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<こたつ城主 [関東]
2000/09/14(Thu) 15:24>
>HIGE-MOJARA(DUMMY)様
>>ところで幸綱(幸隆)の弟の矢沢頼綱はなぜ矢沢なんでしたっけ?
>(NG)永ちゃんのファンだったから。
「名胡桃が危ない!」とか叫んで、ヨロヨロ立ち上がるシーンを思い出す(by真田太平記)(^_^;)。
<こたつ城主 [関東]
2000/09/14(Thu) 15:27>
>甲斐の虎さま
>ところで幸綱(幸隆)の弟の矢沢頼綱はなぜ矢沢なんでしたっけ?
あ、何故でしょうね。矢沢城主だったからかしら。矢沢城は髭さまの仰る通り上田にあるです。矢沢氏は文明2年(1452)から、幸有という人物が記録に登場するらしい。神官の家。この家を継いだ事は確かですね。
>寒村の一土豪が粋がって海野姓を名乗ってはみたものの周囲の
>視線が痛くてみんな改名してしまったのかな?(爆)
かも(^_^;)。太郎丸さまも仰っておられる通り、海野氏は、ほぼ没落したと見ていいと思うんですけど、やはり武田氏と同盟した(真田氏は臣従ではないんですよね、一応)時点で、海野氏を名乗ってるのはマズイと思った可能性はありますね。あるいは、元から「名門、海野氏の出身」は騙りであったとか……(^_^;)。
ただ、矢沢氏の方は、天正16年(1586)まで、神使御頭ってのを勤めていたらしいですよ。(最近知ったんだけど(^_^;))
<こたつ城主 [関東]
2000/09/14(Thu) 15:29>
>太郎丸さま
きゃあ! 太郎丸さま! お詳しい(^^)♪
>海野一族は、かつて武田・村上・諏訪氏らと戦って破れ、一度
>郷土を追われた、と伝えられておりまする。
海野平合戦とか神川合戦などと言われているそうです(^^)。海野棟綱は上野の上杉憲政を頼ったとの事。
>幸隆は武田家に仕えることになる。しかし、父・棟綱はあくまで
>武田に臣従することを潔しとしなかった。
>幸隆が(表向きは)海野姓を名乗らなくなったのも、この
>出来事が原因だったのかも。
そうかもしれません。あ、ちなみに海野棟綱の長男、幸義は、海野平合戦で戦死したそうです。真田氏に多い「幸」という名乗りは、これと関係あるのかも……。
>父・棟綱という記述は間違い。
>幸隆は海野棟綱の孫(長女の子)でした!
これはもう、いろいろ言われているので何とも(^_^;)。(父子という記録もあるし)
<こたつ城主 [関東]
2000/09/14(Thu) 15:30>
>たまこ様
>わたくし、この時代を急遽 勉強致しましたの、↓
スゴイ、スゴイ(^^)。 *パチパチ*
信虎の代では、村上や諏訪といった、信玄の代に争いあった家とは、一応仲良く(海野氏を滅ぼすためであるにせよ(^_^;))やっていたようですよ。謙信が出て来るのは、真田氏が路頭に迷った時点から見ると、かなり遅れてなんですね。
甲斐の虎さまや太郎丸さまの流れに従って考えるなら、真田氏としては、何としても武田氏に稼いでもらわないと困る状況だったのかも。もしかしたら、むしろ信玄の方が引きずりこまれた可能性も……(^_^;)。北信濃攻略戦では、信玄はずいぶん大事な時間を取られてしまいましたから。(しかし普通、越後軍の参戦までは考えないだろうけど(^_^;)) |
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