<掲示板・議事録>


     
  「城主のたわごと」2014-03(埼玉北部2)


<こたつ城主 2014/03/06(Thu) 13:53>

題名:「城主のたわごと」2014年3月

↑あがりましたー!宜しくお願いしまっす(^o^)ノ

※ 過去更新状況
01/15「城主のたわごと」2014年1月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<Syoさま 2014/03/25(Tue) 17:50>

こたつ城主さん、お久しぶりです。(^^ゞおろっ
毎年のことながら、多忙時期でして。。。(*´ο`*)=3ホッ
ようやく、登城できたてござる。(>▽<;;
と言いつつ、毎度ながらの大作レポにつき度々隠密に
登城し<2014年・城主のたわごと3月> を拝読しておりましたが。。。

畠山(秩父)氏の軌跡
パソコンが何かと固まると言われていますが
いつもながらの力作でアカデミックなので
私の脳みそが固まったような・・・(^^ゞ爆

一番印象的なのは
畠山重忠が「馬の足を傷めるから」と、馬を労わって自ら背負っている銅像でした。(@_@;)
私は平家追討の一の谷合戦で、義経が取った戦法「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の現場を実際に訪ねているので
馬を背負っての下りには、三井寺に残る弁慶の引き摺り鐘伝説以上に衝撃を受けました!(@_@)
【播磨紀行「源平一ノ谷合戦」】
http://lakugaki.web.fc2.com/harima/harima.htm

畠山重忠と梶原景時の話も面白いです。
梶原景時絡みだと宇治川先陣争いなど
義経との確執で知る人で讒言の多々とある腹黒な武将という
イメージが強かったのですが、こたつさんのレポで勉強になりました。やはり、そういう武将ですね。(>▽<;;
畠山重忠は、梶原景時と対照的に語られる事に納得ができました。

畠山重忠は桓武平氏系なのですね。
また椎の木下にある重忠の父・畠山重能の墓をご亭主が発見されたのも功績ですね。よく発見されたなと思います。
是非、恩賞を差し上げてください!(^▽^;)爆

長尾景春の築城・居城鉢形城跡もいい感じですね。
こんな形で現存してるのは、こちらでは見たことがありません。

平将門の弟・将平の墓
墓石はかなり古く、倒壊したのか崩されていたので屋根で覆われて保護されているのかもしれませんね。
もう一箇所こる平重能の墓も屋根に覆われて大事にされてますね。平重能は、畠山重忠の父ということで桓武平氏系だとよくわかりました。

平将平を滅ぼした源経基は清和天皇−貞純親王を祖先とする清和源氏なのですね。
関東なら戦国大名の常陸源氏・佐竹氏が末裔だとか・・
清和天皇、貞純親王は柚子の里・水尾という所に眠っています。
昨年、私の愛馬・キララ号(自転車)で訪ねてきました。(^^ゞ
【柚子の里山・水尾】
http://lakugaki.web.fc2.com/mizuo-2013/mizuonosato.htm

>畠山氏滅亡については、北条時政が悪いのはわかりきってるが、畠山重忠の無実をわかっていながら、これを討った北条義時を
どう評価するかでずいぶん見解が分かれると思う。
畠山氏滅亡から世代交代クーデターまでの北条父子の間に見逃す事が出来ないとは、奥が深いですね。
> そうまでして武蔵国は、鎌倉幕府(というか北条氏(^_^;))が直轄地的に押さえておく必要があった……という事実は、新田義貞が一筋に武蔵を南下し、
鎌倉を急襲して、短期間に幕府を滅ぼしきった例を待って証明される。
・・・こたつさんの書かれていることに、なるほどと納得いたしました。

秩父神社
「四の宮」としては荘厳な社殿ですね。
神降石を押されているご亭主殿は田力男命ですか?(^▽^;)
「子育ての虎」と「つなぎの龍」が、日光東照宮で有名な左甚五郎の作と言われているのも素晴らしい。
実は、左甚五郎は伏見の出身とも言われているのです。
さらに私と同じく左党ですが。。。(^^ゞおろっ

鳳凰も素晴らしい。
実は昨日、修復中の平等院を訪ね鳳凰堂の大屋根の
鳳凰を眺めてきました。
龍と同じく創造の鳥ですから
私的には手塚治の火の鳥を連想してましたが
不老長寿に縁があるとかのようですし不死鳥なのでしょうね。

