<2025年・城主のたわごと5月>




2023年11月〜2024年12月に「出掛けた所」 \(^O^)/

2024年「ご挨拶」に画像を添えて、まんま写します!




     
  「城主のたわごと」は、「2020年12月」号で、「2019年1月」までのレポを行なって以降、長らく休止していた。

新型コロナウィルス流行を受けて、自粛および外出も県内に限るなど、生活様式の変化が続いた事が大きい。

が、それらが次第に緩和するに到って以降も、国の感染症対策への疑問に始まり、旅レポより、時事ネタ主張が増えた事もあって、2021年、2022年、2023年、2024年は、「ご挨拶」のみの更新(ただし大長文w))を行なっていた。

とは言いながら、後ろの2年(2023年と2024年)は、「近頃出回ってる近場の報告(^。^)」なんかも書くようになり、「そろそろ、たわごと再開もアリかな」と思う事もあった。

2024年の「ご挨拶」の
【F近況その3、今年行った所、見た番組】
に、2023年11月〜2024年12月に出掛けた所を列挙した。
その最後の文章に、

>以上、前年に比べて詳細に記しましたので、
>このまま「たわごと」に移して、写真添付を施す手もあるな、と思っています(^^ゞ。


と書いた。
これをちょっとやってみようと思う。
「ご挨拶」に載せた文章を上の濃紅色の字で示すので、濃紅色の字の文章だけ「ですます」調になる(^_^;)。。



■2023年11月・千葉県市原市・茨城県かすみがうら市
<「里見駅」と八房と仮面ライダー>


まずとりあえず、「今年出掛けた所」を書こうと思いますが、去年のご挨拶は、10月まで書いたので、その後を引き継ぎます。

まず去年11月、県内、市原市にある「里見駅」(小湊鐵道)を訪れてます。

スケッチ風の案内板
宵闇に浮かぶ「里見駅」(地図

八房」と銘される犬像
超ローカルムード満載の昔懐かし駅舎

駅前に、『南総里見八犬伝』の「八房」という犬の像が飾られてます。
無人じゃないですが、無人駅っぽい超ローカル駅で、電車も二両編成の小ささ。レトロなムード満載でした。

待合室には秋の草花も活けられて(^^)
「八犬伝」の八房だね♪

近くの消防署に、なぜか仮面ライダーの大きな像が立ってて、観光を意識してるのかもしれません(笑)。

駅前駐車場には月がのぼり↓
里見駅周辺を火事から守る仮面ライダー(笑)→



<かすみがうにゃ>

この時期、続けて馬来田真里谷などにドライブしてて、高滝湖の付近を行き来する写真もあります。
長引くコロナ生活で、人出の多い場や遠出を避け、千葉県内もだいぶ細かく行くようになりました。これまで行った場所同志を別ルートで廻ってみる等、ドライブの幅をひろげた頃でした。

同じくコロナ生活ゆえに目指した近場に、茨城南部が多かったです。
近年よく行くドライブコースに霞ヶ浦があり、「かすみキッチン」(かすみがうら市地図)というアンテナショップ風レストランで、「かすみがうにゃ」なるゆるキャラが大層気に入り、手拭いを買ったりしました♪

道路のマンホールと……
買った手拭いの「かすみがうにゃ」(#^.^#)



■12月・茨城県稲敷郡・千葉県印西市
<かわちイルミネーション>


12月は、同県の稲敷郡にある「かわち水と緑のふれあい公園」(地図)で行われる、「かわちイルミネーション」というクリスマスイベントが、かなり遠くからも平面づたいに夜を照らして見えたので、行ってみました。
かなりの規模と電光の多さで、驚きました。今年も行ってみたいです(笑)。
(これ書いた後に行きましたっ(≧▽≦))


広大な田園の真っ暗闇から
急出現するXmasイルミネーション!

入口は手前のコーナー「」と、奥のコーナー「」の両方にあって、「」から入り、途中の「」「」と通り抜けて、「」に向かう順路だが、なぜかいつも奥の「」から入ってしまう(^_^;)。
  
左が「」真ん中に大きな湖を挟んで右が「(パノラマ4枚180度以上)

右の「」に先に入ってみる(パノラマ2枚)

↑こちらから湖を超えて入って来て、→こう進む。

樅ノ木に滴る雫を思わせる電飾
木立を少し行って振り返る

何となく「冬」コーナーに目が惹かれて入ってしまう理由は、やはりXmasシーズンだからだろう(^_^;)ゞ。
上記の通り、「冬」の電飾は、歩行者の視界を上空まで高く彩り、まことに見応えがある。

見事な樅ノ木ペイジェント群の下に見える対岸(パノラマ3枚ほぼ180度)

ま、だいたい「冬」はこんな感じ(^^ゞ。元に戻って「春」から入り直そう。

もいっぺんさっきの湖に戻りまして(パノラマ4枚180度以上)

