<石和川中島合戦戦国絵巻・総集編レポ01>


     
  私が初めてこの祭りに参加したのは1986年で、翌1987年も続けて出場しました。当時は女性の参加者が珍しかったためか、最初は大将役を、次の年には小姓役風の鎧衣装を貸して貰い、ナント謙信公の馬廻り役という、今思えばオイシイ役を頂戴しました(^^ゞ。
その次の1988年も参加したと当時の人から聞きますが、この辺りはちょっとウロ覚えです(^_^;)。3年続けて出てたのかもしれません。

で、久々12〜13年ぶりに参加したのが、ここでレポを載せ始めた2000年(「こたつ城」発足の年)から2006年までの7年間、毎年「前にやったのと違う隊にして下さい(^^)」と申込の時に頼んでいました。
毎年違う隊をやって、色んな武将の名と馴染みになるためです(笑)。
それを聞き届けて貰ってるのか、ただの偶然かはわかりませんが(^^ゞ、毎年違う武将の名を頂いてました

2000〜2002年までの三年間は上杉軍でした。
2003年は「一度でいいから(^∧^)」とお願いして、はじめて武田軍に入れて貰い、高坂隊という、ちょっと特別な役割をする隊でした。
そして2004年は再び上杉軍に入りました。以上5年間出場していました。

続く2005年と2006年は、私達夫婦は見学でしたが、こたつ隊からは参加者が居ました。
そういうちょっと異例な仕切りだった事と、最後に出場した2004年に、こたつ城主が「討死した事になってた」という経緯もあって、「亡霊軍団」と名乗り(笑)、2005年は上杉軍、2006年は再び武田軍の高坂隊(友軍)に入れて貰いました。



毎年石和に行くと、前日は当日の戦に備えて泊り込み、前日の過ごし方も徐々に決まっていったと思います。
最初の頃は練習を見に行ったり、大勢の人が集まる宿に挨拶に行ったりしてましたが、そのうち主に「史跡巡り」「織姫&彦星」「こたつ隊の宴会」が定着した感じですか(^^ゞ。

前日には「こたつ隊」以外の他隊とよく顔見せ(ご挨拶)をしてました。
味方同志は当日も顔を合わせるチャンスがあるんですが、敵味方に別れると当日は戦場でしか会えないし、敵味方でないと戦場で切り結べないからです(^_^;)。

と言っても戦場は広いし、突撃には順番があるから会えない事が多いんですが、運良く会えたら、顔を知らない人より「あっ昨日はど〜も〜」とか言って、ちょっと斬り合うのにもスムーズなんですね(笑)。

でも無理にこうしなくても、現地の皆さんとても気さくですし、チャンバラしながら「どっから来たの?」なんて声をかけてくれる人も大勢います(^^)。

で、その後はこたつ隊の宴会になるのですが、これもだんだん恒例の宿での喋りと食いがメインのため、あとみんなくつろいでるので、いつも写真が残らないです(笑)。ただ、これもだんだん恒例になったんですが、夕飯と朝食の写真だけは必ず撮るようになりましたね。

宴会の写真を撮ってる部隊(サイト)もよく見掛けました。皆さんそれぞれの隊で楽しんでる様子でした(^^)。
何と言っても石和は温泉街ですし、祭りは温泉協会が主催してる祭りでもあります。
 
     


前日午後「史跡巡り@甲府&石和」

     
  <史跡巡り@甲府>

大抵、高速を石和近くの一宮御坂で下りてしまうし、昔何度も来たので甲府には滅多に行かないですが、これは早く到着した時の写真。時間潰しもあって、懐かしくドライブしました♪

甲府と言えばココって感じ?(笑)「武田神社」(躑躅ヶ崎屋形跡)

神社より坂を上り、春の花々が咲き乱れる要害山(城)への山肌。

そして、甲府と言えばコレって感じ?(笑)
駅前の武田信玄像
↓そして「ほうとう」(爆)。
昔よく食べた「ちよだ」という地元の定食屋さんの「ほうとう」で、日曜日が定休なので、土曜日午後一時までに来ないと食べられない(^_^;)。味は一番だと個人的には思います(笑)。
 
     

     
  もちろん石和も見所は色々あります(^^ゞ。

石和合戦祭りの正式名「桃の花まつり」の通り、毎年あちこちの畑に桃の花が咲き揃います(^^)。



<石和「山梨岡神社」>

甲府から石和にやって来ると、左(北)側が山になります。
その山の並び奥まった所に「山梨岡神社」があります。石和の中でも特に風情のあるお宮で、春の風情にウットリしました♪
池や庭園の奥の回廊が本殿まで続き、「神楽殿」といって、武田信玄が出陣する時も神楽が奉納されました。↓


