「美濃から来た童」
作/久住様



七.木下藤吉郎


「藤吉郎、つけられておるのではないか」又左衛門は心配そうな顔で藤吉郎にたずねた。
「音に聞こえた剛の者のおぬしが、案外肝が小さいのだな」藤吉郎が不思議そうにこたえる。
 対照的な二人連れだ。春うららかな陽気の中を、のんびりと歩いていく藤吉郎に対し、又左衛門は落ち着かなげにあたりに目を配っている。
「いくさならば腹も据わるが、こんなところで討たれては、犬死ではないか」
「は、よほどいくさ場が恋しいとみえる」
「恋しくはないが」又左衛門は困った顔になってきた。「ここでは死にとうない」
「案ずるには及ばぬ。つけられておるのはまことなれど、後をつけてきておるのは百姓じゃ。それも一人。一対一ならばおぬしが負けることはあるまい」
「何故わしらの後をつける、今川にでも雇われたか」なおもいぶかしげに、又左衛門は首をひねっている。
「まさか。今川は百姓など使わぬよ。百姓は農作業をしておればよい。ただし、いざというときは弾除け代わりに使い捨てる。それが今川の百姓の使い方よ。岡崎勢の扱われ方をみればわかるではないか」
「それもそうだが」
「おおかた、織田の動きに興味がある物好きがどこかにいるのであろう。その者の考えがなんであれ、今川の味方ではあるまい」
「なぜ、そう言い切れる」
「今川が尾張を飲み込んで、喜ぶ者がどこにいる? 盟約を結んでいる武田,北条にとっても迷惑な話であろう」
「ならば、なぜどこも織田に加勢しようとはせぬのだ」
「今川と正面きって戦える者は、皆今川の隙をうかがっておる。今川の大軍と正面から戦おうといううつけ者はわが殿ぐらいであろう」
「勝ち目はあるのかのう」
「わからぬ」藤吉郎はことばを切り、まばゆい緑に目を細めた。
「勝ち目があろうとなかろうと戦うまでだが」又左衛門は心中の不安を隠そうともせずに、愚痴をこぼした。
「わからぬが、籠城でないことは決まっておるようだ。ということは、殿の御心の中には、籠城以上の策がある。だからこそ、こうして米売りの交渉をしに行くのではないか」
「うむ、それはよいのだ。だが」又左衛門はなおも不安そうに言った。
「だが、わしが一緒に行く理由がわからぬ」
「大勢では目立つ。わしでは目立たぬ」不安の抜けない又左衛門に業を煮やした様子で、藤吉郎は言い放った。
「そのような謎かけをされてものう。大勢で目立つのは確かにまずかろう。だから腕の立つ者をと考えるのもわかる。だが、それがわしである意味が、何かあるように思えてならぬ。藤吉郎、わしはおぬしの策にまんまとのせられておるのではないか?」そう言われて、藤吉郎は声高く気持ちよさそうに笑った。
「又左よ、おぬしをいささかみくびっておったかもしれん。いかにもわしの策はおぬしなしには成り立つまい」
「また、人の悪いことを企んでおるのであろう」又左衛門も声を上げて笑った。
「そうよ。おぬしをつけた方が米が高く売れるでのう」藤吉郎が意地悪そうに笑った。
「すると、わしは添え物か」
「いや、相手によっては、米の方が添え物になる。矢立ての孫四郎の名を知っておる者なら」いたずらっぽく語る藤吉郎に、又左衛門は真顔になった。
「おぬし、わしに主家を裏切れと」
「そのふりだけでよい。それに、今のおぬしに主家などないではないか」
「孫四郎の名を捨てたは、捨てられぬ主家があるからだ」又左衛門は声を荒げた。
「それでこそおぬしよ。さっきまで何をびくびくしておったのだ」藤吉郎はこらえ切れずに笑い出した。
 一瞬虚をつかれた又左衛門も、さらに大声で笑い出した。
「やはり、おぬしは人が悪い。藤吉郎ほどの悪人はみたことがないわ」
「それは過分なほめようじゃ。まだまだ天下には悪人が山ほどおるぞ。殿にしても、御心中には悪辣な策略が渦巻いていようぞ」
「待て、藤吉郎」突然、又左衛門が何かに気づいたように口をはさんだ。
「まさかおぬし、」言いよどむ又左衛門を藤吉郎はにやにやながめている。
「まさかおぬし、織田家が滅ぶにしても、わしの仕官先があるように、などと考えてはいまいな」藤吉郎が真顔になった。
「もしものときには、わしはまた松下殿を頼る。だが、おぬしのような者は、何があっても大身で召抱えられるが道理」
「藤吉郎、言ってよいことと悪いことがあるぞ」
「おぬしにはすまぬが、これが百姓の策の立てようよ。名を残すよりも、家を残すよりも、命を残すが大事。それがわからぬなら、武士などやめてしまった方がよい。人殺しを生業とするだけの男になってくれるな、又左」
 しばらく黙り込んでいた又左衛門だったが、急に藤吉郎の両肩をつかみ、
「ようはわからぬが、無性におぬしの策にのりたくなってきた。詳しく説明してくれ」
「もうのっておるというに。まあ、せくな。のんびりと旅を楽しもうぞ」
 道々、藤吉郎の説明が続いた。やがて、
「いよいよ国境の関所が見えてきたか。又左、よろしく頼む」
「任せろ」
 又左衛門は関所の前まで進み、大声で叫んだ。
「尾張浪人、前田孫四郎、今川家勘定方に用向きがあって参った。取り次がねば押し通る」
 やがて、番人があわてて走り出てきた。
「入れとさ、藤吉郎、後は頼む」
「任せておけ」


(七.木下籐吉郎 了)



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