<2002年・城主のたわごと7月>




ずいぶん長い間の宿題だった気もするが、

当初の「慰霊の目的」は、少しは果たされたと言えるだろうか(汗)。




     
 

去年の今頃の「たわごと」を読んでみた。

おおっ! (珍しく)成長してるではないか! 去年の今頃、私は「何処かに何時かは行けるかもしれない」ゲな、恐ろしく不安極まりない事を言っていたものだ!

しかしそれから一年、我々は(って言うより「主人が」:笑)無事に自動車を運転して、信州にも行ったし上総にも行った。その後石和にも行けたし、上総の先の安房にも距離を伸ばした! そのさらに後には、箱根にも行ったのだ!

そう! しかし未だにそのレポートが全然追い付いてないだけだっ!(←威張ってる場合か?)

さ〜て、前回は……そうそうカワイイかまめしクンのネタで終わった所だった。……という事は、もう楽しい信州旅行編は終わったのだな(笑)。うん、そうだった。なるほど。

松代に行ってた10/6〜10/8は当然幸せだったが、例によって、帰って来てからは抜け殻のようにボォ〜ッと過ごすしかない私でもあった(笑)。

しかし「2000年、城主のたわごと11月」から引きずってるのもあって、私は私で、旅に出て何がわかったのかを書かなきゃいけなかったりもするんだな。

その前に、前に見た「村上義清の供養塔」そばの案内板文章をここに転写しておこうか(笑)。

「村上義清公墓所

この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦三年(1657)義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保二年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政三年(1791)清平の子清命が、石柱、「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行なわれ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。

平成8年3月 坂城町教育委員会」

これね(^_^;)。
で、残念ながら、この供養塔を施主として立てた「曾孫、村上義豊」が義清からどう繋がるのかも、かつて村上氏の家臣だった出浦氏とみられる「出浦清重」も、そうハッキリ何かがわかったまでには漕ぎ付かなかった。

が、しかし、この出浦氏が間違いなく村上氏と別れて武田氏についた出浦氏と関係がある事まではわかってきた。何によってか……松代旅行中は祭りに浮かれてあまり読んでなかった(笑)、真田宝物館の学術員さんから頂いた史料によってである。

以下、頂いた史料より抜粋。
主に、「出浦一駒」という坂城出浦氏の末裔に関するレポートだが、長いので内容はかいつまんで(^_^;)。


■出浦清種まで■
村上氏は平安期、源盛清が武蔵守行実の暗殺の罪で京都より信濃に島流しされ、信濃水内更級郡を賜り村上城に居したが、その前から「村上」姓を賜った信濃国人の前部黒麻呂が住んでいた。

村上義清の12代前、為国の子に、義清に繋がる安信と出浦氏の始祖の成国が出る。
成国の子、太郎為實は、坂城町村上と上山田町の境の山頂に出浦城を守った。

数代のち、出浦(主計頭)清種は村上氏「城持高家八人」として「村上家旧臣略」に名を残し、その子、清正(下野守・坂城系)と盛清(対馬守・のち松代系)は、天文元年(1531)の「御目見え列」にある。

つまりここで、坂城に残った出浦氏と、武田→真田に流れた出浦氏は分かれたようなのである。供養塔に関わった出浦氏は、当然前者の系譜だろう。


■坂城系、出浦清正■
清正の系譜は坂木(坂城)に「正左衛門」を世襲。幕府直轄地に元和8年(1622)5千石。寛永11年(1681)越後高田の松平藩領に移り、天和元年(1681)高田松平家が廃絶すると、再び5千石で幕府直轄天領に戻り、大正10年(1921)、養子に入った正左衛門浅太郎が没するまで存続。


■義清の供養塔と出浦氏墓地■
上記、2000年「たわごと11月」にもある通り、「出浦清重」の後は、寛保3年(1742)清重の子清平が玉担を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が出浦氏屋敷内(現在の満泉寺)に墓所案内碑を建立。

坂城出浦氏の墓地は、この村上義清墓碑正面南側に東より、清平・清命・清忠(清命の子)の三石(他10石ほどは判読不能)と、もう1箇所、大英寺東裏山に、清次・浅太郎・清忠妻の三石(他は判読不能)があるが、墓石の家紋は全て""(村上氏の家紋)。他に廃仏毀釈運動による首なし石仏が数体。
出浦氏菩提寺は、西教寺か坂城町上平自在山麓の現在無住寺の源忠寺と推測される。


