■ 今川氏親 ■


(1473〜1526)

今川義元の父。

今川氏の先祖は、清和源氏の末、足利義兼である。その孫、三河国守護職、吉良上総介長氏(義氏)居城は西城(のちの西尾城)にあり、守護職の家督は嫡男、満氏が継ぎ、幡豆郡今川荘を継いだのは次男である。この次男が今川四郎国氏と称して、今川発祥の人となった。今川居館址は、現在の西尾市今川、諏訪神社辺りと言われている。

国氏の孫、範国が、足利尊氏に属して戦功があり、遠江、駿河二ヶ国の太守となって岸城に居城。その子、範氏が、正平7年(1352)大草に城を築いてより、これを今川城とした。

永亨4年(1432)、範政の代のとき、将軍足利義教が富士山に遊び、これをもてなすこともあり、駿府に築城。ここに移った(築城年代には諸説ある)。国氏から六代目、範忠の代には将軍足利義教から副将軍に任じられた名門となる。駿府城は、現在の静岡市賤機山城址の山麓、もしくは臨済寺周辺と言われる。(徳川家康の駿府城とはちがう)

氏親は国氏から八代目で、文明5年(1473)に生まれた。幼名、竜王丸。文明8年(1476)4月、父義忠が、横地勝間田の一揆平定の帰途、横地の残党に襲われ、遠江の塩見坂で討ち死。嫡子竜王丸はわずか4歳のため、今川一門に権力争いが絶えず、江戸から関東管領上杉家の家宰、太田道灌が内紛調停に来た。が、その留守を長尾景春が上杉に謀反し、武蔵鉢形城を占領したため、道灌は急ぎ江戸に帰った。

竜王丸は内乱をさけ、駿府城をのがれ山西(藤枝市)の小川法栄のもとに、母の北川殿とともに身をかくし、北川殿の兄、伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が内乱を平定し、氏親は府中に入り、今川家を相続した。新九郎は、このときの功によって、興国寺城(沼津市)を与えられている。

永正3年(1506)、伊勢新九郎を三河に向け、松平長親を討伐。つづいて同9年(1512)、遠江浜松の斯波氏の勢力、大河内貞綱を討ちこれを降したが、同11年(1514)、貞綱が再び叛き、氏親は遠征して貞綱一族を殺した。その後、遠江は今川氏に属した。さらに尾張那古野に進出し、織田氏と対峙するなど、勢力を西へ広げた。

大永6年(1526)、東国ではじめての32条よりなる家法「今川仮名目録」を定めるなど、内政にも秀れ、東海地方第一の今川家の基礎をつくった。大永6年(1526)没。54歳。