<掲示板・議事録>

「城主のたわごと」2012-11(下妻編2)、2

     
  <Syoさま 2012/12/12(Wed) 23:56>

再びの、お邪魔させていただきます〜(^▽^;)
こたつ城主さま、いつも丁寧なレスをありがとうございます。
拝読させていただき、丁寧な説明に所々の箇所に補足も必要と食い付いてしまいました?!連続の書き込み、決して荒らしではございませんので平にご容赦を・・(^^ゞ爆

>後鳥羽院の女官の名は、松虫と鈴虫でしたか。そういえば最近そちらでも鹿ヶ谷のレポを拝見しましたが、鹿ヶ谷陰謀事件で要人らが集まった山荘のあった(と伝わるが、山奥すぎるとSyo様からご指摘のあった:笑)あの鹿ヶ谷と同じ場でしょうか(^^ゞ。

はい、平家打倒の謀議がされた鹿ケ谷事件の法勝寺執行・俊寛の鹿ヶ谷山荘で知られる同じ鹿ケ谷です。
【秋の東山三十六峰(南禅寺〜真如堂〜金戒光明寺)を歩くV】
http://lakugaki.web.fc2.com/kyoto1shyu-higashiyama-3/higashiyama-3.htm

後鳥羽院の女官の名は、松虫と鈴虫で法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人が二人を出家させ後鳥羽上皇の怒りに触れて両上人は斬首に処せられました。
先に書いた鹿ヶ谷草庵は現在の住蓮山安楽寺より東1kmほどの鹿ケ谷の山中に入った所に鹿ヶ谷草庵を結び布教活動していたと伝えます。
二人が斬首に処せられた後は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ住蓮山安楽寺と名付けました。
俊寛の鹿ヶ谷山荘と伝える所には三井寺別院・如意寺がありました。今は遺構の石段や楼門滝(如意ノ滝)があります。
この辺りに鹿ヶ谷草庵もあったかは、わかりませんが
後白河上皇らがここまで登ってきて密議を重ねたとは思えません。
いくら平家が怖いと言っても夜陰に紛れていればなお更にここまでの山道の方が怖いほどの山中過ぎです?!(^^ゞ爆
何よりも、俊寛僧都忠誠之碑、俊寛僧都鹿谷山荘遺址記を建立した人が、夢でここに石碑を建てよって宣託を受けとか・・・(>▽<;;爆
歴史はロマンってことで・・・(^▽^;)

>背景など色々想像する内に、慈円の事が思い浮かんだので今回は書いてみました。親鸞の初期の師であり、摂政関白家の出(九条兼実の同母弟)という事もありまして……(^^ゞ。
そうだったんですか・・愛宕山支峰の大鷲峰の山腹にあり鎌倉山と号する天台宗延暦寺派の寺・月輪(つきのわ)寺という今は尼寺ですが親鸞上人が承元流罪時に当時、ここに住まいしていたいう月輪関白・藤原兼実との別離を惜しんで手植えした桜と伝え別離の悲しみを憂い、親鸞の心が桜を通し葉末から涙を流すとも言われ毎年5月頃に雨も降らないのに雫を流すという時雨(しぐれ)桜と親鸞像があるのですよ。
なぜ親鸞が月輪関白・藤原兼実に会いに愛宕山に登ったか接点がわからなかったのですが合点ができました。(*´ο`*)=3ホッ
ところで、この時雨桜が涙するのは 私が早春に危険な目にあってまで探訪した愛宕山の寒蝉(ひぐらし/日暮)滝の滝水が風に乗って桜を濡らすといわれています。
また、明智光秀が信長を攻める前に愛宕山に詣でて当寺で石楠花を手植えしおみくじをしたとも伝えます。
【愛宕山散策】http://lakugaki.web.fc2.com/atagoyama/atagoyama1.htm

こたつさまの書き込みにビビッと反応して、自分のレポなのにそうだったのか・・だからそうなんだと今更な合点をしてしまい、またの書き込みをさせていただきました。
ということで、この書き込みは先の書き込みの補足という事で読んでくださるだけで結構ですのでレスは、スルーしちゃってください。(*^-^*)
長々と失礼いたしました。。。決して荒しではありませぬゆえ。。。σ(^_^;)アセアセ...