今度は↑左の「春」から……。

左右に満開桜の大樹を仰ぎ見て
東屋(休憩所)を経由して入場
        
東屋付近ハート撮影所(^。^)
さらに進むと左右に春夏の花々

左には梅雨時の雨傘
右には同じくアジサイ群
       
ハート撮影所あたりでは、薔薇の花のイルミネーションがあったから、アジサイに続くに従い5月から6月に移行したのだろう。

左の雨傘群は青くなったり
赤くなったり様々な色に変化
         
右側に続く花壇には薔薇群も。
白バラに青バラに赤バラと華やか(#^.^#)↓
やがて夏祭りを思わせる提灯の大群が空に→

秋には稲穂が実り
龍とお米の像が並び立つ

この龍は水神なのだろう。稲を育てる豊かな水を守っているんだね(^^)。

そしてこの龍の右後ろに、さっき先に出した「冬」のコーナーに向かう橋がかかっていて、その向こうに、さっき見た背の高いXmasツリーの森林道が見えている。
つまりこの龍が「秋」の最後。



<「松虫寺」>

千葉県では、印西市の「松虫寺」(地図)に初めて行きました。

松虫寺」山門

県内でもウチから遠くなく、いつも「そのうちいつかは(^^ゞ」と言ってて行ってない寺でしたが、ウチあたりでも有名な名所に数えられてます。

赤い屋根の山門から入ると……↓
門を抜けた途端、覆いかぶさるように枝を伸ばす楓の紅葉が出迎えてくれた(#^.^#)→

聖武天皇の皇女「松虫姫」の病を治すため、夢のお告げで当地に来られ、病が平癒したのにちなんで建てられた、と伝承されてます。

紅葉の楓を潜り抜け正面に本堂
右方面からも撮影

「名所」とされるだけあって、素晴らしい景観に包まれた風情あるお寺で、感動しました。
近頃は紅葉が12月にズレ込むため、紅葉の景色がたいそう綺麗でした。 


左方面からも撮影
その奥に佇む「松虫姫神社

本堂(瑠璃閣)の回廊側からも撮影。銀杏の落葉が素晴らしい(#^.^#)↓
一方、本堂の右には「瑠璃光殿」なる宝物館→
     
宝物には、「鋳造鰐口」「木造薬師如来」の座像が一驅、立像が六驅、「鋳造孔雀文磬」一面などがある。

病気平癒の霊験にあやかりたかったのですが、寒かったのか、この後、主人も私も風邪をひいてしまい、特に主人は咳や喉痛が凄く長引いて、年末年始は筆談で過ごすほどに……。

もしかすると、この日この後、これも初めてお参りした「将門口ノ宮神社」(佐倉市)が祟ったのでしょうか……(・・;)。。
当神社は奥宮が将門の愛妾「桔梗」の墓と伝わる「桔梗塚」とされ、後に千葉氏によって創建されたものの、千葉氏が土地の実力を失った後、江戸期の堀田氏が鳥居を奉納した事が記されてます。

さらに、この堀田氏が、土地の義民として芝居などで多くに知られた、佐倉宗吾佐倉惣五郎)を祀ったのが、この神社の名である「口ノ明神」でもあるとの事です。

将門を偲ぶため、この地に桔梗が咲かないという伝説の地ですが、桔梗は漢方薬では咳の薬に用いられているので、亭主の喉に影響したんでしょうか。。。
亭主の声枯れは徐々に治りましたが、後遺症でしょう、腕に痺れがその後半年ぐらい残ったようでした。


(なので、写真はあるんですが、祟りを恐れて出すのはやめます(^_^;))

その後、さっきの「かわちイルミネーション」と同じような茨城県のXmasイルミを見に、土浦市の「霞ヶ浦総合公園」に行ってます。

これもかなり凄いです。広さは河内のほどじゃないですが、デカイ水車があって、階段で登れる高さから、平地を見下ろせ、又この平地から斜面を見下ろす下に水辺があり、これらの高低差を巧みに利用して、大がかりな演出に使われてるので、立体感ある演出技法が圧巻です。

残念ながら、この時の写真はパソコ移動に失敗してしまったのですが、この前の年の写真があるので、場所を知ったのは、一昨年(2022年)のようです。
       

(「パソコ」じゃなく「パソコン」です、スイマセン(^_^;)。これも実は写真はあるんですが、移動に失敗して凄く小さくなってしまい、写りが良くないので出すのはやめます)


       
■2024年1月・千葉県成田市・富津市・東京都千代田区・文京区    
<助崎城跡>
       

ここで年を改めまして、今年(2024年)に入ります。

今年はコロナ後、初の「松戸七福神巡り」(松戸市)を再開しました\(^O^)/


(これも写真は割愛(^^ゞ。以後、写真はあっても、文章に沿って、割愛しながら進みます)

