「美濃から来た童」
作/久住様



二、墨俣


 永禄三年二月。
 童が稲葉山を離れてから、六年がたっていた。
 童は蜂須賀党に身を寄せている。いや、身を寄せているという言い方は正しくない。
 六年前、蜂須賀党の首領、小六と名乗る男は童を迎えてこう言った。
「俺らもともと、今日の飯もない流れ者の食い詰め野武士どもでござった。それを拾って下さったのが先代の殿様、いや御家老様でしたな。この土地に争いのなきよう目を光らせてもらえばよいと、今の殿様と違って、穏やかなお顔で仰せになりました。これで飢え死にせずにすむ。一つところで暮らせる。俺ら皆、泣いて喜び合いました。今の殿様のために命を捨てる気は、皆持っております。その殿様から、お客人に恩を返せと命じられました。全てを打ち捨てて、何事もお客人の下知に従えと命じられました。大枚の金子も預かりました。何もお尋ねすることはございません。命じて下され」

 童は蜂須賀党の中で交渉能力のありそうな者を選び、必要な文字と算術を教えることから始めた。
 飲み込みの早い者から近江にやり、物の値を調べさせ、値の上がりそうな物や、価格に地域差のある物を見つけ出しては、仕入れて運び、売った。資金に余裕ができると、周辺の農家に働きかけ、二,三男で気の利きそうな者を集め、教育し、近江,尾張,美濃の主な町に送った。各地の商人とのつながりができ、情報収集要員を主な町に常駐させるに及び、蜂須賀党は一気に膨れ上がったが、戦闘要員の比率は激減していた。
 童はいつしか、お客人からお頭に呼び名が変わっていた。

 美濃の内戦の情報が集まってきたのは、まだ美濃と近江で物資を往復させているころだった。
 少しでも加勢できないかと頼む童に、小六は悲しそうに首を振った。
「殿様からきつく命じられております。何が起ころうと勝つ側につけ。それがいやなら知らぬことにしろ。あのわっぱが何を言おうと、助成は許さぬ。小童や野武士の加勢など無用。そう仰せになりました。逆らえませぬ。何があろうと、なんと言われようと、殿様の御意志には、逆らえませぬ」
 小六は何度も首を振って、小六自身にもそう言い聞かせていた。
 いずれにしても、この兵力差では何の役にも立てない。
 わかっていて何もできない無念を味わいながら、童は網を張る作業に没頭した。
 情報と流通の網を張ることが、自らを戦力として役立たせることになる。
 童には自分自身が、そのようにみえていた。
 四月の終わり頃、近江へ向かう連絡要員との打ち合わせから戻ると、小六が蒼白な顔をして待っていた。
「何も言うな!」
 思わず叫んだ童も顔色が青ざめていた。
 小六は何も言わずに立ち去っていった。
 やり場のない怒りに身を震わせながら、童は一晩中、乾いた目をしばたたかせていた。
 蜂須賀党に加わって二年目のことだった。

 それから四年。
「お頭、氏家様から、兵糧や軍勢は入用ではないのかと、また御使者が参っております」
 情報収集要員の主だった者たちを集めて、童は連日会議を開いていた。
 会議といっても議論を闘わすわけではなく、入れ替わりで各地の情報を聞くための会議である。
 今日は近江,美濃,尾張,駿河の責任者四名が集まっていた。
 まず口を開いたのは美濃の責任者だった。
「目立たぬようにせねば、御迷惑をおかけする。御心配御無用とお答えしてくれ」
 今川は不気味な沈黙を守っていた。じっと三河の領国化に集中し、戦備を整えている。
 織田と時折小競り合いは起こるが、勝ちに乗じようとはせず、時を待っているようだ。
 三河守に任命されるよう働きかけたのは、いかにも義元らしいご愛敬だが、三河の精兵を先頭に尾張を制圧し、美濃に攻めかかる構えにまったく変化はない。だが、美濃の新領主義龍には、駿河など見えていない。
 氏家ト全が焦るのも無理はなかった。童も決戦に備えて、金子を何度か無心していたが、それ以上迷惑をかける気はなかった。
「それと、安藤伊賀守様の御使者も御一緒でございます」
「何?」
 安藤守就とは面識がない。
 ト全の焦りようを見誤っていたようだ。あるいは、伊賀守の意志か。いずれにしても、蜂須賀党以外、美濃の兵の力を借りることはありえない。だが、伊賀守は信長の加勢に那古屋へ出向いたことがある。
 信長についての情報はどんな些細なことでも手に入れたい。
 織田信長は読めない相手だった。おとなしく今川の出方を待つならともかく、わずかな兵を率いて今川を挑発し、負けてもひるまずに挑戦を続ける。昨年にいたっては、上洛すらやってのけた。
 信長が尾張守に任官されれば、義元はみずからの正義を失なってしまう。
 義元を読み切っての行動ならば、これ以上はないほどの挑発だが・・・
 挑発して勝てるのか?
 どのように考えても、織田の方から仕掛けて万に一つの勝ち目もない。
 にもかかわらず、信長は執拗に挑発を続けている。
 義元は生来の慎重な性質からか、挑発を耐え忍んで侵攻の準備を進めているが、そろそろ限度がくるころだ。
 そこまで義元を読み切っているのか、それともただのうつけ者なのか。
 そこがみえるまでは、動くわけにはいかない。
「しばし、お待ちいただけ」
「は」
 美濃の責任者は退出した。