ここのお神楽でしょうか。石和の合戦祭りが始まる前、見学をしていた時お神楽が舞われているのを見ました(^^)。お神楽は「レポ03」でお届けしましょう〜♪
この神社は山梨県の「山梨」という語源発祥の地で、古くから神楽が伝わっています。



<「大蔵経寺」と「物部神社」>


ここも「山梨岡神社」と同じ山(山脈と言うべきか)の斜面にあります。

そして「大蔵経寺」

石和駅の裏(北側)の山の斜面にあるお寺と神社で、間に墓地を挟んで両隣にあります。
←延喜式「物部神社」。↓奥の本殿。
ここには雅之介さまや河内判官さま、筑後川さまと二回来ました。桃の季節の夕方、フンワリした春風が心地良くお散歩にいい所です(^^)。



<八田家書院>

こちらは「八田家書院」正面
門を入ると書院に続く庭

石和町の中心部にあります。周囲は温泉街。戦国期、武田氏に仕えた八田家の物で、茅入母屋造り。桃山時代末期の武家書院様式ですが、年代は特定されてません。
この時は亭主と2人で行きました。敷地はあまり広くないですが、落ち着いた趣きで良い時間を過ごしました。

書院の西側
先ほどの門から外に



<「遠妙寺」「観音寺」「成就院」>

ここからは河内判官さまや筑後川さまと行った所(^^)。
まず 「鵜飼山、遠妙寺」。これも石和の街なかにあるお寺です。

山門(内側から撮影)
入って正面本堂、左の墓地手前には→
鵜飼堂と勘作の供養塔

文永11年(1274)。日蓮が平時忠の亡霊(鵜飼漁翁)のため、法華経を河原の小さな石に書写し、鵜飼川の水底に沈めて3日3晩、施餓鬼供養によって亡霊を成仏させたお寺。
のちに世阿弥(元清)が謡曲「鵜飼」に描いて有名になりました(勘作は平時忠の事)。石和では平安期から鵜飼を行なっていた事がわかっており、1976年に復活して今では夏の観光の目玉となってます。



やはり街なか「法城山、観音寺」
石和の南西「六角山、成就院」
成就院には、流浪の国主、武田信重の墓があります。信重は武田信玄の5代前の武田家当主です。
武田信重は千葉県にも勢力を張った上総武田氏の祖、武田信長の兄です。
 
     


前日夕方「織姫&彦星」「献塩の儀(偽)」

     
  <紋次郎。隊と交流(内通)>

最初はおめぐ隊だったのですが、紋次郎。様が引き継いでからは、「都内とかでも会おうと思えば会えるのに、わざわざ遠い石和を選んで、それも一年に一度しか会わないよね(^^ゞ」というニュアンスと、「明日の合戦晴れて欲しいよね〜!」という切なる願いも込めて、紋次郎。隊以降は「織姫&彦星」と命名(笑)。

もちろん中には、他の祭りとかオフ会とかで会う人(私だけじゃなくて他にもそういう人同志)が混ざってるんだけど、石和は多くの人が集合するイベントっぽくなってたので、九州とか東北の北部などかなりの遠隔地から来る人とも会えるとなると、わりとこのチャンスが貴重だったかもしれません(^^ゞ。
毎年多くの人に合わせて下さった紋次郎。さまには、心より感謝しますm(__)m。

とある年の一枚。毎年石和のあるホテルが選定(^^ゞ

集まった人が多い時には、テーブルを二つくっつけてやってましたね(^^ゞ。ご協力頂いたホテルの方々にも、重ねて感謝申し上げますm(__)m。

また、ウチらが武田になった時は、交流ではなく「内通」と呼ばれました(^^ゞ。
逆に紋次郎。隊が武田だった時もあって、そういう時も上杉の人が中に混ざってれば、勿論「内通」(笑)。

色んな写真があるけど
やっぱこの一枚かな(笑)。

切ってるのは紋次郎。さま、切られてるのは梵天丸さま、梵天丸様はいつも片目パッチを持ち歩いてらして、誰かが模型の刀とか持って来てると、スグこういう図に(笑)。他にも扇子とか軍配とか、色んなグッズが出て来ましたね(^^ゞ。

