<掲示板・議事録>

「城主のたわごと」2009-10(千葉〜銚子編2)

     
  <こたつ城主 2009/10/09(Fri) 20:43>

題名:「城主のたわごと」2009年10月

↑アップしました〜宜しくお願いします(^^)。
明日から三連休だったかもっ(笑)。先が読めないけど、居ない日あるかと思うですー!

※ 過去更新状況
09/11「城主のたわごと」2009年9月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<小野寺維道さま 2009/10/15(Thu) 23:45>

旅行記も拝見。
「ちばらぎ」と言われ、他からは一緒に見られがちですが、
お互い昔から切磋琢磨というのか、あるいはライバル心があるというのが、「こは人々のおこたりをいさむるわざなれば、筑波嶺のかがひなどには、いといとまされる風俗といふべし」の文言から伺えますね。当時は「下総対常陸」で「ちばらぎ」じゃないですけどね。うちは旧下総なんで・・・。

おゆみ野は知っていたのですが、新地名かと思ってました。
もともと漢字だったんですね。

千葉神社は立派ですね。妙見は北極星なんですね。
先日東北の住宅地図を見ていたら「北極星神社」と書いてありました。なんてダイレクトなんだろ
「妙見」は七画七画なんですよね。

岩手一関長坂城の千葉さんを調べたら頼胤の子孫となってました。
頼胤は常胤の七男説、常胤と同一人物とする説や、常胤の孫(胤正の子)とする説があるそうです。なかでも三番目が有力とか。



<こたつ城主 2009/10/16(Fri) 20:28>

>小野寺維道さま、1

「筑波嶺のかがひなど」は、「筑波より勝る」か「筑波のと同じで勝る」なのか(^_^;)。
筑波山は常陸ですが、小野寺様は下総ですよね(^^ゞ。相馬日記は主に下総を書いてるかな。相馬も下総ですし(笑)。

>東北の住宅地図を見ていたら「北極星神社」
ほんとダイレクトですね(≧▽≦)。東北はスケールの大きさとストレートさが魅力です。

で、奥州系譜の件ですが、実は私も、微妙に小野寺氏ともダブる気が(^^ゞ。
千葉常胤の子から出た系譜だと、千葉六党の相馬・武石・大須賀など、全て奥州征伐の恩賞って事と思いますが、相馬氏などは最初、支族や家来を現地にやって収めさせてたんじゃ……と思いますし、六党の子孫が「千葉」を名乗った話も、今の所は知らないです(^^ゞ。
奥州藤原氏の後差配には葛西氏が当たってますので、小野寺氏と同様、予め千葉氏の支流(か家来筋)が奥州に行ってたりで、最終的に葛西氏の支配下に入ったといった所かな、と想像しますが、東北に「千葉」は異常に多いようなので(特に登米あたり囲んで(^_^;))、一系統ではないのかな〜とも。。

「頼胤」は、「たわごと」に示した系図「A(紫色)」で、元寇の頃に同名の当主が居るには居ます(^^ゞ。
頼胤の子から房総と九州に分かれたのは、九州の所領を守るためもあったと思いますから、似た事情で東北にもう一人、子をやっといた方が……てな背景でもあったのでしょうかね〜(>_<)。



<こたつ城主 2009/10/16(Fri) 20:29>

>小野寺維道さま、2

常胤の男子は、「六党」の6人息子の他に、「日胤」という息子も居て、頼朝の挙兵に先駆け、以仁王や源頼政が挙兵した折、以仁王とともに死んだとも言われます。
これも前から、「小野寺」氏に似たような僧侶出身者が居るな〜とは思ってました(^^ゞ。
常胤と同一というのは……日胤は胤正の兄か弟でしょうけど、胤正は嫡男で宗家ですから、胤正より年上は父の常胤しか居ないから……みたいな所でしょうかね(>_<)。。

