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小田原城の遺構
<東方賓従者(旧・金吾右衛門)さま
[関東] 2002/04/24(Wed) 01:03>
こたつ城主さまこんばんは。
20日の土曜日に、例の小田原城八幡山遺構の発掘現場見学会がありまして行って参りました。
で、今回の検出遺構なんですが、八幡山遺構のうち「藤原平南堀」「藤原平南入堀」「八幡山大堀切」「西曲輪西堀」のそれぞれ一部です。特に、「藤原平南入堀」と「西曲輪西堀」はお互いが虎口を形成してると思われる場所で、またその規模も大きく堀底は当初から予想されてた通り障子がでました(今回は2枚の検出)。
堀の深さは約7.3m、畝(障子)の高さは約1.3m、堀の上幅が約14mです。
これら堀遺構の底からは、16世紀後半の水差(信楽)や天目茶碗(瀬戸美濃)、14世紀代の青磁碗(中国・龍泉窯系)といった茶道関係の陶磁器片が出土しており、身分の高い人物が暮らしていたと想像されています。また櫛なども出土しました。
また、見学会の日の夕方、久方ぶりに墓参にも行ってきたのですが、同じ墓地内に小田原藩士の相馬家の墓があることを今回初めて知りました。これは、戦国末期に北条氏に属した下総相馬家の相馬治胤の弟、相馬胤永の子孫一族のものだという事でした。
また、小田原藩士相馬家の屋敷にも将門を祭る相馬神社があり、屋敷内には、将門ゆかりの地には桔梗が生えないので有名な「桔梗伝説」も伝えられていたそうです。
同相馬家は廃藩後の一時期、東京の「芝区桜田太左衛門町」に住んでいたようですが、現在は関西に移っており、こちらへの墓参も無いようでした。
<こたつ城主 [関東]
2002/04/24(Wed) 18:46>
>東方賓従者(旧・金吾右衛門)さま
おおーー! 山岳部!(爆) 早くも戦後の動きを見せ始めましたね!
小田原か〜。近けりゃ私もしょっちゅう行ってたかも。
虎口に畝(障子)堀ですか(゚.゚)。甲州や信州(あと松戸にも(^^ゞ)にも瞬く間に伝播したようですが、最初は北条氏のどの城だったんでしょうね。
>16世紀後半の水差(信楽)や天目茶碗(瀬戸美濃)、14世紀代の
>青磁碗(中国・龍泉窯系)といった茶道関係の陶磁器片が出土
>しており、身分の高い人物が暮らしていたと想像されています。
あれ(゚.゚)? 誰が住んでいたのかは判ってないんですか? しかし青磁は結構出るんですね(私がたまたま行った場所とかに多いだけかな?)
>戦国末期に北条氏に属した下総相馬家の相馬治胤の弟、相馬胤永
>の子孫一族のものだという事でした。
あ! この人かどうか判らないけど、確かに下総相馬氏から北条氏に仕えた(属しただけなのか)人物が居るって聞きましたね。
>屋敷内には、将門ゆかりの地には桔梗が生えないので有名な
>「桔梗伝説」も伝えられていたそうです。
これって何だろう、と思ったので調べてみたんですが、↓
「九十九里将門生誕伝説」:http://johokan.net/History/Folk/masakado.html
(房総の民話や伝説:http://johokan.net/History/Folk/index.htmlより)
こんな話があるんですね! 敵に情報を知らせたため将門が死んだ事を悔やんだ桔梗という愛人が自殺して、それ以来、桔梗が生えなくなったのですね。
<東方賓従者さま [関東]
2002/04/25(Thu) 00:57>
こんばんはー。
あ、もう旧HNは付けてくださらなくて結構ですよ、長くて面倒でしょうし。
障子堀そのものは宮城から島根まで各地で検出事例が出ているようですが、初期のものってのはどういう所からでたんでしょうね。自分も興味があります。ただ、堀や土塁というのは消耗品であって、何度も改造や修築を繰り返されてるので、純粋な初期のものと確定できるのってあるのかな。
もちろん「障子堀」の定義そのものもまだ全国的に共通した認識が受け入れられてないかもしれないので、さらに面倒。
ただ良く勘違いされてるのは、「明り障子」の桟(木枠)の目に似てるから障子堀というのは概ね否定されてるようでして(特に根拠があるとも聞いた事がありませんし)、江戸時代の兵学書などの記述に従い、障壁としての畝状仕切を備えた堀を意味するものを示すのが正しいようです。「障子」も昔は「ふすま障子」「ついたて障子」などと、略されずに呼称があって、現在言う「障子」はその内の一つの「明り障子」な訳です。
またその用法も、堀内を敵兵が移動しにくくする為だけでなく、城や施設の立地・存在目的により多種にわたっていたようです。