最後(去年)は紋次郎。さまが引退。柿崎和泉守さまが後を引き継がれ、お招きを頂きました(^^)。
変わらず和気藹々としていて、楽しい時間があっと言う間に過ぎます♪

この後こたつ隊の宴会ですが、他にも石和には色んな部隊が来てて、この前後によく会いました(^^)。↓



<献塩の儀(偽)>

これは合戦祭りにも出て来る「献塩の儀」のマネです(笑)。
我々他県人はだいたい上杉軍に配属されるんですが、武田軍になる年もありました。

←こたつ隊が武田になった時は、上杉軍の上杉播磨守さまから「塩饅頭」を。
↑こたつ隊が上杉になった時は、武田軍の宮下さま達の隊(現・星友隊)に「塩大福」を贈呈♪

こうして日は暮れ、各々の隊ごとに宴会へと引き上げて行きます。
 
     

前日夜「こたつ隊宴会」〜当日・温泉街の朝

     
  <こたつ隊・宴会>

で、これがさっきも書いた「必ず撮る夕食メニュー」なんですが……年を行くごとにドンドン豪華になっていくのが見て取れると思います(^^ゞ。
この際、何の料理が増えて行ってるかを見比べる、という遊びが出来るのも、この特集版ならでは(笑)。

2003年
↓2004年
↓2005年
↓2006年

あ〜こうやって年々豪華になっていく食事を見ていると、「夕飯だけでも食べに行こうかな〜」と思いますね(爆)。

ちょっとは宴会風景も(^^ゞ。
この年は前田敏郎さまがダンボール兜を、雅之介さまが鉄製兜を持って来て下さったので、みんなで被って遊びました(笑)。↓


このあと部屋を訪れあって、頂いたお酒やお菓子などつまみながら、軽〜く二次会(=^m^=)。
寝る前にはゆったりと温泉に浸かり、ウキウキしながら(そして晴れる事を祈りながら)寝入るのであります♪
 
     

     
  <あくる朝っ>

石和の朝っ(宿の2階から撮影・4枚パノラマ)

オハヨー(^。^)。
これも毎回やる事になった、恒例朝ごはん〜♪ 鍋で温められ、いつまでも熱〜い味噌汁が魅力。

2003年
2004年は筍が美味かった♪

2005年
2006年

旅館の朝ごはんって、ホント主婦の憧れよね〜(爆)。
朝起きた時、口の中がいきなり和風になってる事がありまして、こんな風に品数がズラーッと並ぶ朝ごはんをやってみようと、時々頑張ってみるのですがぁ〜(^_^;)。

で、この美味しいご飯を食べながら、話題はいつも「雨降りそ〜?」「う〜ん」「ビミョー」という向きに。
初参加の人はケロッとしてるんだけど、雨参加をしたメンツはわりと真剣なんですよねぇ〜これ(笑)。

180度5枚パノラマ魚眼図(笑)! 宿とその周辺
(注:パノラマと言うのは、枚数が増えるほど中心部が近付いて見える構図でちゅ)

↑みたく、絶対に降りそうもないカラッと晴れた朝もありましたが、だいたいはドンヨリした空から徐々に晴れて行くとか、下手すると小雨混じり、というパターンが多くて、わりとドキドキする朝です(^_^;)。
 
     

石和南北小学校に到着

     
  石和には「南小学校」と「北小学校」がありまして、どちらも狭くはないのですが、人数が収容しきれないからでしょう(笑)、毎年二つにわけて集合場所が通知されます。

地図A(「城主のたわごと」風(笑))
駅から南にきて最初にあるのが北小学校。さらに南に南小学校。それよりさらに南に行くと笛吹川。この笛吹川の鵜飼橋周辺で合戦が行なわれます。

これまで、だいたい「南小学校=上杉軍(外部参加者)」「北小学校=武田軍(地元参加者)」というのが定例でしたが、集合場所は逆になってる年もありました。参加される方は、事前にどちらかよく確かめて下さいネ。(場所がわりと離れてますから)

どちらも集合は午前9時。
これに間に合わせるため、旅館には前もって早めの朝食を頼んでおくのが無難です(^^ゞ。
この頃では小学校周辺の駐車場に誘導してくれる人を見掛けますが、原則的には車はあまり長く駐車できないと思ってた方が無難で、ホテルや旅館から歩いて来る事を念頭に置き、早めに出掛けましょう。

