<こたつ城主
[関東] 2000/06/09(Fri) 15:59>
題名:五日市、桧原、数馬
五日市(大悲願寺)、桧原(北条氏の城跡)、数馬(武田落人村)の件です。昨日、お松さまの所に書いたのを、そのまんま転載(^_^;)。
↓
--------------------------------------------------------------------------------
白萩文書 投稿者:こたつ城主 投稿日:06月07日(水)10時17分57秒
↑の事、こちらにも書いておきましょうね(^_^;)。もう書いたような気でいたのですが、功明さまの所に書いたっきりでした。すみません、気が利かなくて……。m(__)m
場所は五日市で、駅から徒歩15分ぐらいだったか……(記憶がおぼろ)に、大悲願寺というお寺がありまして、そこに現存するのが伊達政宗の書いた手紙、白萩文書です。内容は「庭の白萩が奇麗に咲いているのを所望したかったが、言い出しかねて帰ってしまったので、下さい」←これだけ(^_^;)。
政宗の筆跡であることは、ほぼ間違いないと思います。現在、この寺には梅の木があり、これは昭和48年に五日市町から、この因縁にちなんで白萩を仙台市に贈り、仙台市からは臥竜梅という、仙台瑞巌寺にある梅の株をもらったからです。
ちなみにこの臥竜梅は、政宗の家来、原田左馬助が朝鮮の役に行ったおり、そこから持ち帰った仙台藩にとっては貴重なものです。これが、政宗の時にも大悲願寺に贈られた、という話なのかどうかが不明です。片や、白萩の方は、もちろん当時贈られたのでしょう。(くれと言われてあげなかったとは思えませんので(^_^;))これは、後年歌舞伎にもなった先代萩の萩だという事です。
それで、この寺には秀雄というお坊さんがいて(幼名は鶴若)、これが政宗の弟だと言うんですね。何で萩を所望されたぐらいで、政宗の弟ということになってしまうのかは、よくわかりません(^_^;)。伊達家の系図には見当たりませんので、妾腹であったのかもしれません。
白萩文書の発行時期が元和9年(1623)でして、これは政宗の母、保春院が死んだ途端なのですね。だから、もしかしたら、保春院かその実家の最上氏に隠さなくてはいけない事情でもあって、幼くして僧侶とされ寺に預けられたのかも……ぐらいの事しか私には思い付きません。
--------------------------------------------------------------------------------
桧原城と数馬 投稿者:こたつ城主 投稿日:06月07日(水)10時25分14秒
あ……それで、前にお話に出た桧原城と数馬ですが、これは今下に書いた五日市駅からバスが出ていまして、バスで数馬まで一時間以上はあったと思います(^_^;)。桧原はその、ちょうど中間地点だったような……。桧原城は、たぶん桧原のそばにあった、北条氏ゆかりの寺の裏手の山がそうなのではないかと思っています。まるですべてが近い場所にあるかのように書いてしまったかもしれませんが、違います。すいません。
<みなぎさま [関東]
2000/06/10(Sat) 00:02>
こたつ城主さん、こんばんは♪
詳しいレスをありがとうございます〜。そうですか、大悲願寺の冊子でしたか・・・。お寺としては書かずにはいられないことですものねぇ。「五日市町史」でもしっかり政宗の弟だったらしいと書かれていましたけれど、どぉも納得がいくようないかないような(^-^;)。大悲願寺側はどうしてそのことが分かったのでしょうねぇ。日記にでも政宗弟説が書いてあるか、伝承なのでしょうけれど・・・。とりあえず調べられるのはこのへんまでのようですね〜。私も1回は大悲願寺に行ってみたいです〜。ご教示ありがとうございました!また遊びに参ります♪
<こたつ城主 [関東]
2000/06/10(Sat) 14:43>
>みなぎさま
昨日は、最初から長々とすいませんでした(^_^;)。
>大悲願寺側はどうしてそのことが分かったのでしょうねぇ。
>日記にでも政宗弟説が書いてあるか、
もし秀雄自身が言っていたとして、この秀雄は、15世住職との事ですから、住職が嘘を付くかな……とも思うし、反対に、大法螺を吹いても誰も反対できないだろうな……とも。もっとも政宗在世中に、そんな大法螺吹いてたら問題があるでしょうけど(^_^;)。
>とりあえず調べられるのはこのへんまでのようですね〜。
と思います。後は寺の現職住職を直撃する!……か、伊達家一門の人達に尋ねるか。
>また遊びに参ります♪
ぜひぜひぜひ(^O^)!
|