同月、「下総七福神巡り」(成田市)の布袋@乗願寺にも行ったようですが、これは、近くにある「助崎城跡」(大須賀氏)に行く目的で、その途上に立ち寄ったのだと思います。

水田に囲まれた小高い丘に
登る道を入ると……
        
Xで付き合いのある史跡巡りアカウントの方の紹介を見て、突然来訪を思い立ちました。
         
すぐに断崖に囲まれた
鬱蒼とした山道となり……

近頃、足が良くないので、こうした城山などの登り道を無理に行くのはやめてますので、登り口から上を仰ぎ見るだけで引き返しましたが……。
        
←右側に「助崎城跡」の案内柱
                    
来た道を振り返る。明暗差クッキリ。

地図この城跡は、千葉県内としてはかなり本格的な山城と言って良く、大がかりな山の無い千葉県ですが、この成田あたりは、ちょっとした山奥の風情をかもしてて、平地続きから一転、急峻な崖と森林に囲まれた先にある城跡でした。

ちょっとだけ登って道路を見下ろす
城跡の先に続く道もこんな感じ

ご挨拶では割愛したが、案内柱には、大須賀氏の一族に中世末期、「スケサキ殿」と呼ばれる豪族がおり、この城が助崎大須賀氏本城だった事が記されていた。
         
さっきの田園に戻る。成田だから……
飛行機が真上を低く何度も飛ぶ
       
       
<「富津みなと公園」と「明治百年記念展望塔」>        
       
今年は元旦に見たお正月番組で、を見るのが縁起がイイと聞いたので、木更津とか富津など、内房総方面に出て、海に面した公園をなんか歩いたりしました。

海岸に船型の遊具を置く……
富津みなと公園」(地図)から見る海
   
左側、海ザンブザンブ
右側も海ザブンザブン
 
更に海に突き出す「明治百年記念展望塔」(地図
    
左側の波打ちが凄かった!
同じく右側ザッブーン!

1月下旬には、茨城県下妻市佐沼広域公園に行ったようです。
ここは今やあまり来訪が珍しくない所で(^^ゞ、手賀沼とか印旛沼とか、牛久沼とか霞ヶ浦など、水辺の風景が見たい時にいく所の一つとなってます。




<「神田明神」と「湯島天神」>

1月末ごろ、これもコロナ後、初となる「神田明神」(地図・東京都千代田区)参拝を再開しました
\(^O^)/

国道17号線に面した大鳥居
右にはおむすび屋さんが出来てた

車でも都内にわざわざ行くのは、コロナ以後は、よほどの用でもないと無かったので感慨でした。

参道を進んで「隨神門」から入場

門をくぐると広がる境内、正面が本殿拝殿(パノラマ4枚180度以上)

正月なので、恒例の茅の輪くぐりをやらせて貰いました(^人^)。神田明神のは初経験でした。

大黒天の前の茅の輪
その奥の建物は「文化交流館

新しく大きな売店
(「文化交流館」2018年新設↑写真右)が建ってる事は、前に訪れた時に見て知ってましたが、その時はまだ開店しておらず、中に入らないままコロナに突入してしまったので、今年初めて中を見学しました。
大層な賑わいでした〜☆彡


大黒さんの右に階段があり
門から続く建物との間を登る

前はこの位置に、確か駐車場(だったかな)とか散策スペースなんかがあった。

店内。神田明神の枡に入るリラックマ(笑)
ベランダが設けられ境内が一望!

端まで行ってみる。左は摂社群、右が拝殿(パノラマ2枚)

この摂社群、以前は確か「鳳凰殿」という売店&祈禱受付&お守りお札授与所が、その前を塞ぐように建ってたが、今はこのように、「文化交流館」の真横から立ち並んでいる。
ちょっと下に降りてみると……、

こんな感じ。左が「文化交流館」
ベランダに戻って「隨神門」方向も見る

続けて湯島天神文京区)にもお参りしました。
近年、この二社をまとめてお参りする習慣となってましたが、その「近年」も、コロナ前の事。
何とも懐かしく、また梅林の梅花が見事で、天神様の御神徳にあやかった気がしました☆彡

湯島天神」(地図銅鳥居
夕闇に燦然と浮かび上がるご本殿

(夜で梅の花の写りが今イチでしたっ(^^;)ゞ)



■2月・千葉県千葉市・他
<「享徳の乱と千葉氏」展と「土気城」跡>


2月は、千葉市亥鼻城(千葉城・地図)跡にある千葉市立郷土博物館に、特別展を見に行きました。
『関東の30年戦争「享徳の乱」と千葉氏
〜宗家の交代・本拠の移動、そして戦国の胎動〜』
というものです。

