって納得できずにいる。
「人間、一つのことにばかり気を向けると、他のことがおろそかになるものでな。敵もそれなりに用心はしたようだが、穴掘りの意味に気を取られすぎたのであろう」
たいまつを持った騎馬隊が進んでくると、警護の武士たちも逃げはじめた。
「早くもくずれたか。のろしを上げよ」
隼人正はのろしを待ってはいなかった。
列の先頭の方からの銃声を聞くや、最後尾を警護する武士たちは、逃げる人足たちに声をかけることもなく、荷駄を放っておいてわれ先に前へ進んで行った。
素人だな。ならば手間はかからぬ。
兵を伏せていた隼人正は、合図をすると、立ち往生している荷駄の最後尾へみずから進み、油の入った袋を投げつけた。配下の者たちも次々に、それぞれの獲物に向かって袋を投げつける。
列の前方へ向かった警護の武士たちが戻ってくるのを見て、隼人正は次の合図をした。配下の者たちが荷駄から離れるのを見ながら、自身も荷駄から離れていく。
「放て」
火矢が荷駄に放たれ、たちまちあたりは火に包まれた。警護の武士たちは、あわてて列の前方へ逃げて行く。
「まだ追うな」
火の勢いが弱まるのを待ちながら、隼人正は考えていた。われらが行くまで、敵は持ちこたえていてくれるであろうか。
銃声を聞きつけて前進してきた者たちを見て、逃げていた先頭の武士たちも、ようやく列の中ほどで踏みとどまった。間髪を入れず、近江守は叫んだ。
「燃やせ!」
手にしたたいまつで近くの荷駄に火を付け、騎馬隊が退きはじめる。
「放て!」
前進を終えていた弓隊が、火矢を荷駄に放った後、今度は通常の矢を放ちだすと、敵は再びくずれはじめた。
近江守は橋近くで待機している鉄砲隊のところへ行き、指示を与えた。
「敵を橋に近づけるな。当たらぬ距離でもよい、鉄砲の届くところまできたら、撃て」
それから、鉄砲上手の二十名を特に選び、別の指示を与えた。
「おぬしらは、橋の中ほどに狙いをつけ、橋を渡る者を撃て。一人も通すでないぞ」
ようやく大高城から五十騎ほどが橋に向かって駆けてきた。銃声の出迎えを受けてひるんだ味方をたてなおそうと、物頭らしい者が叫びながら単騎で橋に突き進んでいく。「弾込めの間に橋を渡れ、進むは今ぞ!」言い終わらぬうちにたちまち蜂の巣にされた物頭の後に、続く者はなかった。
火は、すきまなく数珠つなぎになった荷駄を次々と飲み込んでいき、見ている四郎のところまで熱気が伝わってくる。前後から押し寄せる火の海に、人足たちも武士たちも川に飛び込んでいく。
大高城からの救援は、橋をはさんでにらみ合う以外、何の手も打てずにいる。
徹夜の作業で疲れているはずの兵たちも、四郎と同様、柵のそばで、食い入るように下の様子を見つめていた。
「終わったな」玄蕃の声に、四郎はわれにかえった。
確かに、大高城に通じる最も重要な道は、荷駄の残骸によって閉ざされた。
荷駄隊を川の上流で渡河させるにしても、鷲津・丸根の両砦からの妨害を受けては、大高城へ充分な補給をすることはできない。ということは。
「いや、始まりかもしれぬ」四郎の考えを読んだかのように、玄蕃はつぶやき、四郎の顔をながめて笑顔で言った。
「おぬしにはまだまだ苦労をかける。すまぬことだ」
玄蕃のいつもの笑顔の奥にある哀しみに、四郎ははじめて触れたような気がした。
「全滅だと」鵜殿は呆けたような声で言った。
「街道も封鎖されました。御城代、いかがいたしますか」
「兵糧は城内にどのくらいある」
「およそ一月分、節約しても二月はもちませぬ」
戦闘状態に入った以上、兵の数を減らすわけにはいかない。
「あの砦を落とさねば、この城は落ちる」
まわりの者たちの顔色が変わった。口にすべきでないことを口にしてしまったおのれのうかつさを悔やみながら、鵜殿は続けた。
「この上は、御館様に総攻撃を早めていただく。皆、それまでこの城を守りぬくのだ」
まわりの者の不安そうな表情が一変した。大軍による尾張侵攻の準備が進んでいることは、誰もが知っていた。
千や二千で落とせる両砦ではない。なんと思われようと、御館様に動いていただかねばならぬ。鵜殿は自分自身の不安を懸命に振り払おうと考えを続けていた。
清洲城では、前線の動きと関わりのない軍議が、今日も続いている。奇妙なことに、信長は出席しない。軍議の中味も、籠城なのか打って出るのかという方針に関して話し合うばかりで、いかにして今川の大軍を破るかという具体性はまったくないまま、ただだらだらと続いている。かえって、中座してひそひそと話し合う者たちの話の方が、具体性を帯びていた。
今川の使者との関係をかぎまわっている者がおるらしい。簗田と申したか。
まことか。それでは、あまりおおっぴらには使者に会えぬ。困ったことじゃ。
今川義元は、返り忠を好まぬと聞くが。
よほどの手土産がないと難しいか。
耐えきれずに、柴田勝家は席を離れた。この上は、真っ先駆けて討ち死にするか。そうでもしなければおのれの気がすまなかった。
信長は重臣たちを無視して、密かに簗田政綱の報告を聞いている。
「今川の使者と接触を絶っているのは、柴田勝家と丹羽長秀の両名のみ。他の家老は、何らかの話し合いを今川の使者と続けております」
「まあ、そんなところだろうな。他に動きはないか」
「善照寺砦の守将、佐久間右衛門ですが」
「今川義元に誅された、鳴海城の前城主の息のかかった者と接触しているはずだが」
「どうやら敵方に通じ、殿の首を手土産にする策を立てているようです」
「まったく、誰を信じていいのやらわからぬな。おぬしはなぜ今川方に走らぬのだ」
突然の質問に、簗田はうろたえた。その反応を見ながら信長は続けた。
「案ずるな、言ってみただけのことだ。これからいくさが迫ってくる。勝手に兵を動かそうとする者がないよう、よくよく見張っておけ」
「かしこまりました」
(十三、開戦 了)