「美濃から来た童」
作/久住様



十二.鷲津・丸根


 ようやく待ち望んだ十日目の夜明けが来た。大高城へ通じるすべての道は、見渡す限りの穴に覆われている。兵の損害もなく、まずは成功というところか。だが、こんなことがいったい何の役に立つのだろう。千秋四郎は、一応の達成感と、胸いっぱいの疑念とが入り混じった重苦しい疲労感をかかえながら、同様の疑念と疲労を共有している配下の者たちと共に、鷲津砦に戻ってきた。
「ご苦労だったな」織田玄蕃は、相変わらず屈託のない笑顔で四郎たちを迎えた。
「ともかく終わりました。成功したと申し上げてもよろしいのでしょうか」
「まだだ。いますぐ取りかかってもらわねばならぬことがある」
「何をせよとおおせで」
「なに、穴掘りほど難儀ではない」そう言う玄蕃の笑顔を見ていると、腹を立てる気が起こらなくなってくるから不思議だ。玄蕃の指示に従い、不満げな兵たちの表情をあえて無視して、四郎は砦のあちらこちらに旗指物を据え付ける作業を指揮し始めた。


「終わったか。よくやってくれた。どうにか間に合ったようだ」
ほっとしたような顔をしている玄蕃に、四郎は食って掛かった。
「兵たちが動揺しております。御説明下さい。なぜ、砦に他の兵がいないのですか。逃亡したのではないかという噂すら立っております」
「じきにわかる。まずは兵に休息を取らせよ。ただし、眠らせてはならぬ。いつでも集合できるように待機させておくのだ」
 なおも不満げな様子の四郎に、玄蕃は優しくさとすような口調で言った。
「じきにわかる。まずは休んでおけ」


「それでは最後尾が通り過ぎるまでは手を出さぬのですな」
「のろしを合図と定めてあるが、銃声で判断してもかまわぬ」
 佐久間大学は、佐々隼人正のいくさ慣れした感覚を信頼し、すべて任せることにしていた。
 隼人正の隊は、四郎の隊より一日早く穴掘りを終え、前日に充分な休息を取っている。
「しかし、両砦を空にするとは、思い切った作戦ですな」
 隼人正は感心したように言った。
「大高城を制するための両砦よ。守るためではなく、攻めるための砦であろう? それを敵に気取られぬよう、守りの備えを厚くし、見よ、鷲津にも、この砦に負けぬくらいの旗指物が、盛大にはためいておるわ」
 大学と隼人正は鷲津砦を見やり、大高城を見つめた。何の動きも見えない大高城に向かって、大学はつぶやいた。
「始めるか」
「いよいよですな」
「重ねて言うが、兵を失なわぬいくさを頼む。焼き払うだけでよいのだ」
「おまかせあれ」
 やがて、静かに、かつ整然と下山していく隼人正の隊をひとり見送りながら、大学はつぶやいた。
「頼むぞ、今は死ぬなよ」


 大高城へ兵糧を運ぶ今川方の荷駄隊は、いつもの道をいつも通りに進んでいた。違うことといえば、大高城城代からの連絡により、人足は二倍、警護の人数は三倍に増やされ、穴をふさぐための板も運んでいる。
 城代の鵜殿は臆病者よ、織田の姑息な策におびえておる、と警護の者たちがにぎやかに話をしている間に、織田方の丸根砦のある小山が視野に入ってきた。さすがに無駄話はおさまり、丸根砦と、その先の小山にある鷲津砦を、警護の者たちはじっと見つめながら進んでいく。かわってぶつぶつといい始めたのは、道上にやたらとある穴に次々と板を渡していく人足たちだった。敵の砦を目の前にする道を通っている緊張感はないわけではなかったが、鉄砲の上手でも、狙って当たる距離ではない。銃声がしても脅しに過ぎないことは、人足たちにも警護の者たちにも、周知のことであった。
 ようやく橋が見えてきた。橋を渡れば大高城はすぐである。めんどうな作業をさっさと終わらせようと、人足たちの動きも早まる。荷駄隊は、いつもの倍の時間がかかっている以外は、いつものように進んでいた。


「兵たちを集めよ」玄蕃が言った。「自分たちがいかに大切なことをしていたのか、兵たちに教えてやるがよい」
「どういうことですか」四郎にはまったく腑に落ちなかった。敵の荷駄隊は穴々に板を渡し、悠々と進んでいる。自分たちがまったく無駄なことをしてきたようにしか思えずにいるのに、大切なこととは。
「この砦の下で何が起こるか、皆に見せてやるだけでよい。さあ、急げ」
 兵たちを砦の柵近くに待機させ終えて、四郎が玄蕃のもとに戻ると、玄蕃は待ちかねたように言った。
「よく今まで辛抱したな。おぬしの辛抱強さを見込んだわしの目に狂いはなかったようで、うれしく思うておる」
「まったく腑に落ちませぬ」
「なまなかな辛抱ではできぬ役をおぬしに任せられるか、試しておったのだ。あれがおぬしらのやりとげたことよ。何が見える」
 玄蕃は下を指差した。今川方の荷駄隊がすきまなくぎっしりと並んでいる。
「敵の荷駄が並んでおります」
「すきまなく、な。そろそろであろう。見ているがよい」


「敵の先頭が橋の近くに達しました」
「火!」
 何十というかがり火が、一斉に燃え上がり、真昼の空に黒々とした煙を上げる。
 暑い。飯尾近江守は、したたり落ちる汗に構おうともせず、命令を発していた。
「鉄砲隊、前へ!」
 小競り合いとはいえ、百丁の鉄砲が前進する様子は、なかなかに壮観である。
 近江守は鷲津・丸根の両砦の兵を合わせた八百あまりを川近く、大高城への道の、山を挟んだ反対側に布陣させている。
「出るぞ」
近江守は、配下の騎馬隊に命じた。手に手にたいまつを持った騎馬隊が前進を開始する。
「撃て!」
 すさまじい轟音がとどろいた。だがこれは、敵の足を止めるためのもので、実効はない。
「これでよい」近江守は轟音の大きさに満足した。玄蕃と大学の両名に約した通り、
 華やかないくさをするのだ。この世への未練が残らぬよう、盛大に。わしはそのためにここに来たのだ。 「放て!」
 おびただしい火矢が宙を舞い、山向こうに降り注ぐ。弓隊も徐々に前進していく。
「鉄砲隊は橋からの敵に備えよ。騎馬隊、行けえ!」
 叫ぶなり、近江守は川に向かって突き進んだ。すぐに、あわてふためいている敵の姿が左手に見えた。
「功名をあげるは今ぞ! 首はいらぬ、焼くのだ!」

(十二、鷲津・丸根 了)



「十一.大高城」

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「十三.開戦」

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