亭主が新聞記事から見つけてくれたんです。
なかなか見ごたえのある良い展示会でした。

同月、下旬には千葉市の「土気城跡」に行ったようです。
これは、近くのキャンプ場昭和の森)を見学に来たので、ちょっと足を延ばして案内板のあるあたりまで車で乗り入れ、後は城域をちょっと行き来しただけでしたが(^^ゞ

土気城跡の祠と案内板(地図
周囲は田園と梅畑
        
ちなみに、城跡はこれより東方向に広大な敷地を有し、山道藪道を分け入って長く続きます(^_^;)。この案内板のある辺りは、そのほんの序盤(三の丸あたりですか)。

土気城は、平安初期に蝦夷対策で作られました。

1488年から酒井氏が約100年ほど代々居城し、1590年の秀吉による小田原征伐に敗れて廃城となりました。

帰りに白里大網の海岸に出て、月光に照らされる夜の海を見ました。




■3月・栃木県小山市・東京都葛飾区・茨城県稲敷市・千葉県成田市
<小山(祇園)城跡>


3月は、初旬に、栃木県小山市の「小山城(祇園城)跡」(地図)に行きました。

この赤い橋を渡って入場してきた(パノラマ5枚180度以上)

まず最初に、この2つのパノラマで360度展開図をお見せ。↑↓

市街を見下ろせる一郭(パノラマ5枚180度以上)

上の赤い橋が電車の渡る陸橋っぽく特徴的で、お城巡り系のサイトやブログなどでも見かけるが、橋までは駐車場から住宅街の中の道路を歩いて来て、橋に急に出会う感じ。

橋を渡って右手は小高い土塁が続き、左手に館などあったっぽい低い広場が広がり、広場の方をズンズン進むと、↓こんな市街風景が木々の間から見える。

眼前を流れるのはたぶん思川(パノラマ3枚ほぼ180度)

小山(祇園)城については公園になっているのもあって、様々な多くの人がネット上に情報をアップしている。
そこから連想すると、この広場はもしかして「本祇園曲輪跡」と呼ばれる所だろうか……。

一方、赤い橋の渡る低地(濠跡かと)は散策路っぽい跡(↓左)も見られ、それとは別にもう一本道が伸びて、僅かながら灯りも射してるので、行ってみた(↓右)。

    
さらに進むと橋を渡り
その先は高い壁に挟まれた路

するとこのような大広場に出る(パノラマ4枚180度以上)

ネット上の情報で、↑この広場を「塚田曲輪跡」と教えてくれるものもあった。

続けていける↓こちらは「上段曲輪跡」という案内板が立ち、初めて曲輪名が確認できた。

この城跡に行くのは、かなり長年の待望で、感慨深かったです。

東国にとって、波乱の幕開けとなった永享の乱以後、事実上、鎌倉を追われた鎌倉公方の行く先は、結城合戦結城城享徳の乱古河城と地続きにあるのが、この小山城で、これらの乱に無縁と思えぬ地に位置する、どうしても行ってみたい城跡でした。

……と「ご挨拶」では述べたが、その前の時代を遡ると、室町期の「小山氏の乱」によって小山氏が滅亡し、小山氏と同族の結城氏から新たに小山氏を名乗らせて、この城を含めた小山氏の跡地を引き継いでいる。

「小山氏の乱」は以前、宇都宮などを訪れたツアーで詳しく書いたので、このたびは「享徳の乱」の時の事を書いた(^_^;)。。

この後、さらに他の曲輪に行けそうな、赤い欄干の太鼓橋に行き会ったが、何やら工事中っぽい大きな案内板が立ち、通行禁止状態になってて行けなかった。↓

この先は通行禁止らしい(パノラマ3枚ほぼ180度)

城跡は結構な街中にある大きい公園となっていて、到着時はもうすっかり日が暮れてましたが、内部に入れ、そぞろ歩きしました。

……と「ご挨拶」では書いたが、他の方の城展望記など拝見すると、この先こそが城跡公園の本番ぽく、本丸、二の丸、三の丸など書き込まれた見取り図もネットでは散見する。

ただだいぶ暗かったのもその通りで、長居の余裕も無かったのと、工事は公園のリニューアル計画ぽかったから、次に来るときは、工事終了を確かめて改めて来てみたい(^^ゞ

(案内板には「令和6年4月を目指して」とあって、この3ヶ月後に終わったハズだが、元々令和5年3月終了予定が、資材高騰、搬入遅滞、保護箇所の確認などによって延期とあったから、確認するに越した事は無いかと)



<水元公園>

同月、東京都葛飾区水元公園地図)に行きました。

公園はもう少し端にも続くんだが、水辺の始まりはここからで、入場口もここから入った。
左と右の両方歩ける感じに思えたが、左の路が良さそうに思えて、左にコースをとった。

すると、こんな具合に水辺が続く(パノラマ4枚180度以上)

ここも、コロナになって初めて行った数々の近場の名所と同じく、凄く近いのに行った事がない公園でした(^_^;)。

この水流は途絶える事無く続くんだが、徐々に先細りとなり、やがて広い陸地が出てきて、やがて広大な湖が突然始まる一帯に行き会う。

今度の水辺は川と言うより殆ど湖
足元に直接水辺が及ぶ。ザブザブ

また左側ルートを進んで行くと……、

半リング屋根のベンチ休憩所
対岸(湖の右側)はこんな遠くに!

