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<こたつ城主 [関東]
2001/06/21(Thu) 18:53>
>たまこ様
あ(^^;)、地元の人が来てくれた。
いやいや遠慮なさらず、ズズイと奥へ奥へ、イザ中央へ♪
そうです。了仙寺(^_^;)。お年寄だけでなく、会社の慰安旅行でも否応無くコースに入ってます。さすがに修学旅行コースにまではなってないけど、東京の会社は接待でも慰安でも下田に行く事が多いので、社会人は皆、ここで日本文化の「根底」をお勉強させられるのです。女子社員でさえ「ヤダ〜!」とか黄色い悲鳴をあげながら「開国前と後」の日本をここで知るのであります(爆)。
>おまけに、境内より続く小路は、元の遊郭でござりまする。
下田港の原型ですな。
>石野真琴さま
ええっ! 石野さまって下田出身なんですね(゚.゚)! たまこ様も下田の方ですよ。
下田は了仙寺だけでなく多数の性神さまがおられるのですね。山岳信仰より古くて全国規模……そうでしょうね。山岳でない地域にも関係がありますものね。
出産の神秘もあるけど、子供そのものを信仰する傾向も感じます。江戸期の話ですが、子供は霊界と繋がってる、という考えがあったそうです。風水がらみでは、子供の書いた絵を飾ると吉運が訪れる、なんてのも聞きます。また巫女さんは「処女だから神に通じやすい」とも言われてますが、元は「子供」という事だったんじゃないか、と思います。
>漁師と言う職業の人は特に信心深く、頑固であった為に古来の
>信仰が残ったのでは無いでしょうか。
漁業は農業と違って、一発運で左右されがちだからでしょうかね。天体を信仰するとも聞きましたが、太陽より星のような「方向を示すもの」を信仰したそうです。
>下田の遊郭は風待ちで動けない船乗り、金山の人夫の為に作られ
>たものらしいです。なにしろ下田は天領ですから江戸時代は。
港に遊び場は、必須の施設だったという事ですね。
<こたつ城主 [関東]
2001/06/21(Thu) 18:56>
>守天働児さま
>(こういう話題になると、何故か元気が出るんですね。)
ぐはは(^^;)。どうぞ、ご存分に。
>九州の「ひょっとこ踊り」
これって、そういう祭りなんですか(゚.゚)? 山陰のどじょうすくい唱も「ひょっとこ」みたいな顔にするんだけど、元は一緒かなぁ……。
>黒龍斎さま
>現在の学校よりも人間として生きる為に「生活」に密着した
>「きめの細かい」人間教育が行われていた感があります。
同感です(^^)。人間、すぐに必要になる事に応じて教えて貰えれば、一生懸命聞きますものね!
>しかし・・・・迷信めいた部分による非科学的
>な教育もあったようですが・・・・
これがゆえに、昔ながらの教育方法は全て否定されてしまいましたよね。でも「全て否定」にまでする必要はあったのかな? 何もかも昔通り、迷信まで教えろとは言いませんが、要は「基本の考え方だけ取り入れる」事ですよね。
例えば自動車免許を取る人にだけ交通講習を受けさせるのはおかしいと思うし、選挙のやり方、誰にでも必要な役所の利用の仕方、公的施設の案内、こんな事ホントは違反なんだよ、ぐらいのこと教えてもいいと思う。こういうのを昔は「村」とか「寺」でやってたんでしょうね。
>「武芸」「馬術」「漢文」や「礼節」「作法」など〜
ホントに詰め込み教育ですよね(^_^;)。何か現代教育の前身のような……。
>「狭い世界」に暮らしており世間に疎い方もいたと思います。
私の知り合いに「自分は士族出身だから」を言い訳に、あらゆる世事に背を向けてる人がいました。もっとも藩主とかの家柄でもないのですが、私と同世代の方で、お子様までいらっしゃるのに……何か「封建時代の爪痕」を生々しく感じました(^^;)。
>ある意味では、足軽から出世して「天下統一」を最初に果たした
>のが「豊臣秀吉」という点には納得できます。
>それを横で見て〜ノウハウを学んだ「徳川家康」が更に一枚〜〜
>上手のようでした。
全く同感ですね。
<こたつ城主 [関東]
2001/06/21(Thu) 18:59>
>赤いお母さん様
盛り上がってますね〜、お蔭様で(^^)。
人減らしの話は、主に江戸時代や明治の東北地方の話をよく聞きます。確かに江戸期は生産型というよりは調整型経済でしたし、明治以降は中央ですら混乱期。地方はムチャクチャだったと聞きます。それだけに村ぐるみの掟なども厳しかったでしょうし、これが足かせでもあったでしょうね。人口調整は、必要もない時期でも風習(?)から行われてしまったケースもあると聞きます。民間から伝わる暗い話は多いですよね。
しかし戦国期だって人減らしは愚か、人食いだって当然あったでしょう(^^;)。乱世ですから記録が少ないだけで、当然悲惨な現場は多かったと想像できますし、それゆえに安定が望まれたと思います。ただ「村」というか地域のコミュニティ自体が、あまり閉塞的でなかったような感じはしてます。上手く言えませんけど……。
>対女性の自由恋愛は難しかったのかな・・・と考えてしまいます。
>それ故の男色という位置づけもあったのだろうか?
かもしれません。逆に江戸期、特に江戸や大阪あたりに「心中文化」って言うんですか、江戸時代には疎いですけど(^_^;)、何しろ身分や立場を越えた恋愛が流行しましたよね。これはもしかしたら、こうした恋愛をしても、もはや根本的には問題が無かった事を証明してるのかもしれません。ただ「ご法度」に触れるだけで(^^;)。
<こたつ城主 [関東]
2001/06/21(Thu) 19:02>
>のりちゃん様
>何かの本に、名家の婚姻は、必ず、近しい家臣により、「結合」
>を確かめた。と書いてあったと思います。
これ、いろいろ説がある……というか、実はまだこの伝統がある家もあるそうで(^_^;)、形骸化(省略)されて伝わってるってコトなのか、もっと初期からそうだったのかわからんのですが、実際には組み合わさった(スゴイ表現(^^;;))時点で、「ハイ、オッケー」というパターンもあったとか。
切腹の介錯が刀を握ったらすぐに振り落とされた、というのと同じで、あまりにも生理的精神的に不可(苦痛)が多いことは楽な手法になっていく点、日本っていい国だな(爆)と思います。
>男女交合の踊りには、「豊作への願い」が込められていたんだそうです。
昔の人は、「運気」は自分で上げたし、「神」も自分たちで呼んだんだと思います。今は「物頼み」ですよね。まあそれで足りる事が多くなったのも事実ですが。
>女陰信仰・・・。確かギリシャ神話でもデメテルが女陰を顕にし
>て豊作うんたら・・・とかなんとか聞いたような。
そういやギリシャ神話って、結構女権が強い世界ですよね(^_^;)。男根の象徴は太陽で、女陰の象徴は月ってのはよく言われますけど、太陽神と月女神は双子ですものね。
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