「美濃から来た童」
作/久住様



九.織田信秀


 いつのまにか雨音がしている。寝所の布団の中で目をつぶったまま、夢うつつながら、信長はいつものように寝つかれぬ夜を過ごしていた。
 このところ、父、信秀の夢をみるようになった。人は死を目の前にすると、今までの一生を一瞬にみるというが、あるいは死に近づいているのかもしれぬ。
「死のうは一定」
 小唄の文句がふと口をついて出た。
 死のうは一定 しのび草には何をしようぞ 一定かたりおこすのよ
 (いずれ死ぬるが定めであれば、思いのままに生きるものよ)
 なぜ好きになったかわからぬが、折々に唄ってみたくなる文句だった。
 雨音がさらに大きくなってきた。
 雨といえば、子どものころ、よく父上に冗談めかして言われたものだ。
「おぬしと遠乗りをすると、いつも雨が降る。次からは雨を連れてこぬようにせよ」

「また雨か。おぬし、いつ雨の神と仲良うなったのだ」
 急に土砂降りになった。雨具の用意はしてあったが、毎度のこととて、信秀は閉口している。
「別に、招いたわけではございませぬ」
 信長にしても、雨を好むわけではない。雨降らしの犯人扱いは迷惑だった。
 馬を急がせながら、二人は大声で話しを続けた。
「おぬしの守り神が、雨の神だとすると、雨中でのいくさの組み立て方を教えておかねばならんな」
「守り神などおりませぬ」
「まあ聞け、おぬし、このあたりの土をどうみる」
 信長が下をむいたとたん、馬がぬかるみに足を取られた。たまらず落馬し、泥だらけになった信長に向かって、信秀は言った。
「さあ、その土をつかんでみよ。肥えているであろう。尾張の百姓が、何年、何十年、何百年をかけ、丹精こめて耕してきた土だ。この土が尾張を守る最後の砦になるやもしれぬ」

 いつのまにか信長はまどろみ、父の夢をみていた。
 波の音がする。
「この者たちは何をしているのですか」
 信長は父に連れられて、中島近くの浜に来ていた。
 漁民たちが大勢で忙しそうに立ち働いているが、魚は一匹も見えない。
「塩を作っております」
 父より先に、案内役をしている漁師が答えた。
「塩は、海の水を干して、このように作るのです」
 はじめて見る光景の一つ一つがめずらしく、信長は漁師を質問攻めにしていた。
「おや、これはいかん」
 漁師はふと遠くの空をみるや、急にあわてて、
「恐れ入りますが、こちらの小屋にて、しばらくお休みくだされ」
「どうしたのだ」信秀が不思議そうに尋ねた。
「大きな雨雲をみつけました。この風ですと、あと半刻ほどで大雨になりましょう」
 信秀が、またかという表情で信長の顔を見た。
「どうしてわかるのですか」信秀にかまわず、信長は質問を続けた。
「塩を作っておりますと、雨が恐ろしゅうございます。そこで、雲の動きをいつも見張り、雨を降らす雲がいつ来るかをさぐっておるのです。父には厳しゅうしこまれましたが、近頃ようやっと、大きな間違いもなくわかるようになってまいりました。殿様、皆を手伝わねばなりませんので、これにて失礼仕ります」二人を漁師小屋まで案内すると、漁師は走って手伝いに行った。
 半刻ほどして、空はにわかにかき曇り、大雨になった。


「また石合戦か」
 信秀は機嫌がいいらしい。めずらしく笑顔をみせている。
「はい」信長は汚れた衣服にかまわず、座ったまま父に答えた。
「頼りになる者はおるか」信秀は愛想よくたずねた。
「はい、何人もおります」誇らしそうに信長は話している。
「人と人のきずなは、心と心が通い合ってはじめて結ばれるもの。その者たちとはどうだ」
「申すまでもございません」
 信秀の目が、一瞬悲しそうにまたたいた。
「ならば話そう。この言葉をよく覚えておけ。決して忘れるでない。
 兵はこれを育むこと、わが子のごとく、
   これを用いること、土芥のごとくせよ。
 兵書の言葉だそうだ。いずれ、思い知らされる日がきっと来よう。来ぬことを願っておるが」
 信長は言葉もなく、ただ言いしれぬ不快感を感じ続けていた。


 読経の声がする。怒気を全身から発しつつ、一歩一歩足を踏みしめながら、信長は寺に入っていった。本堂に並んだ親類、家臣、弔問の使者、坊主、何もかもがくだらなかった。こんなものが父上か。壇上の位牌をにらみつけて、信長は思った。こんなことが父上にとって何になるのだ。信長は列席者を一人一人にらみつけていった。弟の信行がおびえたように母上の方をみやる。くだらん。父上、こんなものはぶちこわしてやります。信長は壇に向かって進み、香をわしづかみにし、位牌に向かって叩きつけて叫んだ。「くそ食らえ!」


 読経の声に聞こえたのは、雨音だった。
 まだ夜は明けていないようだ。
 このごろ、いつも同じような夢をみる。同じことばかり考えているのだから当然なのかもしれぬが。
 あの書状がみさせた夢だ。特に今夜は、はっきりと夢をおぼえていた。
 小六と名乗る男が持ってきた、蜂須賀党の真の頭領からの書状には、ただ一行書きつけてあった。
「今川鉄砲隊、新編の二百を合わせ五百丁、馬廻りにあり。如何」
 俺の狙いは義元に見抜かれている。だが、全てを読まれているわけではない。
 俺を動かそうという、書状の主の意図は不愉快だが、欲しかった情報であることは間違いない。
 動かねばならぬ。義元を動かすために。

「誰かある」
「控えております」
「鷲津、丸根の玄蕃と大学に伝えよ。明朝そろって登城せよと」
「かしこまりました」
「夜は明けたか」
「じきでございましょう」
 雨音は衰える様子もなく、真っ暗な夜明けが目の前にある。
 これこそが今の俺にはふさわしい。
 こみ上げてくる笑いが、信長の顔に浮かんでいた。
 
(九.織田信秀 了)



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