写真が小っちゃくてハッキリ見えないが、対岸にビッシリ立っている木々は、メタセイコイアじゃないかな(似たような別名の木々も沢山あるんで違ったらスイマセン)。

凄く広くて、水辺の素晴らしい、東京都内にこんな所があるんだな〜と驚くような景観に包まれた公園でした。

やがて前方に青い橋が現れ
水元大橋」これを渡る

渡った先には、「噴水公園」と呼ばれる一帯がある。
        
←こんな彫像があって、周囲にはテーブルでランチを囲む人達や、水辺には釣り人の姿も。
                    
↑コチラはかたつむりの像(^^)
噴水公園の名の由来も……

各彫刻から噴水を出す仕掛けゆえ(パノラマ2枚)

この日は噴水は出てなかった。夏だけ水が出るとかかも。
この各々の彫刻は、かたつむりや亀や海老など、水辺の生態達を象ったデザインで、今度行ったら全部シッカリ撮影したい(`・ω・)=3<仲間だからっ

しばらく売店とか食事処とか建物のある辺りを過ぎると、水辺にベンチが居並ぶ一帯に行き会い、やがて「メタセコイヤの森」に入る。

ベンチが並ぶ一帯。読書に最適(^^)
線路のような橋も素敵(#^.^#)

木々に混ざって早咲きの桜が満開
そしていよいよメタセイコアの森に
        
メタセコイアなど、ちょっと日本で珍しい背の高い森林がたいそう素敵でした。
そんな森の中や、湖の近くで、木のテーブルにサンドイッチを広げて食べてるご夫婦や、散歩を楽しむ外国の方々など、多くが楽しむ風景に出会いました。

背の高いメタセコイア達
夕暮れ時の灯りと湖水の風景

だいたいこんな感じなんだが、この公園は凄く敷地が広く、水辺をくまなく網羅してるので、隅々まで探検すると、バードウォッチングの森あり、水生植物を観察できる水辺庭園ありで、最初カットしてしまったエリアには運動場テニスコートも設備されてるようだ。

こんな小川と木橋がふんだんにあり
水辺を渡る木道歩きも楽しい

あ、ちなみに、途中に満開桜があったが、早咲き種の桜のようで、ソメイヨシノは、漸く1分開いたかぐらいの時期ですまだ(^^ゞ



<木原城址>

同月、茨城県の霞ヶ浦の西岸、稲敷郡にある「木原城址」(地図)に行きました。
ここも公園化されてる城跡ですが、結構な高台にあって、途中の道から霞ヶ浦が見下ろせます。


木原城址城山公園」標識に沿って
ククッと登ってゆく。途中に案内板

この辺りが中央地点
ちょっと超えて先に進んでみると
         
左右を高い土塁に囲まれた先に
左右が柵で囲まれた道へ

この柵の左右には、濠跡と思われる低地が認められた。
そのさらに先の道も行けなくはないし、恐らく城跡の続きと思われたが、住宅地というか私有地っぽかったので早々に引き返した。

ちょっと元に戻って、今度は公園に入ってみる。

ちょっと戻りました。公園はこっちの道→(パノラマ5枚180度以上)

↑を180度振り返った側↓。公園は←こっちの道(パノラマ4枚180度以上)

この通り、濠や土塁で周囲を固めた屈強な守りの内部に、お屋敷など構えたらしき平面が広く取られ、その平面部分を公園や庭園・畑として一般に供している。

公園に入る前に、下のパノラマの右側の道路は、入って来た道だが、ちょっと戻ると霞ヶ浦が見えるので戻ってみる。
        
元来た道を戻ると
眼下に広がる市街と霞ヶ浦

公園内へは、車両乗り入れ禁止っぽい鉄ポールが複数立ってるが、上の左の写真に、右に行く通路が見える通り、その先に駐車場がある。
わりと広いんで、お花見とか遠足など、よほど混み合う時以外は、余裕で停められるんじゃないかな(^^ゞ。