遅れてしまっても入れて貰えないとか、出場させて貰えない、という事も無いような感じがします。
遅れた事がないので断言は出来ませんが(^_^;)、万が一の時も「あ〜あ遅れちゃったから、帰ろう〜」と思わず、行くだけ行ってみて下さいネ(笑)。



<南小学校=(主に)上杉軍>

↑から先に紹介しましょう(^^ゞ。が、残念ながら南小学校じたいがあまり写ってない事が多いです(爆)。
お陰様を持ちまして人員豊富な事が多くて(ありがとうございますm(__)m)、ここの集合写真で建物じたいが写らないからですが(笑)、南小学校は、駅から来るメイン通りからはちょっと奥まった所にあるので、カドごとに奥を見るなど、よく探して下さい(^_^;)。

南小学校門前

左にある立て看板は、この住所の由来です

前は書かなかったので、これもちょっと(^^ゞ。
この徳川綱重は、3代(将軍)家光の子で、4代家綱の弟、5代綱吉の兄、6代家宣の実父です。
つまり3代家光の子は、家綱、綱重、綱吉の三人が居ましたが、4代家綱が死ぬ前に、この綱重が逝去したので、末っ子の綱吉が5代将軍となり、綱吉も嫡子不在のまま逝去したので、綱重の嫡子、綱豊が家宣と名を改めて6代将軍の座に就きました。

柳沢氏については、柳沢吉保が、5代綱吉の側用人として諸侯も恐れるほどの大出世をしましたが、6代家宣の代になると、徳川綱重の頃から配された甲府の地は幕府に返上する事になり、この甲府領主の後釜に据えられたのが柳沢吉保だったわけです。

吉保は綱吉の落胤とも言われる我が子、柳沢吉里に譲って隠居したので、柳沢吉里は大和郡山に移されはしたものの、安泰を保ったとも言われます。

甲府は幕府にとって殆ど自領とも目されるべき土地で、幕末の頃には、勝海舟に追い出された近藤勇ら甲陽鎮撫隊(新選組)が、江戸を経ってから甲府に入城しようとした事でも、その存在感が伝わります。
 
     

     
  <着替えスタート!>

いよいよ本題(^^)。合戦祭りモードの始まり始まり〜。

合戦会場では「上杉は紺色、武田は赤」と一目で色別できます。
それは兵士達の身に付ける鎧衣装が、この二色で大きく分かれているからです。

その点、大将役だけを見比べても違いはありません(^^ゞ。だからよく大将同志の切り合いの写真を見ると、旗指物がハッキリ見えない場合(翻ったりしてると特に)、どっちがどっちか判りません。

で、上杉はこの通り紺色↓かなり本物の兵士っぽく見えます。

こたつ亭主(左)、こたつ城主(右)。あ〜まだ若いわねぇこの頃は(爆)。

まず女性は、一番下につける衣装(袴など)については、体育館の舞台裏の一室があてがわれます。
まずそこに入って下部分をつけて貰いますが、その時、先に持ち込みの地下足袋を履いてから、着付けの人が来るのを待ってると、来てからスムーズに着付けて貰えます。

また女性だと、この兵士スタイルはかなり格好イイです(^^ゞ。身軽なので動きやすいとも思いました。

一方の大将は、与えられた部隊名の大将そのままでして、こたつ隊としては過去、

竹俣三河守広綱」「本庄越前守繁長」「鮎川摂津守清長

以上の三隊を任命されました。本当は代表者(こたつ隊だと私(^_^;))が大将鎧を着るのですが、私は過去にやった事がありますので、メンバーの誰かにやって貰ってました。

また二度目の大将役(2002年)から、副官役の鎧も用意されてました。

下衣と袴を着用
肩&腕は脇の下で留め
胴鎧を着用。だんだんズシッと

←竹俣役の長宗我部弥三郎さま。 大将役は結構重くて嵩張ると思います(^_^;)。
こたつ城主は1986年以来着てませんので、ちょっと思い出せないんですが(笑)、着た人から感想を聞くと「あ〜そうだった」と思う事が多いです(特に小さい人には不向きな感じが:笑)。
↑みんなに手伝って貰って着用(笑)。
兵士は着るのも動きもラクなんですが、最初の頃はなかなか着付けの人が来てくれないと不安でしたね(^^ゞ。

小さい人に大将鎧が不向きなのは、単に重いからではなく、地べたに座ると胴鎧がつかえるのです(^_^;)。
太腿には鎧の下部分が食い込み、脇の下からは鎧の脇で手が持ち上がって、首は鎧に乗っかる形になります(笑)。