「美濃から来た童」
作/久住様



挿話一、長良川


 弘治二年四月。童が斉藤道三と別れて二年半が過ぎていた。
 道三は陣中にある。
 五ヵ月前、実子である義龍が突然道三に叛旗をひるがえした。
 義龍は、自分が道三に追放された前の守護、土岐頼芸の子であるといううわさを信じたのだった。
 主な重臣たちも義龍に与し、道三にも意外なほどの兵力差がついてしまっていた。
 だが、幸運なことに、義龍が叛旗をひるがえす直前、うわさの仕掛け人である「老師」雪斎が他界した。今川の長老とも執権とも呼ばれた雪斎の死によって、今川は美濃の内戦に介入する機を失ない、義龍の軍はぐずぐずと稲葉山城にとどまっていた。
 だが、春の訪れとともに、ようやく義龍の大軍は動き始めた。

 さて、どのようにしたものか。
 城の廊下を歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりしながら、光秀は、まとまらぬ思念の中から光明を見出そうと焦っていた。
 未だに良い思案の浮かばないまま、叔父上の元へ行くのはどうにも気が引ける。だが、どうしたものか。
 夜の城内をゆっくりと歩みながら、なにか手がかりはないものかと思案を続けるのだが、出るのは思案ではなくため息ばかりだった。味方は二千七百、敵は一万七千。味方の戦意は必ずしも低くはない。圧倒的な兵力を持ちながら、敵はこの五ヵ月に渡り、有効な打撃をこちらに与えられずにいた。敵の動きのあまりの鈍さに助けられ、普通ならとうに崩壊しているはずの軍が、曲がりなりにも士気を保っている。だが、いかに相手が無能であろうとも、この兵力差で正面からまともに戦えば勝ち目はない。明朝の決戦を迎えるまでの間に、何百という策を立ててはみたが、「大軍に戦術なし」という非情な原則をどうしても打ち破れずにいた。並の将ならば、夜襲を考えるだろうが、叔父が夜襲を考えているならば、止めねばなるまい。よほど戦意が高いならともかく、この状況では兵の脱走と軍の自壊の末、不名誉な終わりを迎えることになる。勝てぬならばせめて名だけでも、いや、それを考えるのは負けてからでよい。今からそれを考えてどうするのだ。勝つ策もなしに戦えるか。考えよ。
「だめだ」
 今の己の考える策は、すでに壊れている。敗北から始まっている。何も産み出さぬひとりよがりの思案など、せぬ方がよい。
「叔父上、御呼びにより、参上仕ります」
  もはや、何の策もない。策を問われるのであろうから、そのように申し上げるしかあるまい。
「おお、来たか。すまぬが、しばし、待たれよ」
  叔父は何か書き物をしていた。手紙のようだ。叔父はすぐに書き終わった。
「手紙でございますか」
「ああ、遺書だ」何気ない口調がかえって悲しかった。
「何を仰せになりますか」
「そなたもわかっていよう。明日のいくさ、破れる」
 有無を言わさぬ叔父の眼光が、すべての思案を吹き飛ばしてしまった。
「考えに考えて参りましたが、勝つ思案が浮かびませぬ」
「そなたともあろう者が、無駄な思案をすることよのう」叔父は気持ちよさそうに笑った。
「無駄とはいったい」明白な結論を、あまりにも明白に出された当惑が、狼狽へと変わった。
「同じ思案をするなら、わしがなぜ死ぬのか、考えてみてはくれぬか」叔父の目はいたずらっぽく笑っている。このように笑顔の叔父は見たことがない。
「なぜ、死ぬのか、でございますか」
「わしに味方する者が、なぜこのように少ないのか。わしが出来星だからか」
 到底答えられない問いだった。答えたくない問いだった。
「違うであろう。美濃の民は、古き世を愛し、わしが始めようとした新しき世を憎んだのだ」
「そのようなたわごとを仰せになられますな」
「そなたの言いたいことはわかる。古き世がもたらした災厄を民が忘れておるものか、と言いたいのであろう。古き世がみずからの命脈を絶とうとしていることがみえぬほど、民は愚かではないと言いたいのであろう。だが、」叔父はいったん言葉を切った。
「だが、それでも、民は古き世を愛し、新しき世を憎む。心しておくことだ。わしのような失敗を繰り返さぬためにもな」叔父はまた、笑った。もはや、我慢がならなかった。
「叔父上!」
 叔父は微笑んで、先ほどのものとは違う二通の書状を手渡した。
「これは」
「一通は、婿殿に至急届けてもらいたい。そなたのいとこにも会っていくがよい。もう一通は、都の細川殿に宛てたものだ。そなたが幕府に仕官するにあたっての紹介状よ。わしのような出来星と違って、そなたのような名族には、幕府への仕官などたやすいことであったわ」
「幕府に仕官とは・・・」
「新しき世を創ろうとするだけでは、古き世は崩れぬ。新しき世が産まれると共に、古き世を崩さねばならぬ。そなたには、わしの仇だと思うて、幕府を崩してもらいたい。婿殿が上洛する際にも、便宜を図ってもらいたいが、それは枝葉のこと」
「なりませぬ! そのようなこと、絶対になりませぬ!」
「よいか。わが息子を誅したとて、古き世は変わらぬ。古き世が変わらぬ限り、民の苦しみにも変わりがない。くれぐれもわしと同じ失敗をせぬことだ。今夜の内に、清洲に向かえ。決して明朝のいくさには関わらぬことだ。よいな」

 だから、今ここにいる。
 いくさには関わっていないが、尾張に向かってもいない。高所でいくさの様子を見ているだけだ。
 叔父は若々しく精気をみなぎらせて采配を振るっている。
 見事な指揮だ。だが。
 叔父の軍は急速に崩れつつある。崩れを食い止めようと叔父が陣頭に出てきた。四方を警戒している叔父の視線が、こちらを向いて止まった。それまでの殺気に満ちた顔とうってかわって、叔父の顔が笑みに満たされたとき、矢が一筋、叔父の首筋を貫いて立った。

 もう見るものはない。
 立ち上がり、合戦に背を向けて歩き始めながら、新しい思案が次々と噴き上がるのを感じている。
 俺のいくさは今から始まる。

(挿話一.長良川 了)



「一、稲葉山」

戻る


「二、墨俣」

進む