では、さっきの流れに戻って公園広場に……、
        
入りま〜すε==(/^o^)/<ビュ
こちらは入口むかいの土塁

土塁の画像を改めて出したのは、さっきのパノラマ写真では、ちょうどこの土塁の所で二つに切れてしまったので(^^;)ゞ<ポリポリ
        
公園内は散策路が広場を
グルッと回り込むように伸び
      
↓中央にはこんな遊具(滑り台だね)や四阿(あずまや)
そして「矢倉風展望台」なる見晴らし台が設置→

矢倉武器庫を兼ねた見張り台だが、この城にあったと推定される有力地は、後に示す稲荷神社あたりで、ここに立つこれは、位置、高さ、材質、構造ともに史実に基づいてない、とわざわざ案内板に記してある。
じゃ、。何のために立ってるかと言うと……。

これを登ると
眼下に霞ヶ浦(拡大)が見れるからではないかと(^_^;)
        
周囲も俯瞰する。霞ヶ浦がわ(パノラマ5枚180度以上)

↑の逆方面↓駐車場がわ(パノラマ4枚180度以上)

この駐車場のある側は小高い丘になっている。下に降りたら後で改めて見てみよう。

手すりの柵の間から
隣の滑り台も見えるw

遠目では気付かなかったが
滑る距離がエライ長さwww

↑矢倉台や遊具と逆側には畑や野原が広がる↓(パノラマ4枚180度以上)

←左が遊具、右が矢倉台。今度はさらにグルリと廻った方向から。

この城跡の散策路は、発掘調査によって共に出土した遺物などから、15世紀までにはあったが確認された所に作られたらしい。
だから散策路の下には濠が保存されている。

また、弥生〜古墳時代にも濠があったそうで、こっちは「環濠」と呼ばれ、集落を取り囲むように作られてることから、集落の守備を目的としたものと考えら
れ、こちらも今は散策路が上に作られている。

上から泥が被ってしまい、あまりクリアに見れないが、↓こういう事らしい。
        
散策路の上に表示板が設置
室町期や弥生古墳期の濠を図示

この戻りコースには、山茶花か寒椿か春椿かワカランが、半ばは大いに咲き、半ばは花ごと散っていた。

駐車場のある中央地点に戻って来る(パノラマ4枚180度以上)

この駐車場のある側は、麓にある駐車場の背が小高い丘になっていて、何らかの曲輪なりの跡地だろうかという気もしたが、特に何の案内も無かった。
丘陵を天然の要害とし、先ほどの土塁や濠の造作を加えて、さらに守備を強化したって事じゃないかな(「・_・)。

こちらは上のパノラマだと木陰になって階段しか見えないが、階段の上に「稲荷神社」がある→
さっきの「矢倉展望台」でも触れた通り、櫓や見張り台は、この辺りにあったんじゃないかと推定されてる。

戦国期の1500年代、この地域の有力者、土岐氏の家臣の城との事です。
敷地は広大で、土塁も高く、しっかり残ってます。
公園は整備されて歩きやすく、中央に展望台も建てられて、霞ヶ浦も見られ、居心地の良い城跡でした。



<「宗吾霊堂」>

以後、「宗吾霊堂」「宗吾旧宅」「麻賀多神社」「甚兵衛公園」は、同日に行っている。

同月、千葉県成田市宗吾霊堂地図)に、久々に行きました。

宗吾街道(464号線)「宗吾霊堂」前

「城主のたわごと」に、2006年とありますから、18年ぶりですかっ!
周囲はたまに訪れるんですが、中にお邪魔したのはそれ以来です。

参道前に並ぶ土産屋を通り
山門(仁王門)を潜り

↑今回はこの土産屋さん通りで、小さな達磨さんを購入した(^^)v

本堂に向かう
本堂額縁「宗吾霊」は徳川家達の筆

幕末、この「家達」の名が、最後の将軍・徳川慶喜の徳川宗家後継として浮上する。
時代劇で見る以外、地元的に唯一触れるのがこの額縁に記される筆跡である。

(※徳川家達=8代将軍・徳川吉宗−宗尹(吉宗4男)-治済(一橋2代)-斉匡(治済5男・田安3代)-慶頼(斉匡9男・田安5代)-家達(慶頼3男))

宗吾御一代記館」(拝観20分・大人700円)
本堂の裏手に「奥之院」→

この「御一代記」というのは、66体の等身大人形を用い、13場面に渡って「佐倉宗吾(佐倉惣五郎)」の物語を描いた内容であるらしく、「いつかは」と思いながら、二度とも拝観時間を過ぎてから訪れたため、館内に入れてない(^_^;)。。

そばに貼ってあった案内によると、15:30までに入らないと閉まるようだ。月曜定休(祝祭に重なった時は翌日繰り越し)。

戻りコースでは「宗吾殿」と
山門入ってスグの「薬師堂」をお参り(^人^)
        
この「宗吾殿」「薬師堂」は、2006年11月号・12月号の「城主のたわごと」には載ってない。

堀田氏は佐倉藩主時代に宗吾を処刑して以来、宗吾の慰霊を欠かさず行なっており、近江国(滋賀県)宮川藩主の堀田氏が江戸の浅草下屋敷の敷地内に祀り、150回忌の法要が行なわれた頃、この「宗吾殿」が供養堂として建立された。

