<掲示板・議事録>


     
  「城主のたわごと」2010-04(岩手南部編5)


<こたつ城主 2010/04/15(Thu) 19:26>

題名:「城主のたわごと」2010年4月

↑アップしました♪ 宜しくお願いします(^o^)。

※ 過去更新状況
03/11「城主のたわごと」2010年3月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<小野寺維道さま 2010/04/24(Sat) 18:03>

どもです。

旅行記拝見。
厳美渓の写真多く掲載していただきありがとうございます。
やっぱりキレイですね。自分が通ったときは真っ暗で見えなかったので・・・。

朝食。豪勢ですね。コレってちょっと迷っちゃうんですよね。ご飯に何を載せて食べればいいの?って。三杯食べられて、それぞれ載せられればいいけど・・・。

毘沙門堂の社額は面白いですね。なんと書いてあるのでしょう?「霊堂」とか見えません?ちがうかな?神仏習合ですね。毘沙門堂はスゴイ!!

坂上田村麻呂。蘇我倉山田石川麻呂とか思い出しちゃいます。こちらも御子孫さんは石川さんを名乗ったとか・・。

鱒淵華足のお話が・・・。目の前までいったんですけど、時間が無くて・・・。悔しい。



<こたつ城主 2010/04/26(Mon) 17:47>

>小野寺維道さま

「城主のたわごと4月」ありがとうございます(^O^)。
そうそう厳美渓、去年の11月ごろでしたよね。写真、今頃でスイマセン(^^ゞ。
でもあの辺って真っ暗でも、渓谷の雰囲気が伝わりますよね〜♪
旅館と言い、温泉と言い(朝ご飯と言い:笑)、昔の風情タップリで、岩手は遠野に限らず、平泉以南の厳美渓や達谷窟も、民話と伝承の世界でした〜(#^.^#)。

達谷窟は、居る間はそんなに感じなかったんですけど、後で振り返ると、かなりな異空間だったな〜と思います(^_^;)。
昨日も亭主と「これ心霊?」とか写真を見直した所です。うん、「霊堂」かも(笑)?

>鱒淵華足
今の所、小野寺氏とも保呂羽信仰とも関係あると思ってないので、こちらで書きます(^^ゞ。

宮城県は海岸沿いを北へ、名取、松島(五大堂)、石巻、涌谷、登米、三陸海岸と、それは濃厚に「高丸」や「大武丸」の伝承で満ち溢れてるようです(笑)。
登米の東和町「水越長谷・鱒淵華足」は、大武丸(や与党)のアジト説の「七観音」ですが、三観音になると大武丸の遺体から派生した伝承になってます。

又、それぞれの地域で、だいぶ広範囲の地名に跨る伝承を持つようです。
一例ですが、松島の「五大堂」では、討たれる「高丸」と討伐する田村麻呂が、駿河の清見関→奥州の神楽岡と移動し、高丸の首は京に献じたが、旗や弓矢は胆沢八幡神社に奉納され、達谷窟に多聞天を、松島を通って堂を建立し、ここにも多聞天を安置した(後の五大堂となった)という具合です(笑)。

大武丸はさらに北の岩手県に入り、北方の岩手山に、特に伝承が多いようです。
これら賊徒の名が地域間で著しく異なり、名前の数もハンパでない多さで書ききれませんし(^_^;)、名前が違うから気付きにくいですが、実は田村麻呂伝承が元、という事が非常に多いです。(秀衡・藤太・安部などはザラに出て来ます:笑)

なので、そのうち「保呂羽」とは関係が出て来る可能性がとても濃いように思いました(笑)。



<北畠具顕さま 2010/05/02(Sun) 21:04>

たわごと、本日読了。
鈴鹿御前ってのにはいろいろなお話があるんですね
「鬼切丸」って漫画しかソースを知らなかったので
鬼の嫁さんってイメージしかなかったのですが
今回はそれだけでも感心しきりでした。



<こたつ城主 2010/05/05(Wed) 11:52>

>北畠具顕さま

昨日と一昨日はおらなんでm(__)m。
「城主のたわごと4月」ありがとうございます〜☆ミ
鈴鹿御前の鈴鹿は、伊勢の国ですものねー(^^)。
「たわごと」にも書いた通り、田村麻呂の話とは、最後にくっついた系統のようですが、最初の頃は盗賊だったのが、鬼とか妖怪みたく変化した感じですね。
あと鈴鹿御前の助けで、田村麻呂が大武丸から剣を取り上げるんですが、「太平記」には、田村麻呂が鈴鹿御前と交えた太刀が「鬼丸鬼切」と見えます。
どうも頼朝の頃に出て来る「髭切」の別名っぽいような……(^^ゞ?