「お元気三猿」は初めて知りましたよ。
日光の「三猿」(見ざる聞かざる言わざる)と正反対に、「見る・聞く・話す」の姿をしている。
神社でも「大変珍しい庚申信仰の逆説をあらわす」と認めている。
でしょうね・・・(@_@;)

今年は、叡山(天台)の護法神・日吉大社にも参拝して
神猿(まさる)を見てきましたけどお元気三猿とは・・(^^ゞ

桜も咲き始め、春めいてきましたが
こたつファミリーさんも、どうぞ体調に気をつけてお過ごしあれ・・・



<こたつ城主 2014/03/26(Wed) 22:58>

>Syoさま

Syoさま、いつもありがとうございます〜♪
この時期が多忙でいらっしゃるんですね〜年度末ですもんね!
はい、私はこの所パソ不調が酷くて(>_<)、遅れに遅れてしまってます。。。

そんな中「城主のたわごと」お読み下さり、ありがとうございました(^O^)!
「たわごと」にも書いた通り、私は世代的に従来イメージされてきた畠山重忠像というものを全く知りません(^_^;)。。
馬担ぎエピも、鵯越の逆落としの段になると出て来る絵……ぐらいの認識はあったんですが、いつごろからどの書物によったかなんてのは愚か、何と言う武将の逸話かすら知らなかった……私も実は一の谷には子供の頃行った事があったので、もしかしたら「畠山重忠」と聞いたかもしれませんが、そう聞いても「ああ、あの人ね(^^ゞ」とイメージできる程、そもそも鎌倉武士に詳しくありませんから(関東人の癖に(^_^;))、記憶できなかったのかもしれません(^_^;)。

ご提示レポありがとうございました(^O^)!
パソ不調につき、読むのに時間がかかってスイマセン(^^ゞ。
Syo様のレポは本当に現地取材をされてて、一見学者の目線で撮られた写真は、メディア報道とは異なり、とても参考になります。
熊谷直実と敦盛の銅像は子供の頃に見たのより、周囲が庭園風にちょっと綺麗になったような気がしますね(゚.゚)。

で、梶原景時ですが(笑)、実際昔はどんなイメージだったのか知らないのです(^_^;)。
義経との対立や讒言、上には丁寧だが下には態度が横柄などは、鎌倉時代から既に云われてるようで、仰る通り、「やはり、そういう武将(≧▽≦)」となりますよね(笑)。
ただ江戸期の芝居物などでは、これよりさらに誇張された部分があるように思えます。
試しにwikiなど読んでみたら……又々途中でパソに固まられ、レスが遅れておりますが( ̄▽ ̄;)<コンナンバッカヤ、 やっぱりそのような事が書かれてますね……。ただ「近年の大河ドラマでは梶原は昔通りの悪人と違うイメージ」とあるんで、やっぱ私は昔のイメージを知らない世代なんでしょうね(>_<)。。

「吾妻鏡の記載自体が既に捏造」っぽい事も書かれてますが、一方の義経について「吾妻鏡」は手厳しい評価をしてるようなので、むしろ後世の創作物で義経を美化してしまったから、梶原=悪人の色合いが増した……という事かな〜と(^^ゞ。
それで言うと畠山重忠は、義経を擁護する側の人として配役されてる……とかですかねぇ(^_^;)。

亭主もしみじみ今回のレポを読んで、「畠山重能の墓って、こんなトコにポツンとあっていいのかなって場所にあったよねっ(≧▽≦)」と思い出し笑いしてました(笑)。
亭主はここ掘れワンワンをしてくれたので、では、この場を借りて恩賞をあげたいと思います(笑)。 ほれっ>(^。^)ノ ヾ♂ ▼・ェ・▼<わん!

