「美濃から来た童」
作/久住様



六.駿府


「殿さんも気が長いことよ」彦右衛門は心の中でつぶやいた。よくもまあ、同じ話を三人から聞いて、同じように驚いてみせ、同じように質問し、同じようにありがたがれるものだ。
 じれている彦右衛門を気にも止めずに、彼の殿さんである松平元康は、少しも倦むことなく、甲斐甲斐しく接待しながら、話しを聞いている。話しているのは、広間を警護する係の者で、彼と同じ役をしていた二人は、すでに一人ずつ別々に元康に呼ばれ、接待を受け、良い気持ちになって退出している。
「いっそ一度に三人呼べば手間がかからぬものを」接待の費用とて、食うや食わずの岡崎勢には大変な負担である。が、殿さんには殿さんのお考えがあるのだろう。

 元康にとっては、死活問題であった。元康の岡崎勢は、いくさのたびに、必ず先陣を勤める、いや、弾除け代わりに使い捨てられる。にもかかわらず、事前の評議の席に、元康は参加できない。事前に元康に知らされるのは、たとえば、「兵千を率いて、浜松城へ向かえ」といった命令のみで、攻撃なのか、防御なのか、何を準備するべきなのか、誰を連れていくべきなのか、実際に行ってみるまでわからない。だから評議のあるときには、元康は広間の警護の者を招いてささやかなもてなしをし、評議の内容や雰囲気を少しでも事前に知ろうとした。岡崎勢を人扱いしていない今川家においても、下士の中には岡崎勢に同情するものが多かった。岡崎勢の死に狂いのために自分たち駿河勢が助かっていると感じる者。城を落とす直前に、代わりの部隊と交代させられ、恩賞はおろか、城を落としたという名さえも奪われるという岡崎勢への扱いに、純粋に憤りを感じている者。いざというときの岡崎勢の寝返りを心配する者。理由こそ違え、見返りのない奉公へのやりきれなさに対する傲慢な憐れみが、その同情の奥に共通してあった。だから、こんなやつらになんで酒肴を振舞わねばならぬのか、と彦右衛門に意見されることもしばしばであった。この程度のことで、いくさで死ぬ者が幾人かでも減るなら、ありがたいではないか、と元康は彦右衛門に言いたいのだが、毎度見せ付けられる、我が殿が今川の下士に頭を下げて酒を注いでいる光景をかみしめながら、悔しさでいっぱいの彦右衛門の顔を見ていると、同じ悔しさをかみしめている我が身が強く感じられ、「もうよい」としか言う言葉がなくなってしまう。今も、元康はそんな感情はおくびにも出さず、懸命に接待をしていた。

「ささ、お酒を召し上がれ。こちらの料理は、お口に合いませぬか」
「うん、それがしにはいささかひなびてござるな。塩辛いようで」
「ああ、これは申し訳ございませぬ。すぐに代わりの料理を用意いたします。これ」
 彦右衛門が進み出て膳を取り、部屋の外に待機している小姓に渡した。
 受け取った小姓の目の色が少しおかしかった。気になった彦右衛門は、後で控えの間に行くことにした。元康の接待は続いている。
「して、尾張への出陣は秋までに行なうとのこと、決まったのでございますか」
「ああ、鉄砲隊の調練が整い次第、兵二万五千で織田を蹴散らし、美濃国境まで兵を進めるとのこと、御館様がお決めになられた。遅くとも収穫の時期までに美濃との国境を固めるおつもりのようじゃ」
「それまでの間、尾張にはいかなる手を打たれるのでしょうか」
「さて、どうであろう。そういえば、このような話もあった。『山口、戸田の謀反の件は織田の策であったようで、惜しいことをいたしましたな』と御館様に申し上げた者がおったが、御館様は一言、『返り忠は好まぬ』とおっしゃった。織田の重臣たちには気の毒なことになりそうじゃな」
「では、出陣までは特に調略などは行なわぬと」
「で、あろうな」
「鉄砲隊の調練はどのように進んでいるのでしょう」
「馬廻りの者の従者たちに、いきなり鉄砲を持たせるのだから、難しいのであろう」
「鉄砲は全て、御本陣に?」
「うむ、しかも、狙いは付けずともよいから、急いで何発も撃てるようにとのおおせのようで、『これでは調練にならぬ』と鉄砲頭がこぼしておった」

 これははじめての情報だった。元康は接待をしながら思案を重ねた。大量に買い付けた鉄砲が先陣にはまわってこないのであれば、鉄砲への対策を立てねばならない。弾除けがいる。だが、鉄の盾などを作らせる金はない。何かないのか。まさか丸太を組んで運ぶわけにもいくまいし。そうか。竹ならば、工夫次第では盾にできるかもしれぬ。いくつか作らせてみて、試さねば。
 彦右衛門が料理の膳をささげ持ってきた。

「ああ、これはうまい。そういえばこんな話も出ていたな。『尾張を取れば、今度は尾張守でございますか』とたずねた者がいて」
 これもはじめて聞く。彦右衛門は思わず耳をそばだてた。
「御館様の御機嫌が突然、悪しゅうなられた。『三河は足利縁故の地、尾張などと一緒にするでない!』と一喝なされた。見事であったよ」
 元康は何食わぬ顔をしていたが、無念さを隠せない彦右衛門は席を離れた。岡崎はもはや我らの地にはならぬのか。たった一つの希望を信じて死んでいった仲間たちの顔が浮かんでは消えていった。いつのまにか、彦右衛門は控えの間に来ていた。膳を囲んで小姓が四人集まっている。先ほどの小姓が彦右衛門に気づき、顔色を変えた。先ほどの残り物を漁ろうというのか。
「ぬしらは、犬か!」彦右衛門は叫んでいた。小姓たちは顔を上げることもできずにいる。
「我らいかに犬とさげすまれ、食う米もなかろうと、心根までは腐らせぬと、命を懸けて証しているものを、ぬしらは身も心も犬になるというか。それならば、わしは今ここで腹かっさばく」
 彦右衛門が刀に手をかけると同時に、小姓の一人が膳の料理をわしづかみにし、床に叩きつけた。泣きながら何度も何度も料理を踏みつける小姓を抱きしめて彦右衛門は言った。
「それでよい。それでよいのじゃ」
 我知らず、涙があふれ出ていた。

(六.駿府 了)



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