■ 浅井長政 ■


(1545〜1573)

浅井家の発祥は、正親町三条内大臣実雅の男公綱(あるいは政氏、氏政)が、嘉吉元年(1441)、罪を得て近江へ流され、浅井郡丁野(湖北町)に居住。公綱が許されて京へ戻ったのちも、その子、新左衛門重政(公雅)が丁野に残り、地名、浅井を家号とし、守護職京極家に仕えた、とされる。

京極氏は鎌倉以来の佐々木氏の分流であり、近江では名門であった。しかし浅井氏は、数代を経るうち、永正13年(1516)、浅井亮政(長政の祖父)のころ、下剋上の中で台頭し、主家京極氏を圧迫して、北近江の実権を握るに至った。亮政は小谷城を築いたが、その城山は、元々琵琶湖北岸に展開する平にそびえていたため、城郭の規模はきわめて雄大、難攻不落の要塞となった。

長政は天文14年(1545)、小谷城に生まれる。母は井口氏、幼名は猿夜叉(さるやしゃ)、のち新九郎と称し、永禄2年(1559)、15歳で元服。備前守と改めた。

長政の父久政は、長政に、六角氏の老臣、飛来加賀守定武の娘を室に迎えるが、これによって六角氏の家来になったことを認めた体となり、長政をはじめ、家来達からは反発の声が強かった。六角氏もまた、京極氏とおなじ佐々木氏の分流であるが、久政はこれと戦い、終始押されぎみだった。

永禄3年(1560)3月、長政16歳で初陣。野良田合戦。攻め寄せてきた六角義賢を、長政が撃退。家臣たちはこれを見て喜び、久政が鷹狩りに出かけた留守に長政を小谷城へ迎え、久政に「これより長政様を主人とする」と宣言。これを聞き、驚いた久政は、家臣を集めようとしたが誰も集まらず、仕方なく竹生島へ逃れた。

当主となった長政は、まず六角氏から迎えた妻を離別。これにより六角義賢は永禄3年(1560)8月、蒲生賢秀などに大軍を起こさせ、浅井氏の属城、肥田城を攻めた。が、長政はこれを敗走させる。同年10月、久政夫人が竹生島の久政を訪れ、長政との和解をすすめた結果、長政が久政を小谷へ迎え、別邸を構えて住まわせた。

翌4年(1561)、六角義賢は美濃の斎藤義龍と結んで長政挟撃をはかり、一時、浅井氏の支城、佐和山城を落城させるが、逆に長政に取り戻される。

永禄6年(1563)、長政は、家来、安養寺三郎左衛門から、織田信長の命により不破河内守が縁組の申し入れをしてきたことを聞く。またこの年は、六角氏に内紛が起こり、それに乗じた長政は南下をはかり、坂田、浅井、伊香の江北三郡に加え、愛知、犬上、高島の三郡を獲得、勢力圏に治めている。

永禄10年(1567)、織田家が、浅井氏の同盟国である朝倉義景に異心を唱えないことを条件に、信長の妹、お市の方を娶る。

永禄11年(1568)7月、信長は兵を率いて佐和山城に入城。越前朝倉氏を見限った足利義昭は、長政に護衛されて信長を頼ったのだが、この時、長政は信長の相談相手をつとめたという。さらに、信長と長政の敵となった六角氏が、三好党と結んで勢力挽回をはかったため、信長は六角氏の観音寺城を攻略、義昭を奉じて、ついに入京を果たした。長政と信長の連携を思わせる一時期である。

しかし元亀元年(1570)には、早くも、信長が義昭を傀儡化し、将軍の命令を盾に、4月、上洛せぬ朝倉義景への討伐を開始。京から近江坂本を経て越前へ向かい、金ヶ崎城を攻略、さらに浅井氏の領土を通って、朝倉氏の一乗谷へ迫ろうとした。長政は、縁組以来の約束を破った信長に激怒し、信長軍を背から追う形で攻撃。この折、朝倉義景の動きが鈍重であったため、信長は辛くも危機を脱出して京へ帰る。これを機に、長政と信長は決裂。

同年6月28日には、姉川合戦において、織田、徳川連合軍3万4千と、浅井、朝倉連合軍1万8千が激突。浅井軍は朝倉軍の左翼にあって、3倍の兵力と互角に戦い、とくに先陣、磯野員正(佐和山城主)は、織田軍十三段の構えを十一段まで突き破る猛攻を見せた。が、このときも朝倉軍の敗走を機に、退却を余儀なくされ、織田徳川の勝利に終った。織田軍800余、浅井は1700余の戦死者を出した。

7月、主力を失った浅井の弱みに乗じて、信長が佐和山城を攻略。しかし長政は援軍を送らず、逆に、城主、磯野員正が織田に内通の噂ありと信じて、人質だった員正の母を殺害。翌2年(1571)2月、員正は降伏、信長は丹羽長秀を佐和山城主に据える。

天正元年(1573)、最大の脅威、武田信玄の死に乗じた信長は、朝倉氏を滅ぼし、8月27日小谷城を攻める。28日に京極丸まで攻め寄せられた父久政は自刃。62歳。すでにお市の方と三人の娘を信長のもとに送り、 自刃しようとしていた長政は、信長から開城を条件に助命する、という連絡をうける。織田軍によって城内の連絡を断たれた長政は、父の死を知らず、父久秀の助命を条件に一度は城を出ようとする。

9月1日、城外に出た長政は、父の自刃を知り、家老赤尾美作守の宿所において自刃。29歳。介錯は木村太郎次郎。長男、万福丸は、一度は家来と逃亡するが、織田軍に捕らえられ斬首。二男、万寿丸は僧侶となり、近江長沢村、福田寺住職になる。

お市の方はのちに、三人の娘とともに柴田勝家に再嫁、天正11年(1583)勝家が秀吉に敗れると、北の庄城において勝家とともに自害。三人の娘は秀吉に引き取られ、長女は秀吉の側室となって秀頼を生む淀殿、次女は京極高次夫人、三女(崇源院)は佐治一成室となるが、秀吉の命で秀吉の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、徳川秀忠正室となって、三代将軍家光、二男忠長を生む。

この三代将軍家光によって、寛永9年(1632)9月15日、浅井長政は従二位中納言を追贈される。

長政領地、小谷においては、長政の人気は根強い。善政がしのばれる。