「胤正の子」というのも、それなり説得されてしまいそうです(^^;)。。
胤正の子の常秀の系譜が、三浦氏滅亡(宝治合戦)の連座を食らって滅亡したからです。
これも小野寺氏に似たような……確か「仙北系の経道」という人が、「三浦泰村の次男」という伝えがありましたよね(^^ゞ。宝治合戦の滅亡劇と東北は関係が深い気もします。
常秀の系譜は上総だったようなので、もしかしたら上総広常の一族との混同という線もあるでしょうか。



<小野寺維道さま 2009/10/17(Sat) 10:07>

千葉日胤の情報ありがとうございます。
小野寺と似てますね。
手元に紫桃先生の書があって調べてみたら、やはり常胤の子の七番目に「日胤」が載ってました。系図の注書きには「祈祷師」と書かれていて、その跡の系図は載ってませんでした。
あれれ。よく見ると「曰」になってました。誤植かな?

http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/yosifumiryuu9.htm

こちらの系図では子孫が居て亀掛川氏になってます。
紫桃先生の書では
常胤−胤正−胤親−基親となってます。
拙私考48で紹介した米谷(亀掛川)氏がその子孫のようで
この一族からは「日尊」という日蓮宗の高僧が出てます。
おかげさまで、千葉氏に更なる親近感が湧いてきました。
ありがとうございます。

東北に入った千葉氏はおっしゃるとおり一系統ではないでしょうね。

千葉笑は「大いに勝っている」ではないでしょうか?(笑)

「北極星神社」は場所を失念してしまいました。
判りましたらお知らせします。たぶん宮城県北部だったような・・・。千葉さんが御守りしているとうれしいですね。



<こたつ城主 2009/10/18(Sun) 04:47>

>小野寺維道さま

おおっ(゚.゚)。日胤から出た系図というのが、こうまで具体的にあるんですね!
ご提示ありがとうございました! 私の方こそ今後の役に立ちそうですっ(^^)。
薄衣というのは、実は今回、時間があれば行ってみようかなと思ってた城跡の名です(笑)。
実際は時間ナシナシすぎて、近くを通る事すら出来ませんでした(TOT)。。。

私考48……m(。。)m。あ〜ここに出て来た人が……なるほど〜(^^)。
日蓮宗の僧を、同じ宗派として支援する事は多いに有りそうですよね!
日で始まる名は日蓮宗に多いですが、日胤の時代にまだ日蓮は生まれてませんので、後の妙見信仰と日蓮宗伝播の繋がりあたりが、何か鍵を握ってたら面白いですね♪

実は、千葉城の郷土博物館で貰った資料では、日胤は「七男」とされてます(^^ゞ。
「頼胤は常胤の七男説」とお書き頂き、私も「日胤?」と思って書いたんですが、頼胤と日胤が同一人物とは限らないし、地域の伝えで兄弟の順が違う場合もあるかもしれません。

「祈祷師」というのは、頼朝の祈祷を勤めていたそうです。流人の頼朝は、伊豆でタテマエ読経三昧をしたので(^_^;)、そういう人物がいた可能性はあると思います。
また、日胤は園城寺の僧だったので、以仁王の挙兵の折は、行き掛かりもあって(宗派を超えた叛乱同盟っぽい事がありました)、王とともに立て篭もり……という事のようです。

ただ僧籍に入った人でもあり、また不慮の死を遂げた人物ともされてる上に、説話的な要素の強い人物像ともいわれ、後世に付加された可能性もあるようです。

房総でも、後に日胤の子孫らしき(?)が登場するのですが、これも千葉六党など、従来から房総に根を張る勢力による基盤の強さを、逆提示的に裏づけする証左にも思えます。
戦国期になると、上総の武田氏や安房の里見氏といった、千葉支族の名を借りずに興る大勢力も出て来ますが、これも馬加氏が宗家の千葉氏を追い出すまでは、千葉一族(千葉六党など)にあらざれば……という空気が濃厚だった事の裏返しかもしれません。

それから、前回抜かしてごめんなさい(^^ゞ。「おゆみ」は「麻績」が語源とも出て来ます。
北極星神社、私もぜひ参拝してみたいです〜!
o(^^)o (^∧^) o(^^)o (^∧^)<パンパン
 
     




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