<こたつ城主 2012/12/13(Thu) 21:37>

>Syoさま

わ〜ありがとうございます! こちらこそ二度足させてスイマセ〜ン!
でも助かりました(^_^A)。そうなんです。そちらで読ませて頂いた時も、同じ場所?と思ったのを、このほどお書き込み頂いたの読んで思い出し、あれ?どれだったけ、どれだっけ?と探しつつ、ちょっとすぐには見付けられなかったので……。

>【秋の東山三十六峰(南禅寺〜真如堂〜金戒光明寺)を歩くV】
>http://lakugaki.web.fc2.com/kyoto1shyu-higashiyama-3/higashiyama-3.htm

これです(^^)! そうそう! このたびは、ちょうどそちらが宇治十帖に鹿ヶ谷、こちらが源信&法然&親鸞と、だいぶネタが被りましたね(笑)。
元々このネタは畿内や北陸と違って、ウチ辺りではとんと絡みが薄いので(^_^;)、書けるネタに会った時あれもこれも書くんで、食いついてまで教えて頂けて助かりますm(__)m。

平家打倒謀議:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.48.33.4N35.1.2.5&ZM=9
法然院:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.48.2.2N35.1.14.1&ZM=9

↑位置はこうですね。わりと近いですね(゚.゚)。歩いて10〜15分ほどかしら……。

>法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人
これがまさに、他宗の抗議者らに、恐らく最初から「折あらば訴えてやろう」と目されてた二人です。特に安楽の方は、既に法然に破門されてた行空とともに、過激派として名指しで非難されてた上に、後鳥羽後宮女官の件が加わってしまったようです。。
ただ抗議者の目的は専修念仏の停止であって、特に風紀問題のみ取り沙汰されてたわけじゃないんですが(笑)、この風紀問題というのも、密通じみた事があったかは闇の中で、それよか内外の多くが「法然だけは助けたい」と思ってたので、もしかしたら、その分、弟子の方に罪状が強く響いてしまったのでしょうか……↓

>流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために
>草庵を復興するように命ぜられ住蓮山安楽寺と名付けました。

こう聞くと、法然からはこの両名に対して、破門といった厳しい姿勢は感じられませんものね。。

>後白河上皇らがここまで登ってきて密議を重ねたとは思えません。

平家打倒の謀議については、それこそ慈円の書いた「愚管抄」に「鹿ヶ谷」と書かれてる(山荘を俊寛の物とするのは「平家物語」で、「愚管抄」では静賢法印の山荘とする)ようですが、慈円と言い、その兄の九条兼実と言い、「噂」「事実関係を確かめて無い」と言ってる点から、むしろ謀議自体が無かった……つまり清盛らのデッチ上げ(冤罪)じゃないかとも言われてます(^_^;)。
だから、かような山奥で……となると、ますますデッチ上げ臭さが漂うかも(笑)。



<こたつ城主 2012/12/13(Thu) 21:39>

>Syoさま、2(続き)

>親鸞上人が承元流罪時に当時、ここに住まいしていたいう月輪関白・藤原兼実との別離を惜しんで手植えした桜と伝え別離の悲しみを憂い、親鸞の心が桜を通し葉末から涙を流すとも言われ

これも又、感慨深い逸話ですね。九条家は兼実の子・良経の時代になってますが、流罪が下された時は、まだギリギリ兼実も生きてる頃で、手を尽くして法然を庇護するんです(^_^A)。もちろん、子の良経も手厚い庇護者の立場を引き継いでますが、これもまた急死してしまうんですよね。。。
ただ親鸞との関係については、弟・慈円との師弟関係が、兼実の話になったのか……また全然宗派が違いますが、実は九条兼実って、臨済宗の栄西(も法難じみた目に遭うので)が鎌倉に赴いたのにも、裏で手助けしたのではないかと言われてるんです(笑)。

>こたつさまの書き込みにビビッと反応して、自分のレポなのに
>そうだったのか・・だからそうなんだと今更な合点をしてしまい、
>またの書き込みをさせていただきました。

いやいや、こちらこそ貴重なツギハギを施して頂いたお蔭で、大変タメになりました!
やっぱり地元、京におられる方は地の利が違いますよね(^_^A)。どことどこが近隣とか、遠い所に住む者にはまるでピンと来ませんから!(笑)
 
     



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