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<こたつ城主 [関東]
2002/01/07(Mon) 18:03>
題名:昨日は……
一昨日行った七福神巡りの一つ、徳蔵院という所に又行きました。寿老人が祀られているお寺です。一昨日は人が居なくてご朱印が頂けなかったので、昨日買い物に行くついでに行ったのですが、お寺で発行してるご本に大谷山城の高城氏の事が書いてあったので買いました。
千円(*O*)! そんなに大きい本じゃないです。高いです。装丁も立派です。
徳蔵院は、市川国分寺の子院あるいは隠居所、永亨の乱以降、お寺は攻撃目標とされたので、お坊さんの避難目的のために作られたとも伝えられるそうです。真言宗ですが、真言宗自体は太田道灌以来、急速にこの地域に勢力を確保したようで、七福神巡りのお寺はいずれも真言宗でした。
徳蔵院の作られた1426〜63の前後に、九州肥前の千葉氏から出てきた高城氏もこの辺りに定着し、お寺の近くにお城がありましたが、これが手狭になったので、高城氏の本城は大谷口(北小金)に1530年に着工、1537年に完成、居城を移したようです。
徳蔵院の入口には、今でも「日暮さん」の名前が見られますが、日暮とは高城氏の家来で、十郎左衛門、又左衛門、大内蔵、理右衛門らが認められ、周囲の領地で平時は農耕を営んでいたようです。
大谷口城が出来た1537年は、北条氏(氏綱)が制覇の矛先を武蔵に向けた年で、千葉昌胤のすすめで小弓公方を討った第二次国府台合戦の時、高城氏は北条氏に組して戦には勝ちましたが戦死者が多く、遺骸や鏃を日暮村に葬ったのが藤塚稲荷で、今は徳蔵院の境内にあります。
が、訪れた時は何も知らず、私は「お金持ちになれますように(^^)」とお祈りしてきました(爆)。
高城氏は北条氏に重んじられ、羽振りも良かったようで、埼玉県の三郷市や、神奈川県の綾瀬市や横浜にも領地を貰ったのですが、最盛期の当主、高城胤辰が若死にして以来落ち目で、秀吉の小田原征伐では、大谷口城は浅野長政に攻められて落城。
これが大谷口の石碑には、小田原が落城したから開城しろ、と北条からの知らせを受け開城に到った、とあったような気がするんですが、いずれにせよこれ以来、高城氏の家来たちは帰農。一方、真言宗の寺々は、徳川家康の寺社対策によって統制されたため、徳蔵院もその厳しい体制下で惟新まで生き延びたそうです。
<こたつ城主 [関東]
2002/01/07(Mon) 18:10>
>テェタレさま
松戸七福神巡りは全部廻ったんですが、一昨日最後に行ったお寺に人が居なくて、ご朱印を貰えなかったので、昨日も行って来た所です。近いといいね。
>八柱の南の方で、七福神の幟旗を見かけたことはあったけど。
うんうん(^^)。始まったのは昭和63年との事ですが、私もここに戻って来たばかりの頃、あちこちでその旗(赤い旗だよね)を見かけて「何じゃ?」と思ってました。
朱印を貰って巡る形式は他の七福神巡りと同じなんですが、私は八柱の徳蔵院と、21世紀の森の裏手の円能寺が、いずれも山寺っぽくて良かったです(^^)。他のお寺も、お寺の人が皆すごく親切にもてなして下さるんですよ。
<こたつ城主 [関東]
2002/01/07(Mon) 18:11>
>のりちゃん様
>「罪・ケガレ」がネットを通じて行き来するってのは、怖いなぁ。
そして……アンチ・穢れソフトが大流行!(もぉ何だかワケわからん)
>よなよな夜這いに行くと信じられている地域もあるそうで、若い娘
>がいる家庭では、「道祖神除け」を置いたりするんだそうです。
へぇ〜! 知りませんでした! ……では、うっかり妊娠したら「道祖神にヤラレました」と言えば通ったりして(^_^;)。
ふむふむ、地蔵さんも道祖神も「道案内」で信仰を集めたんですねぇ。猿田彦神の影響でしょうか。
>あ、小さな紙に書けばいいのか。
札を飲むなんて、メチャ迷信的に思えるんだけど、こういう事になると「オブラートに書いて飲めばいい」らしくて、迷信的か合理的かわからんですわ(^_^;)。
>夜中3時に起きて、体を清め、近くの聖なる場所から水をいただ
>いてきて、新しいすずりと新しい墨を使って墨をすり・・・
そうそう(^^;)! 神社の水ならオッケーとか聞きましたけど、場所によっては何日も放ってある雨水に、枯葉や虫の死骸とか浮いてたりしてさぁ……(汗)。
ただ、硯や墨や筆は新しくなくても専用のを定めておけばいいそうですよ。あと、神社や寺には「水を貰いに来る信者」ってのが必ず居るんだとか。今回七福神巡りしてて、「湧き水です、お飲み下さい」って書いてあるお寺を見付けました。
あと、ミネラルウォーターをペットボトルに入れ、神社に持ってって神様に祈り持って帰る、なんて話も聞いた事があります。 |
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