■ お市の方 ■


(1546〜1583)

永禄10年(1567)、織田信長の妹、お市の方は、21歳で京極氏の執権、江北の浅井長政と結婚。

この結婚をめぐり、六角氏との婚姻を望んでいた父、久政と、六角氏の娘を一度は娶りながら、同家への反発から、やがて離縁に及んだ長政との間に、若干の食い違いがあった、などと言われている。

が、とにかく、当時すでに浅井家当主の座に就いていた長政としては、織田家との同盟を望んだ上での結婚であり、お市の方の間は、取りあえず円満であったようで、長男、万福丸をはじめ、長女茶々、二女初、三女小督(お江与)の他、二男、万寿丸も全て、お市の方が生んだと言われている。(側室の存在があった、とする説もある)

お市の方は、美貌の持ち主として有名であるが、長政に嫁いだ21歳は、当時としては晩婚にすぎる。2度目の結婚であった可能性も強い。

浅井氏の了解なく、同盟者、朝倉氏を攻めないという誓約を破り、元亀元年(1570)、信長は朝倉氏攻略を開始した。これを怒った浅井氏は、行軍中の信長を、朝倉と謀って挟み撃ちにする。金が崎の殿に及ぶ、信長の有名な撤退劇である。

この辺りも、最初から織田家との縁談を快く思わなかった久政が、同じ意見の家来とはかり、信長との決裂を望まぬ長政をねじ伏せての事であった、という具合に演出される事が多いが、実際には、久政は家臣にその地位を追われた隠居の立場であり、長政自身が、信長の裏切りに激怒した結果と思われる。

しかし、かつて六角氏への反発から、正室として迎えた六角氏の娘を離縁したのに、お市の方には同様の処置をしなかった所を見ると、やはり、多くの子を成したお市の方を重んじていたのは確かだろう。

さて、このとき、お市の方が浅井の裏切りを察し、兄信長にいち早く知らせた、という逸話は有名である。お市の方は、手紙では怪しまれるので、小豆を袋に入れて、織田の陣営に、陣中見舞いと称して送った。その袋の上下は縄でくくられており、受け取った信長は、瞬時にして「袋の中のネズミ」の意を悟り、ゆえに危地を脱出できた、と言うのである。

この時の、長政の裏切りを信長が許すはずもなく、同年の姉川合戦を経たあと、天正元年(1573)、信長は朝倉義景を倒すと、すぐに小谷城を攻略。長政は、ともに死のうとするお市の方に、子供たちの養育を頼み、城を落とす決意をし、信長もこれには同意。お市の方、茶々、初、小督の四人の女は、信長によって庇護された。

このとき、長男万福丸と次男万寿丸は助命を許されず、夜陰に乗じて城外に脱出を試みられたが、万福丸の方は、やがて織田軍兵士に見付かり、串刺しにされて殺害された。

また、自害して果てた久政、長政は、朝倉義景とともに、首を京中を引き回され、獄門にさらされた。頭蓋骨を箔だみにして、酒の席に饗せられたとも伝えられる。また、久政の妻であり、長政の母である小野殿は、一日に一本づつ指を切り落とされたと言われる。この女性の処刑が、何の罪に当たるのかは、全くわからない。

一説に、万福丸や小野殿の処刑を行ったのは秀吉であり、また秀吉は、浅井家の旧領を与えられ、今浜を長浜に、小谷城を廃して長浜城を築城したものだから、お市の方は、秀吉を逆恨みした、などと言われている。

お市の方と、生き残った3人の娘が、信長の弟、信包のもとに預けられてから9年後、天正10年(1582)、6月、本能寺の変で信長は没し、信長を討った明智光秀も秀吉が制すると、秀吉は織田家後継者として、信長の孫、三法師を立てる。

信長には、妹や娘、正室側室など、何人も関係する女性が居るのだが、どうもこのお市の方だけは、他の女性たちより、何らかの理由で特別な権限があったらしく、彼女は、信長の三男信孝の勧めを受け、信長の家来、柴田勝家と再婚。次期の政権を狙う秀吉に、対抗姿勢を強める。

やがて7ヶ月ほど、3人の娘たちと住まっていた、勝家の北ノ庄城は秀吉軍に包囲され、勝家はお市の方と娘たちを城から落とそうとしたが、お市の方は、3人の娘たちだけを城から落とし、自分は勝家の手にかかって死ぬ事を選んだ。天正11年(1583)、4月24日。 辞世は、

さらぬだに打ぬる程も夏の夜の夢路をさそう郭公かな

お市の方の3人の娘は、その後秀吉に庇護され、長女茶々は秀吉の側室となり、秀頼の生母となるが、大坂の陣で自害。二女初は、京極高次に嫁ぐ。三女、小督は佐治一成室となるが、秀吉の命で秀吉の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、徳川秀忠正室となり、お江与と呼ばれて、三代将軍家光、二男忠長を生む。のち崇源院。