いわゆる城跡公園みたいのがブームになった頃……80〜90年代ごろでしたか。鉢形城はわりと取り上げられる事の多い城跡だったと思います。
東国には程よい山が多いのと、関東甲信越は後北条氏は勿論、武田上杉も勝頼・景勝の時代にかけ、国盗りが熾烈を極めるのと、造作の凝った大城郭型の城作りが多くなるとで、関東に多い傾向はあるかもしれません。

将平の墓があるという話は、だいぶ前から知っていたのですが、その地域については、何か訪れる事のできない秘境のようなイメージが強くあって、目の前にした時はすぐには信じられないような不思議な感じがありました(^_^;)。
そして仰せの通り、この倒壊の様が、江戸時代から既に……という部分と、卒塔婆などは木製で最近の物でしょうが、これも倒れていて、自分の手で起こしていいのか迷ってしまう墓所でした。



<こたつ城主 2014/03/26(Wed) 23:01>

>Syoさま、2(続き)

この将平が六孫王経基王に滅ぼされたという伝えは、恐らく地誌か現地の古伝寺伝かと思いますが、将門に関わる歴史(将門記)では武蔵に任官されて来る段があるので、それで同じ武蔵に経基の伝承もあるのかな〜と思いました。
仰せの通り、経基は頼朝に届くまでに、八幡太郎義家やその弟・新羅三郎義光の祖でもありますから、義光流の佐竹氏・武田氏も経基の子孫という事になります。ついこないだ、常陸の佐竹氏の史跡を訪れて参った所です(^^ゞ。貞純親王はその更に幹の祖ですね(^^)。

関東の動乱は戦国期に急に現れわけではないので、なかなか理解しにくいのですが、その前哨は南北朝であろうと思いますし、前北条氏時代はその予防期間にも思います。
現在、東京23区のある東京湾寄りの大都会は、北の埼玉県を含めた多摩地域に西から囲い込まれ、この西部地域に新田+足利軍が急襲して来た過程が点々と確認されます。

新田義貞と千寿王(尊氏嫡男)の武蔵南下と鎌倉急襲は、さすがに「一息でなされた」わけではありませんが、ものの3週間ほど(日時は資料によって違いがあります)で滅ぼされた事を考えると、鎌倉幕府側として青天の霹靂と言えると同時に、歴代の各北条氏が武蔵を押え続けた理由を思い知ったんじゃないかとも思います。
この事が理解できないと、建武新政を敵に廻し、南北朝を割ってまで、尊氏が鎌倉を押え(残党に備え)た理由も計り知れない気がします。

手力男とは(笑)! ちょうど夜になった所だったので、そんな風情ですよね。秩父神社は、そういや天の岩戸から天照大神を呼びだす神様でした(笑)。
左甚五郎は私も伏見と聞いてますが、この頃すっかり「架空の人物」説が主流になってしまい(;_;)、日光東照宮の各彫刻はすこぶる有名ですし、他にも左甚五郎の作と伝承される建物は各所にあって、何らか教訓的な曰くつきの彫刻が極彩色豊かについてる物ですが、鳳凰や猿など、動物が生き生きと動的に描かれているのが特徴ですよね〜。

鳳凰は私も手塚治の火の鳥を連想します(笑)。なので、不死鳥なのかと思ってたんですが、どちらかと言うと、瑞兆の鳥なのだそうです。
日本では都を作るのに中国から風水を取り入れ、東西南北の霊獣に青龍・白虎・朱雀・玄武を充てるので、朱雀と鳳凰に区別が無いようですが、中国ではもっと古くは分かれていたようです。
が、仙人が住む山にいるとか、長生きだとか、飲み水や卵が不老長寿の薬になるとか、不死とまでいかないまでも、長寿には縁があると思います(^^)。

私も「お元気三猿」はちょっと驚きました。
これでも「庚申」と関係があるのか、それとも猿の彫刻があるのに、目を開いて耳を塞いでないので、掛け合わせに窮してそういう名前に後からしたのか……(笑)。
亭主も「変わった彫刻が多い!」と大層驚いて、暗くなる中を熱心に見ていました。
次回も続きをやりますが、残念ながら、だいぶ暗くなっちゃったんですよね(^_^;)。また見に(撮りに)行きたいな〜と思います。
日吉大社ですが、実はこの三連休に行った茨城でも、戦に破れて隠れ住んだ山で猿に助けられたので、後に日吉を勧請したという伝説のある地に行って来ました(^^ゞ。また後日レポしたいと思います。

何だか急に春めいてきましたね!花粉が多くてハクションの連発です(笑)。
この時期は、急に冷え込むような特に夜、風邪に気をつけたいですね〜(>_<)。。



<畠山義綱さま 2014/03/30(Sun) 23:14>

>こたつ城主様
拙サイトへのカキコありがとうございました!せっかくお越しいただいて、自分の掲示板だけに書くのも自分本位だなあ…と思いまして、同じ内容ではありますが、こちらにもカキコさせてくださいませm(_ _)m