維新後も、震災や戦災の後を受け、有志によって台東区に再建されたが、平成29年の地区開発を受けて、ここ宗吾霊堂に移動したらしい。

平成29年=2017年だから、2006年には無いよね(^_^;)。

薬師堂」は、明治43年(1910)、火災によって本堂と伽藍が焼失したため、時の住職が仮本堂として設立。
やがて大正10年(1921)本堂が再建された後は「薬師堂」として役割をしていたが、破損が強まったため、令和2年に全面改修を施したそうだ。

令和2年=2020年だから、やはり2006年に見ないのは道理(^^ゞ



<「宗吾旧宅」>

18年前に訪れた時は行かなかったのですが、近くにある「宗吾旧宅」に、今回は行きました。

周囲が山奥の雰囲気で、なかなか春の風情豊かな一隅でした(^^)。


宗吾旧宅は、この通り、立て札や石碑などが立てられてなければ、周囲の少し古い民家と区別がつかない普通の旧家。
行ってみたら、急に目の前に現れたので、ちょっと驚いた(^^ゞ。


地図
ただ、「山奥の雰囲気」と「風情豊か」はホントで、車で行くと「おっ」と身構えるようなわりと急な坂道を下って来る。

宗吾旧宅の前通りはこんな感じ(パノラマ5枚180度以上)

改めて入ってみると、そこそこ広く(パノラマ3枚ほぼ180度)

        
←敷地の端、垣で囲われてて、坂道からは見えないが、「椿井」とあり、佐倉宗吾が死を覚悟し、妻子と涙の別れの水盃に用いたと伝わる。
                    
↑拡大してみる。


佐倉宗吾にまつわる話は→2005年「11月のたわごと」<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内を(^^ゞ。



<「麻賀多神社」奥津宮(船形)>

この一帯には「義民ロード」と銘打った、宗吾の村を巡る散策コースの絵地図が案内板に掲げられ、今回はそれに沿って、「麻賀多神社奥津宮にお参りしてみました☆彡

「義民ロード」の案内図

↑左から「宗吾参道駅」「宗吾霊堂」「麻賀多神社」「宗吾旧宅」「甚兵衛公園」の順に並んでいる。
(ただ絵地図の「麻賀多神社」は台方(地図)の方かも?05/15追記)

「麻賀多神社」(奥津宮・地図)正面鳥居

古代、印波(印旛)国造が祀ったと伝わるお社で、その後も子孫が長く続いた事が記されてます。

その印波(印旛)国造の墓所は、この右側にあって、この道路をちょっと右に歩くと登り階段が出て来るが、最後にお参りしたので後に廻す。

では早速、鳥居を潜ると……、

右側の並びに「伊都許利命」墳墓
祭壇。「伊都許利命神社」

←古墳から出土したという、この平たい巨石を、古墳の前(祭壇の斜め前)に露出して敷き、案内板と案内柱を立てて示している。

伊都許利命(いつこりのみこと)」が、先に書いた「印波(印旛)国造」であり、この神社を造営した主催と思われるが、その墳墓の地(古墳)も、共に神として祀っているのが、この「麻賀多神社奥津宮=船形社)」と言えよう。

参道に戻ると、本殿に到る前に、この古墳の後背を伺い見れる隙間がある。↓

次の鳥居(本殿前)に行く直前の
格子垣の切れ目から見える古墳

この古墳を墓所とする「伊都許利命」は、印波(印旛)国造の「初代」と伝承され(史実としては「先代旧本紀」の「国造本紀」に見える)、時期を4世紀(300年代)と推定される事から、日本の先史時代(記紀以前)における、この地域に及ぼす大和政権の地方行政をうかがい知る貴重な素材のように思えた。

案内柱には、大化の改新によって、大和王朝の国群制度郡司を優先的に用いた中、一部については国造による世襲の職として祭祀を司った、とされていた。

てなわけで、本殿前の鳥居を潜り
ふと振り返ると桜も1〜3分咲き(#^.^#)

いよいよ本殿(拝殿)に到達!
「御神木・大杉」なる標識に従って裏手に

祭神は「稚日霊(わかひるめ)神」。(台方社は「稚産霊(わかむすび)神」)
        
←本当に巨大長身な杉の大木が祀られている。
                    
↑境内摂社群、「高津」「粟生日」「世直」「熊野」「菅原」

他、摂社群
        
「城主のたわごと」2008年5月に、同じく「麻賀多神社」に参拝した事を書きましたが、その時は台方の方に参りました。
「たわごと」にも書いた通り、「麻賀多神社」は二つあり、一つは前に行った「台方」に、今回行った奥津宮は「船形」にあります。
もう片方の神社にもいつかお参りしたいと思っていたので、大変嬉しかったです。


