<掲示板・議事録>

群馬新田と千葉里見、対北条氏の史跡、5

     
  <魔矢さま [関東] 2001/12/22(Sat) 23:50>

こたつ城主殿

>新田時氏!?

なぜか義貞の父親はいろんな名前がありますね。(^−^;;
他にも「朝氏」と「朝兼」がありますが、朝氏が地元では有力です。
朝氏の墓は太田市別所の円福寺にあり、
位牌も円福寺の本堂に安置されています。
朝氏の正室が里見義秀の娘ですから、義貞はまさに新田本宗家の
嫡男として生まれてきて一族を率いて戦ったわけですね。

わずか150騎で挙兵して倒幕に成功したカリスマ的風雲児という
イメージが地元には強くありますから、南北朝以降の統治者も
義貞の血を引く者でないとカッコがつかなかったようです。
岩松氏だけでなく、横瀬氏=由良氏までもが義貞の孫を婿養子に
したのも「自分こそが新田氏の正統な後継者である」ということを
土豪や領民たちにアピールしたかったのでしょう。



<志摩の守さま [東海] 2001/12/22(Sat) 23:53>

こたつ城主さま
>「がらめきの瀬」はわかりませんが、この文学碑の下の坂道で
>富永三郎右衛門尉は死んだようです。
>富永政家って人と同一人物かなぁm(。。)m。
がらめきの瀬で討ち死にしたのなら小金の富永四郎左衛門直勝、またの名を政家のことだとおもいます。
>最初の攻撃隊(「がらめ>きの瀬」を渡った)の部将なんだそうです。
この時の先鋒はもう一人いて遠山直景でしたが、両人とも討ち死にしました。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/25(Tue) 17:45>

>魔矢さま

>なぜか義貞の父親はいろんな名前がありますね。(^−^;;

そ、そうだったんですか(*O*)! そういや『時宗』でも、最後まで新田氏は出て来ませんでしたね〜! 実は私、家康や里見氏が新田氏の出だとか言うのも、わりと最近まで「新田義貞の子孫ってコト?」ぐらいの認識しかありませんでした。(もっと根元から分かれていたのね〜(^_^;))

>朝氏の正室が里見義秀の娘ですから、義貞はまさに新田本宗家の
>嫡男として生まれてきて一族を率いて戦ったわけですね。

それに……八幡太郎義家が七代目に生まれ変わって天下を取るって言った話を前に聞きました。里見義秀の娘は義貞のお祖父さんと同じ、義家からちょうど七代目(^^)v。義貞は両親から「天下を取れ!」と言われて育ったかも?

>岩松氏だけでなく、横瀬氏=由良氏までもが義貞の孫を婿養子に
>したのも「自分こそが新田氏の正統な後継者である」ということを
>土豪や領民たちにアピールしたかったのでしょう。

千葉で「みんな平将門の子孫」ってのと同じですね〜(^_^;)。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/25(Tue) 17:46>

>志摩の守さま

>>富永三郎右衛門尉は死んだようです。
>がらめきの瀬で討ち死にしたのなら小金の富永四郎左衛門直勝、
>またの名を政家のことだとおもいます。

おおっ(゚.゚)?! 三郎と四郎……兄弟ですかね(右衛門と左衛門ってのは間違いがあったとしても)。でも政家だったのですね。この人死んじゃったんだぁ〜。最初の突撃部隊(遠山直景ですか)とは別人だったのですねぇ。知りませんでした! ありがとうございます☆ミ

それにしても……小金と言えば、ウチの辺りですよ。遠山氏って(前に話の出た)明智氏と関連のある遠山氏かな。
 
     

     
  <志摩の守さま [東海] 2001/12/26(Wed) 22:20>

ところで小金(松戸)に大谷口城の跡っていうのがありますか?
北条氏の他国衆で高城胤辰の居城だったそうですが。
高城胤辰は第2次国府台合戦で勲功をあげているようです。
それから北条家臣の遠山氏は江戸城を守備し江戸周辺の支配権を任されていたようですが、出自は室町幕府奉行衆の流れであるという説があります。



<魔矢さま [関東] 2001/12/27(Thu) 17:38>

こたつ城主殿 & 紫さま

那波氏(大江広元子孫)vs 由良氏(新田氏子孫)の激戦の
舞台となった今村城址を撮影して参りました。城域は民家と畑に
なっていて「城跡」というイメージはありませんでしたが、
内堀の遺構が部分的に残っていましたよ。かなりの田舎(昔の
いわゆる集落)なので、私が愛車のNinjaでズガガガガガーッ!
と乗りつけると目立つこと目立つこと。農家の人々から
じろじろと好奇の目で見られました。v(^o^)/