■坂城系最期の人、出浦一駒■
清命の子清忠から一代不明のあと、養子に入った浅太郎が坂城出浦氏の最期となる。
大英寺に残る話では、浅太郎は天保12年(1840)出浦七左衛門の子として生まれ、北国街道横町と田町の辻に住み、家号から『おたやさん』と通称され、多くの才能に秀でた。

華道は遠州流。号は伸瓢斉一駒。和算に優れ、幾何学の原図が菱田家に所蔵。彫刻指物、易学、茶道、一弦琴や書筆にも秀で、晩年に作った楽焼きが大英寺にあったが、破損がひどいため今は無く、素焼きの写真のみ残る。
他に浅太郎本人の写真と、明治43年(1910)の大英寺全図伝記の中の、明治32年(1899)の『多聞山大英寺の景』が残るのみである。

出浦氏の養子となった晩年は大英寺に寄食。大英寺住職の姉を養女に迎えようとしてならず、大正10年(1921)大英寺で一生を閉じ、坂城出浦氏は根絶。


■松代出浦氏■
天文17年(1548)上田原の戦で上杉方の(対馬守)盛為が真田幸隆の捕虜となった。
武田氏の滅亡後は海津を守り、真田昌幸に迎えられて真田家家臣に加わり、信之の代には重臣になって、元和8年(1622)、信之に従い松代に移る。一時期は1500石。廃藩時は600石。子孫は東京方面へ出た。


■長瀬出浦氏■
出浦清正−清春−清次−清定(次子)が松代真田藩の直轄地の丸子村長瀬に移り、子孫は今も長瀬に。系図もある。菩提寺は龍顔寺。

個人的にもっと知りたい人います? 一応「HPやってて、調べた結果を報告せねばならぬ」とまでは言ってあるんですが、そうは言っても個人のレポートを元にしてるので(^_^;)、丸々転写は気がひけます。もっと知りたい人が居るなら、改めて掲載許可を取ります(笑)。

いやいや、それにしても、やはり旅の後の虚しさを払拭するのに一番いいのは、「まだ旅に居る気分に浸る事」であるのは言うまでも無いが、私としては、松代の真田家に仕えた出浦氏が、なにやら忍者っぽい家系だった事までは知っていたが、やはり現地でモロに見た物には格別の思い入れがあるもので、その方向からすると、坂城の出浦氏がその後どうなったのかわかったのは、何よりも嬉しかった(^^)。

ところが、松代真田家に仕えた出浦氏の方も、松代より戻って三週間後の日曜日、松代の竜泉寺からこんな電話が入って驚くべき展開を見せたのだ!
「出浦氏の墓が見付かりましたよ〜♪」
「は(・・;)?」

だいぶ時間が経っているので、もう忘れている人も多かろう(笑)。今年のたわごと3月を読んで思い出して貰おうか。真中のちょっと下あたり、<そろそろ本番、出浦氏を訪ねて>ってのがありますよね? そうそう、そこの辺りね(笑)。出て来るでしょ? 竜泉寺ってのが。それです。はい。

出浦氏を調べている方が私達が行った直後に竜泉寺を訪れたそうで、しかし私達と違ってちゃんとお墓を発見された!
それをまた竜泉寺の方が、私らの置いていったメモを手掛かりに、わざわざ私達にまで電話連絡して下さったのだっ!

しかも……松代に行く前、私が掲示板でワイワイと「松代に行きます〜(^O^)」とか騒いでたものだから、発見された方も「お墓を発見しましたよ〜♪」と掲示板に一報入れて下さり(笑)、その辺り、ここで重複して話すより、他コーナーの議事録に載ってるから、ダイレクトにリンクを貼ろうかの。コレよ(^。^)。
(トップからの場所を知りたい人、トップ→「戦国武将一覧」→「村上義清子孫の系図」→「議事録15」ですわ(^_^;)、はい)

ああ〜、やっぱり見付かったら見付かったで、「松代出浦氏の墓参りもしたい!」と唐突に矛盾の叫び声をあげ(笑)、思う所は……「いいなぁ、地元に戦国期に繋がる家系の碑が残ってるなんてさぁ……」なんちゅう声に転じていったのも、これまた必然である!

しかし松戸はどこまで行っても松戸である(当たり前)。新興住宅地の悲劇なのか、単に関東地方に山が少ないだけか、そんな大した山城とか伝承とかが今イチ残ってない土地なのである!(ええいっ、イラつく!)

それでもその2週間後、私は前に両親を脅して見に行かさせた「この辺りにそれでもある史跡」に、今度は亭主を脅して出掛けてみる事にしてみた(笑)。

<つづく>

2002年07月30日

 
     




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