「美濃から来た童」
作/久住様



五.織田信長


 小六の戻りは、案外早かった。
「首尾よく信長と会えたのですね」
 童がたずねても、小六は呆けたような顔つきをやめない。
「はあ、会えました」
「百騎以上の騎馬を前にして、信長は何と言いました?」
「うまくは言えませぬので、起こりましたことをそのまま申し上げます」
「そうして下さい」
 機転や感受性よりも実直さがとりえの小六である。
 童もそこに信長を判断する鍵を置いた。
 大愚か大賢か、実直さだけの鏡に何が映るか。
 童は美濃と尾張の未来の全てを小六の実直さに賭けたくなっていた。
 小六が口を開いた。
「清洲に近づきましたころ、信長公の御使者がいらっしゃいました」
「何騎で?」
「一騎のみでございました。されど、辺りに多くの気配を感じました」
 忍びの頭であろう。それを単騎でよこす意味を、童は考えあぐねていた。
 小六は童の様子に関わりなく話を続けた。
 まるで早く話し終わって、憑き物を落としたいかのように。
「その者、前野長康と名乗り、『清洲城下へ案内いたす』とひとこと言ったかと思うと、脱兎のように駆け出しました」
「駆け出した?」
「はい。まさか大勢で追いかけるわけにも参りませんので、他の者を留め、我が一騎のみで追いかけました」
 しばらく考えていた童は、感嘆して言った。
「よくぞ、そのようになされましたな」
「いいや、他に取るべき途はございませなんだ」
 言われてみればその通りであるが、そう行動できるかどうかで、すべてが変わってしまう。
 小六は童の沈黙にかまわず話を続けた。
「追いかけていくと前野長康は立ち止まり、『よろしいので?』とひとことだけ問い掛けましたが、こちらが黙ったままなので、『城内に御入り召されよ』と言って、さらに急ぎました」
 童は、小六を選んでくれた道三の深慮に、今更ながら有り難さを感じていた。
 童がみずから行っていれば、すでに何度も過ちを犯している。
「清洲城内へ入りますまで、辺り一面、殺気に満ちておりましたが、どこか、実感が沸きませなんだ」
「そうでしょう。ただ一騎、前野殿の後に付いて進んで行くだけでは」
「よくはわかりませぬが、おっしゃる通りなのでございましょう。城下を何事もなく過ぎ、城内に入りますころには、まったく殺気がなくなっておりました」
 それも、よくわかる。まったく何の策も弄していない者を前に、いつまでも殺気を継続していられるはずもない。
 小六は、何も考えていなかった。本能的に危険を感じていただけだ。
 童は己の力のなさを、つくづくと味わっていた。
 小六が話を続けた。
「前野殿と二人で城内に入りますと、小姓に案内され、広間に通されました。そこに織田信長、一人で待っておりました」
「一人でですか」
「左様。信長はそれがしを見るや、『よくぞ参られた』と喜色を浮かべて申されました」
「ふうむ」警戒するのが当然であるのに、歓迎する真意はどこにあるのだろうか。童は考えあぐねていた。
「信長の申すには、『近来、今川勢来襲の噂がしきりに流れ、我が城下は、出て行く者はあってもやってくる客人は数えるほどしかない。しかも来る者は皆、今川の手の者ときておる。いまこのときに、今川と関わりのない客人を迎えるとは、吉兆でなくてなんであろうぞ』とのことでした」
「ううむ」童はますます頭を抱えてしまった。この余裕のもとに、何があるのだろう。虚勢なのか、開き直りなのか、それとも、少しでも実を伴っているのか。
「そして、信長はそれがしに『百五十騎で来たそうだが、その者たち、普段は何をしておる』と尋ねてきました」
「どう答えたのですか」
「それがし、口舌の才覚は持ち合わせておりませぬ故、ありのままを答えました。『荷運びの警護をしております』と」
「それでどうなりました」
「すると、『荷運びはどこからどこまで、どのようにしているのか』と妙なことを尋ねてまいりましたので、『一人一人が駿河、遠江、三河、尾張、美濃、近江のすべての地をまんべんなく回っていくように手配しております』と答えますと、しばらく黙っていた後で、突然信長は、『おお、わかった』と大きな声を出しました。前野殿が、『何がわかったのですか』と尋ねますと、信長は、『長康、そちは街道をどのくらい存じておる』と問い返しました。前野殿が、『さて、尾張から三河、美濃の間ぐらいは存じておりますが』と答えますと、信長は、『それも大通りのみで、裏道などは不案内であろう。小六殿はいかがかな』と尋ねてまいります。『裏道も存じておらねば、不都合が起こることもございますれば』と答えました。すると信長は『さても、恐ろしきつわものどもよ』と真顔で申しました。それがし、『ご冗談を。ただの人足でございます』と申しましたが、信長は『いや、おぬしの百五十騎なら、一万五千を相手に戦うこともできよう』と、ますますわけのわからないことを口走ります。それがしが呆然としているのをみて、信長は、なにやら合点がいった様子で話を変えました。『ところで、今川勢がこの清洲に押し寄せてきたらどうなるとお思いか』それがし、とっさには言葉が出ませなんだ。信長が申すには、『駿河、遠江、三河、三カ国の三万あまりを相手に、我が手の者は五千ばかり。この人数で国境を守ろうと、駆け回ろうと、百に一つの勝算があるか、考えるまでもないこと。大軍を迎えて三日かそこら、守り通したとしても援軍が来るわけもない。国境からこの城までは半日、その間、さしたる要害もなく、勝ち目のない籠城は、ますます意味がない。この期に及んで、何の手だてがあろうか。所詮は苦労ばかりで益のないことよ』と一気にまくし立てたあげく、大笑致しました。それがし、恐ろしゅうなって、早々に退出致しました。あの者は気がふれておるのではありますまいか。お頭? いかがなされました」
 童は真っ青になっていた。信長は蜂須賀党の動きを完全に理解した上で、探りを入れてきている。小六ではない何者かに対して。大愚でないことはわかった。しかし、余りにも危険な匂いを感じる。
「しばらくして、また信長の元へ行って下さい」
「あの者に加勢するのでございますか」
「書状を届けてもらいます。必ず直接渡し、渡したら相手の返答を聞かずに、すぐに戻ってきて下さい」
「今度はそれがし一人で行けばよいのですな」
「そうです。それと、近々に馬が必要になります。さらに五百ほどあればよいですが、難しいでしょうから、集められるだけ手配しておいて下さい」
「かしこまりました」

(五.織田信長 了)



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