<具合悪佐守さま 2010/05/10(Mon) 13:15>

悪佐に御座る。

随分とご無沙汰を仕りお恥ずかしき限りに御座る。
城主殿には、ご健勝のご様子、眞に慶賀の至りに存じ奉る。

陸奥を旅せられしとのこと、実に羨ましゅう御座りまするな。
某などは、相も変わらず禄は増えねどもご奉公ばかりにて、
漂泊の思い徒に心を責むるばかりに御座る。左様、月日は百代の過客とは申せども、我が身ひとつ取り残されしようで、未だ甲斐無き身の、某が旅に出でらるるは、もはや黄泉路のみにやあらめと、情けなきことに存じおる次第に御座る。
城主殿の記に寄せて詠み申した。お笑い下され。

風薫る
長者ヶ原の
夢のあと
長者ならねど
目に浮かびけり

何やら人恋しさにふらりと立ち寄り申した。
ご無礼の段、平にご容赦下されたく。
それでは御免仕る。

具合 悪佐守



<こたつ城主 2010/05/14(Fri) 20:13>

>具合悪佐守さま

ご丁寧なご挨拶を頂きまして……。
「城主のたわごと」3月か4月か、お読み頂いたようで、ありがとうございます。
ご旅行ご不便との事、拙レポで多少でも御慰めとなれば幸いでございます。

お書きの句、そういや何か平泉っぽいような(笑)。あそこは夢の跡だらけですから。
長者ヶ原廃寺跡は簡素な仕切りで、周囲の山景や礎石から、塔と葺き屋根があった事が想像でき、確かに目に浮かぶようではあります。
 
     

     
  「城主のたわごと」2010-05(岩手南部編6)


<こたつ城主 2010/05/22(Sat) 22:54>

題名:「城主のたわごと」2010年5月

↑アップしました! 宜しくお願いします〜(^O^)。

※ 過去更新状況
04/15「城主のたわごと」2010年4月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<林六郎光明さま 2010/05/30(Sun) 12:50>

どうも、お久しぶりです。加賀の林です。
このところ毎年春になると、妙にアクシデントに見舞われているのですが、さすがに今回はきつかった…
とりあえず何とか脱出してきましたので、また今後とも、よろしくお願いいたします。

たわごと、拝見しました。
実はン十年前に平泉に行ったことがあり、その頃は胆沢城跡も毛越寺跡も、あまり何もないところを発掘の真っ最中で、その変貌ぶりにびっくりしながら拝見していました。

そこでご質問なのですが、毛越寺跡の入り口近くに、「平泉博物館」なるものがありませんでしたか?
古戦場跡から出土した石鏃などが展示されていたのですが、ルポの中にそれらしいものがなかったので、今はどうなっているんだろうと思ったしだいです。

当時、私が平泉に行った理由というのが、胆沢城跡と無量光院跡を見に行くというのだったので、次回予定の無量光院跡は本当に楽しみです。



<小野寺維道さま 2010/05/30(Sun) 23:38>

旅行記拝見。

年齢の推定は歯の摩耗でしたか。知りませんでした。
だいぶ前ですが中古車のメーター巻き戻しなどがあったので、買うときはブレーキペダルの摩耗や、シートのへたりをよく見るんだよ。とアドバイスされました。
何か似ている(笑)

