「美濃から来た童」
作/久住様



挿話二、美濃御前


 いつものように、殿のお召しは何の前触れもなかった。
 いつもいつも急なお召しとは、少しは考えてくださってもよろしいのに」お付の女中がむくれている。
「もう慣れてしまいましたわ」帰蝶は、決まり切った一日というものに、少しの魅力も感じていなかったから、殿の破天荒ななさりようには、好感を抱いていた。ただ、急に呼びつけられるのはしゃくだから、こんなときには普段の薄化粧のままでいくことにしている。そのことも、女中がむくれている理由のひとつなのだが、そんな感情は帰蝶にはわからない。肌に感じられる春風と一緒に、帰蝶は踊るように清洲城の廊下を進み、殿の部屋に入っていった。
「あら、おめずらしい」帰蝶は、あいさつも忘れ、久しぶりに会ういとこの顔を、立ったままじっと見つめている。
 見られている光秀の方が少しどぎまぎし、帰蝶はその様子をますますかわいく感じながらも、少しはお化粧してくるんだった、と思った。でも、このお方がいらっしゃるということは。
「おのう、まむしが死んだぞ」殿が書状から目を離さぬまま、何気なく言った。
 帰蝶は、ふうとため息を一つつき、しずしずと進んで席についた。
 今まで持ちこたえていたのが不思議だったのだから、いまさら泣いてもしかたないわ。
 そう考えても、父の死にこみ上げてくる何かがあった。
「明智の城も落ちたようだな」殿はなおも書状を繰り返し読みながら、光秀に話しかけた。
「左様ですか。寄らずに参りましたので」
「これから幕府に仕えるのか」
「禄を食んでも、仕えはいたしませぬ」少し冷静さを欠いた様子で、光秀が答える。
 この方は、父から何かを託されたのだ。帰蝶はそう感じた。
 殿は書状をたたみながら、
「わしが幕府を滅ぼしたら、おぬしをわしの配下にしてもよいとまむしが言ってきた」
「滅ぼせますか」
「すでに滅んでおるのにな。だがまずは、今川をたたかねばならん。美濃はその後になろう」
 今川に飲み込まれかけているお方の言う言葉には聞こえなかった。殿の自信を感じて、帰蝶はあらためて、少し安堵した。東も西も敵ばかりになってしまったけれど、今までもそうだったのだし。
「今川をたたくには、何か策がおありなのでしょうか」
「あるにはあるが、ばくちのようなものだ。それも、かなり分が悪い」
 殿は、何かを思い出したように続けた。
「理外の理ということを、よく父から聞かされた。この世には、理だけでは計れぬ理を使いこなす化け物がいると。武田晴信、長尾景虎、そしてあのくそ坊主だ。この者たちとはことを構えるな。どんなに勝ったと思えても、思ったところに落とし穴を掘られる。特に雪斎とは戦うな、と何度も言われたものよ。ようやっとあの坊主も死んでくれた」
「松平元康という弟子がいるそうです」
「その者が先き手を率いる以上、戦わぬわけにはいかぬが、その者が全軍の策を立てるわけではあるまい」
「確かにそうですな。今川義元に嫌われておるようで。ところで、祐筆は役に立っておりますか」
「おぬしの見つけてくれたあの男、これから一年ほどは、戸部新左衛門の書いたものばかり真似て書くことになる」
「偽手紙程度でだまされる相手とも思えぬのですが」
「今川義元が、山口,戸部を誅したがっておる。口実を与えてやるだけのことだ」
「なぜでしょうか、解せませぬ」
「山口が、わが父信秀から特に目をかけられていたにもかかわらず、大高,鳴海の両城を手土産に今川方についたのが、不忠ゆえ許せぬのだそうだ」
「なんとも」光秀は、あきれて物も言えない様子である。
「世が移り変わったことを知らぬ者がまだまだいるのですな」
「いにしえに戻せばよい、いにしえに戻そう、と考えるのがなぜなのか、わしにはわからん。せっかく古き世が壊れたのなら、新しき世をつくればよいではないか」
「神も世も、人の作りし物、その道理をみながわかるには、まだまだ時がかかりましょう」
 うなずいていた殿が、急にこちらを向いて、言った。
「おのう、まむしから言ってきておる。織田が滅んだら、この者に養ってもらえとな。どうやら異存はなさそうで、安堵したぞ」
ほんとうに変わったお方だ。急にこんなことを、まじめに言うなんて。帰蝶は心底驚いてしまった自分に少し腹が立った。
 そうだ。帰蝶は、あのことを思い出した。
「光秀様」
「はい」
「父からのあずかり物がございます。これをお持ち下さい」帰蝶は懐中から短刀を出し、光秀に差し出した。
「これは」光秀は少しうろたえたようにみえた。殿は驚いた様子もない。
「織田に嫁ぐ前に、父から渡されました。『信長という男がまことのうつけであれば、これで刺せ』そう言われましたので、『場合によっては、父上を刺すこともございましょう』と答えまして、肌身離さず持っておりましたが、もう父に使うこともなくなりました。世の民びとのためにお使い下さい」
「これは、かたじけない」光秀は、おしいただくように短刀を受け取った。
 帰蝶は、なんだか涙が出そうになってきた。でも、泣いてはいけない。
 光秀はそんな帰蝶の様子を見ていたが、やがて言った。
「それがし、これにて御免つかまつる」
「もう行くのか。泊まっていけばよいに」
「このままみやこへ参ります。上洛の手はずは整えておきますので、しばしお待ちを」
「上洛といっても、官位も名もいらぬからな。余計な金を使うなよ。今川義元の逆鱗を逆なでしてやりたいだけのことだ」
「御武運を」
「気が早いぞ。それに、神仏にも運にも頼るつもりはない」
「これは失礼いたした。そのお心ならば、奇跡を起こすこともできましょう」
「道中気をつけてな」
「は」
 光秀は振り返りもせずに出て行った。
 帰蝶は、ぽっかりと穴のあいたような気持ちになった。
 泣かずにすんだけれど。
 思い切り泣いた方がよかったのかもしれない。
 帰蝶は、ぼんやりとそんなことを考えていた。


(挿話二、美濃御前 了)




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