3月の「たわごと」読了いたしました!埼玉県はなかなか見るべきところが多いのですが、こたつ様もいらっしゃった寄居の鉢形城に比べて、どうも県立の博物館は展示面でもよわい感じがしてしまいます…。しかし、こたつ様のようにしっかりと下調べをして時代背景をつかんでからいくと、これまた面白いものに変わると思います!
>傍らに建つ1988年の記念碑には<こたつ様サイトから引用
これもすごく微妙な問題ですね〜!「馬を担ぐ話も虚構」と文献からみると言えるのですが、郷土史家の熱い思いを受けるとそう簡単に断言できない…。武田信玄の肖像画と同じような問題点を抱えていますね!郷土史研究とは大切な面はたくさんあるのですが、歴史を愛するがゆえのむずかしさを感じますね…。

>前畠山とこちらの畠山では、そもそも血縁が違いますもんね〜(*_*)。。
そうなんです〜!鎌倉時代だとまた時代背景も違うので、さっぱりちんぷんかんぷんな場面が(笑)
>本当は七尾とか行きたいですけど(つД`;)。。
ぜひぜひお越しください〜!冬季は七尾城史資料館が休館になりますゆえ、ぜひそれ以外で(笑)
>(畠山さんとこがそうなら、ウチもそろそろなんだー忘れてたー爆)
お互い歴史サイトとして長らく続けてきましたね〜!
歴史サイトも盛者必衰な感じですが、こたつ様の15年間はコンスタンツに更新を続けておられることが素晴らしいと思います。やはり定期的な更新があってこそのサイトですし…。

こたつ様も季節柄熱い寒いの繰り返しですが、お体をご自愛ください!
こういうサイトの更新のご報告ありがたいです!ちょいと離れていた歴史に触れるきっかけになります!ありがとうございます!



<こたつ城主 2014/03/31(Mon) 21:18>

>畠山義綱さま

わ〜、わざわざのお運び、転載、ありがとうございます〜(≧▽≦)!お気づかい痛み入ります!
私も「同じ畠山でも実は違うんだよねー」と思いつつ、ウチで取り上げる事は滅多に無いから、メールでも……(^^ゞと最初は思ってたんです。
……が、何かそちらの板の流れを見てる内に、ふと書く気になりましてね(笑)。

それと以前、「そちらで前に読んだページが今見付からない」と言ったら、畠山さまが「リンク先が撤退し……」と仰った畠山重忠に関するページ、どうもやはり他サイトではなく、畠山義綱さまの「菅谷館」レポじゃなかったかしら、と思いました(^^ゞ。見付けられて良かった〜(^O^)!

……で、早速、博物館の話ですが、埼玉は県庁所在地に行ったわけじゃないので、そういうトコ行けばまた違うのかもしれませんが、そちらでもちょっと話した通り、つい最近、水戸に行きましてね。歴史博物館の大層な力の入れように驚きました!
御三家の地ですから、元々所持してたお宝が凄かったのでしょうけど、さすが常陸、歴史に対する意気込みの凄さを感じさせられましたよ(^^;)。。

>武田信玄の肖像画と同じような問題点
それがありましたかっっ(≧▽≦)!そいやあれは能登畠山氏(義続あたり)と言われて、畠山義綱さまはモロ渦中っ。。。って今、検索してみたら、だいぶトップ近くに義綱さまの「考察」が出て来ちゃうんですがっ(笑)。

>郷土史家の熱い思いを受けるとそう簡単に断言できない
特に時間が経っちゃった物はね〜。市民に認識されてた時間も「歴史」ですから。。

ところで重忠の畠山氏から、そちらの管領畠山氏への継ぎ目は、私は北条時政の娘……つまり「たわごと」に書いた通り、日本では珍しく「嫁の血筋」説を書きましたが、今wikiを見たら、時政の娘の産んだ畠山重忠の娘が継ぎ目って説もあるんですかね(゚.゚)?

色々ご声援お誘いありがとうございます(^O^)!あれこれ大目に見て頂いてm(__)m。
はい、桜も咲き始めましたけど、今日なんて花冷えですか、ちょっと寒いような……お互い気を付けて、出来る限りしぶとく頑張りましょう〜(笑)
 
     



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