例えとしては、「忍び除けに水堀の底に設けるタイプ」「山城の水不足を補う為の雨水溜」「通常の平地空堀(または水位が浅い水堀)を泥田状にする為のタイプ」「堀を作る時に湧水が邪魔な場合の意図的な掘り残し」などなどで、さらにそれらの複合タイプもあるようです。
とにかくこうした工夫は、実際に工事を請け負う者達の経験が重ねられた末のものだと思うと感心してしまいます。
なにぶん北条時代から初期大久保氏までの城絵図が見つかっていないので、現在の所「藤原平」に誰が住んでたかはまだ分かっていませんが、藤原氏であった大森氏に由来するものと思われています。北条氏初期(氏綱か氏康中期の頃までか)の本丸(本曲輪)である「八幡山本曲輪」とは「西曲輪」を挟んで隣り合っているので、やはり相当な位の人が生活していたと思われます。
また氏康以降も、隠居した前当主が八幡山本曲輪に入り、当主が平地の本曲輪に入っており、秀吉の小田原征伐の頃は『小田原陣仕寄陣取図』(山口県文教館蔵で毛利家に伝来したもの)などを見ると氏政とその配下がこのあたりにいたものと考えられます。
「藤原平」のあたりは広い平坦面ですから、やはり屋敷などの建築物を想像しやすいのですが、現在はまだ柱穴を思わせる土坑などは検出してないようです。
将門伝説のサイトのご紹介、ありがとうございました。
桔梗が母親だという説もあるんですね。
正月に門松を立てない土地も全国にあるようですが、由来はみんなこうした不幸によるものなんでしょうかね。
影武者とか、とにかく将門伝説はいっぱいありそうですが、それだけに人気の高さも伺えますね。
さらに大友皇子の伝説まであるとはー。
実は小田原にもあります。
また長くってゴメンナサイ・・・。
<こたつ城主 [関東]
2002/04/26(Fri) 16:13>
題名:昨日の工事のため
慌ててスペースを空けようとバタバタ片付けた物が、今日になってどこにあるか判らなくなり(^_^;)、探している本日であります。
あ〜あ、何処行っちゃったのかなぁ〜。
<こたつ城主 [関東]
2002/04/26(Fri) 16:13>
>東方賓従者さま
宮城ってのはある感じがするけど、島根と聞くと、いつ頃にどう伝わったのか、また興味が湧きますね。
仰せの通り、私も堀や土塁は後世に伝わった城ほど残ってないと思います(^_^;)。廃城になった時点で、その最後に施された改築後が残されてるだけでしょうね。だから遺構から検出するのは、まず無理かと(^_^;)。
ただ信州や甲州になると、ある一定の時期(天正年間ですね)より後の城跡(つまりこの辺りは廃城となった山城跡が多いから)に、どっと虎口や障子堀が増える感じがします。
この急激な変化をもって、「人は城、人は石垣」なんちゅう言葉の示す、信玄と勝頼の時代の差を言われたのか、と思うほどです(そして又、ある一時期より先は、ピタと止まるんですね(^_^;))。
堀の違いってのが今イチ判らなくて、明り障子もどっかに書いてあったと思うんですが、スイマセン(^_^;)、今それっぽい本が出て来ません(爆)。昨日片付けた時どっか行っちゃったようで。ちなみに虎口についても混同があるんでしょうか。
>またその用法も、堀内を敵兵が移動しにくくする為だけでなく、
>城や施設の立地・存在目的により多種にわたっていたようです。
元々は戦闘(篭城)のためでなく、築城の補助として用いられた工法だったかもしれないですね(^_^;)。特に「水不足の解消」や「湧き水除け」はすごく納得。
案外、築城途中の城に攻めて来られて、まだ工事中だった所に敵がハマッて動きが取れなかった、なんてのが畝掘の最初だったり……。←ありがち(笑)
>藤原氏であった大森氏に由来するものと思われています。
ああ、こないだ伺った話にも出て来ましたね、大森氏。伊勢から早雲よりも前にやって来た勢力だとか仰いましたが。
何しろ八幡山に、小田原征伐の時の氏政が居たという事は、戦闘時の建築か居館かが判って来れば、この時期の北条氏の全容が見えて来る感じがしますね。
>将門伝説のサイトのご紹介、ありがとうございました。
いやいや(^^ゞ、私も桔梗伝説自体を知りませんでしたので、こちらこそ御礼を言います。 門松を立てないというのは、それもまた将門伝説に関わるのでしょうか?
将門伝説というのは正直な所、本来の将門を越えて、いろんな伝承が相乗りしてる感じがします。どっかから先は、もはや将門が「ブラックホール」になって全てを吸い込んだ感じすら(^^;)。
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