<こたつ城主 [関東] 2001/12/27(Thu) 17:39>

>志摩の守さま

>ところで小金(松戸)に大谷口城の跡っていうのがありますか?
>北条氏の他国衆で高城胤辰の居城だったそうですが。

それです! こたつが大騒ぎしてる「北条城跡同盟オリンピック」の根拠は(^^)。大谷口城には、夏にじーや様&うーろんちゃんを(車に乗せて貰って(^^ゞ)ご案内しました。畝掘りがクッキリ残ってて、モロ北条氏の遺構ですわ。
では高城氏は、第二次国府台合戦ごろから北条氏の傘下に入ったのかしら……。

遠山直景が室町幕府奉行衆の出身というのは興味深いですね。以前、丹波惟任さまに聞いた話では、北条氏に仕えた遠山直景は美濃遠山氏が出身であるらしく、『恵那叢書』には、その子の景行が明智光秀の叔父(光安)と同一人物、とあるとか。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/27(Thu) 17:45>

>魔矢さま

今村城址ですか(゚.゚)。那波氏と由良氏の激戦地、という事は、攻城戦だったのですね〜!

>内堀の遺構が部分的に残っていましたよ。

戦があったのなら、周辺を掘り起こすと、米とか人骨とかが見付かるのでは?

>かなりの田舎(昔のいわゆる集落)なので、私が愛車のNinjaで
>ズガガガガガーッ!と乗りつけると目立つこと目立つこと。
>農家の人々からじろじろと好奇の目で見られました。v(^o^)/

こういう事ってありますよね〜(^_^;)。付近の住人にしてみれば、「見に来る所」って意識は無いですから、驚くんでしょうね!(汗)



<志摩の守さま [東海] 2001/12/29(Sat) 12:26>

>高城氏は、第二次国府台合戦ごろから北条氏の傘下に入ったのかし
>ら……。
高城氏は北条家では他国衆の扱いで大谷口の支配は独立してまかされていたようですね。
こたつさまの言うように多分国府台合戦のころから傘下に入ったようですね。
かなり北条家に対する貢献度は高かったみたいです。
徳川家康との若神子の戦いでは先陣を務めたとのことです。
伊豆での対武田戦にも出陣し、合間に箱根の底倉で湯治したんだそうですがなんか人間くさくていいですね。
跡を継いだ息子の胤則は小田原篭城戦で秀吉軍と戦かったとのことです。
ちなみに底倉って秀吉の小田原攻めのとき遅参した伊達政宗が待機させられたところだったような気がします。
>景行が明智光秀の叔父(光安)と同一人物、とあるとか。
なるほどそれはおもしろいつながりですねえ。
綱景の娘は氏康の養女となっていますから明智氏と北条氏は繋がりがあるっていうことになりますね。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/30(Sun) 00:06>

>志摩の守さま

>高城氏は北条家では他国衆の扱いで大谷口の支配は独立してまかされていたようですね。

地域的には、北条連邦の縄張りからちょっと外れてる感もありますから、どうでもいいっつっちゃ、どうでもいい場所だったかも(^_^;)。でもわりとこの辺りではハバを利かせていたようなので、どこに帰属するかは、他の豪族への影響に関係したかもしれません。

>徳川家康との若神子の戦いでは先陣を務めたとのことです。
>伊豆での対武田戦にも出陣し、合間に箱根の底倉で湯治したんだ
>そうですがなんか人間くさくていいですね。

へぇ〜! やっぱ高城氏の事は、北条氏の文献には多少は記載されてるんでしょうか。伊豆や箱根まで頻繁に足を運んでいたのなら、北条氏の重臣から築城術を習ったり、人がやってきて指導してくれてたのかも〜(#^.^#)。

仰せのごとく小田原では最後まで北条氏に味方してて、ゆえにその後しばらくは、ウダツが上がらなかったと思います(^_^;)。政宗の待機の事は初耳でした。その間、多少は交流があったかしら。

遠山氏も北条氏に養女を出すほどの重臣だったんですね(゚.゚)。遠山の金さんもこの家系(か一族か)から出てるそうですよ。
 
     