ここで道路に面した鳥居をくぐる前に言った、道路を右に行った登り階段に改めて行ってみる。

道路から直接石段を登る
かなり長く登った先に
墓石が立っている

案内板の記述を写す。(所々、旧漢字や漢数字を書き直し、太字を入れてある)

伊都許利命(いつこりのみこと)由緒

伊都許利命は、神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと※)の八代目の御孫で、応神天皇の命を受けて、印旛国造(いんばのくにみやつこ)としてこの地方を平定され、産業の指導などに多くのご功績を残されています。
 その昔、日本武尊ご東征の折、大木の虚にをかけ、根元に七つの球を埋めて、伊勢神宮に祈願されました。命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をきき、その鏡をご神体として、この地に稚日霊命(わかひるめのみこと)を(手黒神社)祀り、共に麻賀多眞大神として、里人の崇拝を指導されてから、益々豊年と楽土が続きました。
 なお、佐倉藩磯部昌言氏の記す佐倉風土記を始め塚上の古建碑等によって治績が広く知られ、又、明治44年大正3年の二回に亘って古墳が保存され、近年成田市の史跡に選ばれました。
 御墳墓は土砂が少しけづられている様ですが、周囲120m、高さ7mの方形墳で、南の庵には、広さ約5平方mの岩屋と、西麓には、直刀、金環、鎧片等を納めた石棺と、その出土品が現存しています。

伊都許利神社々務所
(※第2代、綏靖天皇の同母兄)

中央政権から郡司による行政指導が廻されてくる中、印旛国造の世襲を続けたとおぼしき記述があるのは、もしかして、その後の千葉氏が先祖代々の相伝(相馬御厨)を主張して頼朝に与力し、鎌倉幕府や室町幕府が成った後も、何かあるたび「先祖の功績」にまで遡って、認める認めないの文言が取り沙汰された事と底辺で関係する気がしないでもなかった。

そこはやはり、長い古代において、兵士を徴収され続け、なのにその功績を幕府が出来るまで認められる事なく、「ツケ」にされ続けたこの地域特有の感情や事情が被るからだ。



<オマケ(^^ゞ「甚兵衛公園」と「水神社」>


「ご挨拶」に記したのは、上の「麻賀多神社」までだが、この日は亭主が「義民ロード」全コースを巡ってくれ、上までのレポで「義民ロード」の絵地図も出したんで、「甚兵衛公園」(地図)までオマケしちゃう。

「甚兵衛公園」を向かいのコンビニから撮影(パノラマ5枚180度以上)

車通りの多い道路なのと、ここを訪れた最後に撮影したので、だいぶ暗くなった事もあって、今イチ写りが良くない感じはあるが、この景色は昼間に来ても大きく変わらない。

というのも、以前は渡し船の風情を味わえる風景だったのが、近年「甚兵衛大橋」の完成によって、船の必要性が薄れ、昔とは大きく様変わりした事が公園の説明書きに書かれている。

道路に面したこの一帯は「甚兵衛の森」と記す地図もある(パノラマ4枚180度以上)

甚兵衛の森」とする地図では、この奥の広い地域や、右の道路を隔てた先の敷地を「甚兵衛公園」と書いてるので、渡しのあった頃の感じをこれらの木々で残し、近隣の土地も公園化していく計画とかかな?

←こっち方向に行くと、今も土手があって、(用水路かも)の流れはあるっぽい。

←こんな感じね。

甚兵衛
は、佐倉宗吾が直訴に及ぼうとした時、ご禁制の渡し船の繋ぎ鎖を断ち切って、宗吾を送り出す船を出した。
その後、生きてお咎めを受けるよりは、と覚悟を定め、真冬の印旛沼に身を投げて溺死(か凍死)した。

その後宗吾は、将軍家綱への直訴に成功したが、直訴も御法度として一家ごと処刑された。

この話しはのちに芝居となって大ヒットし、宗吾はただの処刑罪人というよりは義民、さらに祟り話として恐れられ、、やがては神仏として崇敬信仰されるまでになったため、その基となった史実との見分けが難しくなった。

例えばこの甚兵衛などは芝居上の架空の人物か、それらしき逸話がそもそもあったのか判らなくなっている。

土手に面して建つ鳥居は
水神社
        
成田市教育委員会の立てた案内板はここを「水神の森」としている。

ここに来ると、甚兵衛伝説に基づいた絵と内容が語られる一方で、行政単位では、珍しい水鳥自然の景観とか、水神信仰といった、無理のない方向性で公園管理に勤めている様子がうかがえる(笑)。



次回も「ご挨拶」からの引用路線で続きをやろうと思いますー!

2025年05月14日(05/15追記と一部訂正)
 
     






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