「美濃から来た童」
作/久住様



一、稲葉山


 天文二十二年九月。
 美濃、稲葉山城は闇の中にある。
 深夜である。虫の音ももうかすかになり、外ではすべてが寝静まっているかのようだ。
 寝所では、地図を間にはさんで、相変わらず二人の激しいやり取りが続いていた。
 上座には老人が一人。老人といっても、地図をにらみつけるその眼光は鋭く、受け損なえば、首を叩き落されるような感覚を受ける。
 下座には童が一人。色白の整った顔立ちで、老人の鋭気の剣先を穏やかな表情で包み込んでいる。
 老人は怒りをあらわにしながら話を続けた。
「では、あの噂を仕掛けたのは老師か」
「左様にございます」
 あくまでも穏やかに、童が受ける。
「妙心寺派が出どころのようです」
「ト全もそう申しておった。禅坊主から話を聞いたと」
「いかがなさいますか。相当広まっているようです。手を打つにしても、いささか難かしゅうございます」
「様子をみるしかあるまい。もともとこの噂、わしが広めようとしたものだからな。それを逆手に取るとは、禅坊主とは食えない輩よ」
「重臣の中にも、真に受けている者がかなり出ているようです。お気をつけ下さい」
「今川の狙いはやはり美濃なのか」
「甲斐,相模との同盟交渉も進んでいるとのこと。尾張があの有り様では、婿殿は眼中にありますまい。狙いは殿ただお一人」
「わしさえいなければ、どのようにでも料理ができるということだな。何を狙っているのだ。この状況で仕掛けてくるとは」
「名分としては、幕府の下支えかと」
「何?」
 老人は信じられぬものを見たかのように目をむいた。
「幕府の柱石たる元々の大名家の内、東に残るは土岐,今川。その土岐を乗っ取ったのです。美濃を攻め取って、世の下克上の風潮を正さんとの思い。恐らくはその一念でございましょう」
「愚かな・・・。そこまで世の移り変わりが見えぬのか」
「名家の公達ならば、世は移り変わらぬものと思い込みます。義元公の御存念は、正義を天下に示すことにございましょう。武田は頼朝公旗揚げ以前からのお家。北条も伊勢新九郎殿からのお身内、伊勢氏も元は幕府の被官なれば、全力をあげて東には向かいますまい」
「油売りの息子とは格が違うというか!」老人が吠えた。
「今川の阿呆の目からはそのように見えるのだな。これほどの乱世を招いておいて、いまさら幕府などに世を治められるものか」
「民の道理など、義元公の預かり知らぬ所」童が冷静に答えた。
「ふ...」急に老人が笑みを漏らした。眼光はあくまでも鋭い。
「それにしても、童(わっぱ)。なぜに人の心根がそこまでわかるのだ。いままでおぬしの判断が間違っていたためしがない」
「みえるのです。直接に会ったことがなくても、心の奥の色が。目に見えるのでもございませんし、まだその色の奥にも何かありそうにも感じますが。それに・・・」
「何だ」
「みえぬ時には口を開かぬようにしております。いずれみえてくることもございますれば」
「禅坊主のようなことを言う。ところで、ここへたびたび呼びつけられて迷惑はしておるまいな」
「はあ」珍しく、童は少し口ごもった。
「申してみよ」
「殿の夜の伽をしておるということになっておるようで」
 老人が急に吹き出した。今度は目が笑っている。
「まだ伽をする歳ではあるまい」
「左様ですが、ありのままを申すわけにもいかず」
「いらぬ苦労をかけることだ。もう十年早くおぬしが生まれておれば、わしは本気で天下の権を狙うたかもしれぬ」
「もう十年早く生まれていれば」
「うむ?」
「殿に誅されていたかもしれませぬ」
 老人が大笑した。
「その用心があれば、おぬしはこの乱世でも生き延びていくことができよう。おぬしの才の深さ広さを知るのは、わしとト全のみ。くれぐれも用心し、堪忍することだ。例えば今川のような愚か者には、おぬしの才はまぶしすぎて見えぬ」
「若殿には見えるでしょうか」
「見えぬ」老人は即座に言い放った。
「見えぬ愚かが故にあのような噂を放置しておくのだ。信じ込んでおるやもしれぬ」
「それでは・・・」
「あれが愚か故、帰蝶も手放した。おぬしも美濃から離れねばならぬ」
「なんと仰せで」
 童は狼狽し、身を乗り出した。その拍子に踏みつけられた地図が、高い音を立てて破れたが、その音も耳に入っていないようだ。
「よいか、蜂須賀党がおぬしの手足となる。今川を尾張で食い止めるのだ。わが婿殿に才覚がないようなら、おぬしが今川の手から尾張を奪い取れ。婿殿への書状はここにしたためてあるが、使うかどうかはおぬしの勝手に任せる」
「美濃はどうなります」
「どうなろうが、今川を防ぎさえすれば、おぬしの思うようにできるであろう。美濃をどうするかも勝手にして良い。ただし、いくさ場に出ることは許さん。おぬしが長生きすることが民のためになる。それがわしとト全の話し合うた結論じゃ。金子や兵糧など、できる限りト全が用意する。仕度が整い次第尾張に向かい、情報を集め、網を張るのだ。あの慎重居士ならばすぐには動くまい。何年かは準備にかかるであろう。今川が動くまでに、婿殿の才覚を見定めよ。わしの目に狂いがあったのなら、織田家を乗っ取って美濃を攻めてもかまわぬ。おぬしならばそれができよう。おぬしの狂いのない目に、すべて任せる。よいな」
「すぐにはわかりませぬ」
「みえるまで何年かかっても良い。だが、今川には近づくな。古い家はおぬしのためにならぬ」
「殿・・・」
「あの噂通りに、我が息子に土岐の血が少しでも入っているのなら躊躇はせぬ。おぬしを養子にすればよいことだ。だが、わしもいささか老いた。美濃の古さを打ち滅ぼす勇気が出ぬ。打ち滅ぼしても今川に足元をすくわれよう」
「必ず・・・必ず今川を防ぎます」
「うまくいった後、成長したおぬしの姿を見てみたいものだが、こればかりは何ともわからぬ。ト全を頼るがよい。軽はずみな振る舞いを慎み、おぬしを助けることを第一にするよう申し付けてある。ト全も納得してくれた」
「そこまで・・・」
「もう話すことはない。早々に出立するがよい。今後登城まかりならん」
 言い放って老人は目を閉じた。
 童は平伏し、寝所の外へ出た。
 まぶしさに童はたじろいだ。ようやく耳に鳥の声が入ってきた。
(一、稲葉山 了)



「挿話一、長良川」

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