「国境から撤兵が始まっております」
 次に駿河の責任者が報告を始めた。
「半ばは帰農させ、半ばは三河に向かわせている模様」
「農作業に問題はないのか」
「米は十分な量を吉良,岡崎に蓄積し、なお買い集めております」
「相場は」
「上がり続けております」
 いよいよ今川も動くだろう。
 遅くとも九月、この半年以内に、機をみて今川が動く。
 それまでに信長を見定めておかねばならない。
「松平は動いたか」
「岡崎勢、猛っておりますが、松平元康はそぶりも見せません」
 読み切れない相手がもう一人いる。老師の一番弟子、松平元康。
 最も厄介な相手である。が、今川家での扱いは不当に低い。
 おそらくそこにしか付け込む隙はなかろう。
「松平が動けばすぐに知らせよ」
「かしこまりました」

 駿河の責任者が退出するのを待たずに、尾張の責任者が話し始めた。
「清洲に今川からの使者がたびたび訪れております」
「なぜそうわかる」
「清洲から出て行く者はおおございますが、清洲に入ってくる者はすくのうございます」
「ふむ。で、目的は」
「目当ては織田の重臣たちだとか」
「寝返るか」
「おそらく」
「信長はどんな手を打っている」
「鷲津と丸根の備えをいよいよ厳しくしております。聞くところでは、大高城を兵糧攻めにするのではないかとのうわさもあります」
 正気の沙汰ではない。内憂の最中に外患を求める阿呆はいない。
 普通の人間ならばこんなことはしない。普通の人間であれば・・・。
 だが、普通の人間に勝ち目のある状況ではない。
 今川の圧倒的有利、老師が存命ならば、かえって警戒したであろう。そんな気がする。
 だが、今の義元の回りには老師に匹敵する軍師はいない。
 何かをみ落としている。信長には何かがみえている。
 それが何であるか、今のままではわからぬ。
「使者がお帰りになった後、小六殿を呼んでくれ」
「は」

「米の値が上がっております」
 近江の責任者が報告を始めたが、童の耳にはあまり入らなくなってきていた。
「今川の買い付けか」小六に与える指示を検討しながら、童は生返事を返した。
「いいえ、織田の家中にございます」
「織田だと?」
 まったく予想外のことを言われて、童は不意をつかれた。
「米など買ってどうする気だ?」
「そこまではわかり申さぬ」近江の責任者が憮然として答えた。
「すまない。気が動転した。誰の手の者だ」
「勘定方の木下藤吉郎と申す者」
 まったく記憶にない名前だ。籠城の可能性がなければ米など買うはずもないが、何に使う気なのか。
「その者の動き、逐一知らせよ」
「は」

 部屋に入ると、使者二人が平伏しながら待っていた。
 氏家ト全からの使者は、平伏しながら緊張の気配を漂わせ、小さく体が震えていた。
 隣の安藤守就からの使者は、落ち着いた雰囲気を漂わせ、年齢以上のずっしりとした重みを感じた。
 逆ならば何の不思議もないが、明らかに何かが不自然だった。
 童は平伏している二人の横を通り過ぎ、さらに下座について平伏し、平伏したまま言った。
「お待たせ致しました。それにしても、御戯れが過ぎます。伊賀守様」
 安藤守就は苦笑いしながら立ち上がった。

(二.墨俣 了)



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