毛越寺はやはりいいですね。時が止まったような感がします。

清衡の妻。
かみ砕いてご紹介していただきありがとうございます。
こたつさんの方がとても判りやすいです。

「磐前村印」は柳之御所で発見されたのですね!!
栗原市岩ヶ崎とされています。

鱒淵華足
お話ありがとうございます。全然由来とか知りませんでした。水越の長谷寺も由緒ある寺なのですね。
忘れてしまいましたが、日蓮宗大石寺系の僧侶がそこで修行したとか伝わっています。
保呂羽が広まったのも関係あるかも知れませんね。



<こたつ城主 2010/05/31(Mon) 17:41>

>林六郎光明さま

「城主のたわごと5月」ありがとうございます。平泉は林さまお薦めでしたよね(笑)。
私も中尊寺金色堂は覚えてるんですが、毛越寺は何十年前だったか……やはりまだ、あのようにはなってない頃でした(^^ゞ。後で、行った人の写真とかテレビなどで庭園を見て「行った時どうだったかしら……」と(笑)。

博物館ですか……(^_^;)。
毛越寺の敷地に入ってスグ左手に宝物館があり、発掘物なども展示されてました。
あとは、毛越寺の北に金鶏山があり(そのさらに北に中尊寺、東には無量光院という位置)、山の入口・駐車場付近に「平泉文化遺産センター」があるようです。

無量光院は……正直そんなにどうという事もない場所かもしれません(^^ゞ。
胆沢城跡は、12月と1月に載せた通り、田園の中にあるだけなんですが、周囲の見晴らしと言うか、居心地が悪くなく、「奥州市埋蔵文化財調査センター」が近い所にあるので、一箇所だけポツッと離れた史跡ではありますが、行ってみた感じが良かったです♪


>小野寺維道さま、1

「城主のたわごと5月」ありがとうございます〜!
奥州藤原氏のミイラは、「平安期の人骨」という「古さ」も当然の事ながら、「四代ともに残ってる」という点が貴重なのかもしれません。
歯の減り方一つ採っても、体型や生活習慣、持病など、個性によって食物の噛み方とか違って、一概に何ミリ減ってるから何歳……とは単純に推測しがたいかもしれません。 そこが、父や祖父と一緒に埋葬されてると、条件比較が成り立ちやすい、という事が言えるかもしれません(^^ゞ。

毛越寺良かったですよ〜(≧▽≦)。
実は亭主が、中尊寺は想像とちょっと違ってたようで、その点、毛越寺に行ったらスゴイ満足ゲでした(爆)。

そうそう、清衡の妻の件では、バリバリお世話になっちゃって(^^ゞ。
仕上がりは所々、反抗的になりましたが(^_^;)、でもスゴイ参考になりましたよ!!
特に「長秋記」は原文を見れてなかったので、とても助かりました。本当にありがとうございましたm(__)m。



<こたつ城主 2010/05/31(Mon) 17:43>

>小野寺維道さま、2

>「磐前村印」は柳之御所で発見されたのですね!!
へ〜! 栗原市の地名だったんですか!
そうそう、書きながら私も「どこの村だろう(゚.゚)」と思ってたんです〜!

>>登米の東和町「水越長谷・鱒淵華足」
>日蓮宗大石寺系の僧侶がそこで修行したとか伝わっています

大武丸の首・胴・手足を分けて埋葬したのが、富山観音(松島町)・箆岳観音(涌谷町)・牧山観音(石巻市)だそうですが、他に、「箆岳」に大嶽丸がいて、「牧山」にはその妾の「魔鬼女」がいた、って伝説もあるようです(笑)。
遺体を三分割して……ってスタイルは全国にありそうですが、日蓮宗という事だと、例えば千葉県でウチの近くだと、印旛沼の龍神伝承なんかがこの類ですね(^^ゞ。

水越長谷・鱒淵華足の方は、まず首領の大武丸を佐沼(登米郡迫町)で仕留め、その眷属たちを討った場所が、箆岳・水越長谷・鱒淵華足(登米郡東和町)・南部三戸(岩手県)・小迫・富山、と六ヶ所にあったので、南方の大武観音をあわせて「七観音」とするそうです(^^ゞ。
大武丸は、よく「大嶽丸」とも書かれ、地名になってる所もあるようですが(^^ゞ、確かに地図を見てると、その辺りでよく見掛けます(笑)。
 
     



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