     
  <魔矢さま [関東] 2002/01/02(Wed) 16:53>

こたつ城主殿

えー、本日は埼玉県まで出張してしまいました。
埼玉県深谷市の北部は旧新田荘ですからね。
新田氏二代・義兼の菩提寺があるのです。
義兼が新田荘最南端の地に寺を建てたとは意外な盲点でした。
二代目の義兼は義重の三男であまり話題にならない存在ですよね。
長男の義範は山名氏、二男の義俊は里見氏、四男の義季は
徳川氏という豪華絢爛たる顔ぶれですからね。
もちろん写真を載せましたよ♪



<こたつ城主 [関東] 2002/01/02(Wed) 18:25>

>魔矢さま

>埼玉県深谷市の北部は旧新田荘ですからね。
>新田氏二代・義兼の菩提寺があるのです。

おお〜(゚.゚)。そうでしたか!
そうそう、山名氏や里見氏初代を兄に、得川氏や額田氏を弟に持つ、分かれ目の重要な代ですよね! では新田氏の最初の地盤は深谷あたりだったのでしょうか。
正月早々、良い出張でいらっしゃいましたね(^^)。



<魔矢さま [関東] 2002/01/03(Thu) 11:39>

こたつ城主殿

新田氏の最初の地盤は現在の太田市別所や由良町付近です。
四代・政義から七代朝氏までの墓は別所の円福寺にあり、
八代目の義貞になってから拠点を尾島町世良田に移したと
思われます。ですから二代・義兼の墓が武蔵国横瀬郷にあるのは
きわめて異例のことです。おそらく義兼は、当時開拓を広げて
いた荘園の最前線ともいえる武蔵国に居住することで、新田家
当主としての気概を一族郎党に示したのではないでしょうか。

ところで、新田氏を中心とする私の史跡巡りですが、
今回は「滝川一益」という名前が登場します。戦国らしく
なってきたでしょ。たった今、撮影してきた「川井城址」を
アップしたばかりです♪



<こたつ城主 [関東] 2002/01/04(Fri) 19:43>

>魔矢さま

>新田氏の最初の地盤は現在の太田市別所や由良町付近です。
>八代目の義貞になってから拠点を尾島町世良田に移したと

うん。地図で見ると、尾島町は太田市と深谷市の中間あたりにありますよねm(。。)m。
ふむ。義重の代で太田市(群馬県)に、その子義兼の代に深谷市(埼玉県)に進出したのでしょうかね。それとも後になって墓を移した、という事はないのかな。横瀬郷ってのは深谷のことですよね?

>今回は「滝川一益」という名前が登場します。戦国らしく
>なってきたでしょ。

なってきた、なってきた(^^)v。滝川一益か〜。当たり前だろうが関東ではよく見る名前ですよね。(いちお管領だもんね)



<魔矢さま [関東] 2002/01/05(Sat) 21:55>

こたつ城主殿

新田義兼の墓は実は2ヶ所あります。
武蔵国横瀬郷と新田郡の最北端の笠懸町です。
横瀬郷の華蔵寺の墓がオリジナルで
笠懸町の墓は後になって華蔵寺のものを分祀したそうですから
義兼の地盤はやはり新田荘南部ということになりますね。
義兼は武州に進出して在郷勢力との協調関係を築いたと
考えることもできるでしょう。武蔵国には、新田氏に従う諸勢力、
通称「武蔵七党」という武士団もありましたし、金山城主由良氏の
前身の横瀬氏もこの武蔵七党猪俣党に属していました。
(途中で義貞の孫を婿養子に迎えて、源氏姓由良氏になりますが)

さて、今年の史跡巡りは、昨年の新田氏関連の寺社から
ちょいと趣を変えて、勢多郡内に点在する城跡を訪問して
みようかと思います。武田、上杉、北条という三傑どもの
夢の跡を辿ってみましょうかね♪(^_^)



<こたつ城主 [関東] 2002/01/07(Mon) 18:10>

>魔矢さま

なるほど、横瀬氏は武蔵七党でしたか! では外に向けて地盤を張っている最中に義兼が亡くなったのでしょうかね。横瀬氏が子孫を称するのも、横瀬の方が元であったからでしょうか。

義貞の孫を婿養子に……という話は、前に聞きましたね。義貞三男のそのまた長男が僧籍、二男満純が岩松満国養子、三男貞氏が横瀬晴清の娘を娶ったとか。

>勢多郡内に点在する城跡を訪問してみようかと思います。

こちらには北条氏の城もあるのでしょうか?
 
     



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