■ 今川義元 ■


(1519〜1560)

父は今川氏親(今川家の説明は「今川氏親」をご覧ください)。氏親には4人の男子がいた。長男は氏輝。二男は良真で、出家して恵探と称する。三男は義元。四男は氏豊で、のち尾張那古野城の城主となる。

義元は永正16年(1519)、氏親の三男として駿府城に生まれた。幼名を万菊丸といい、出家して太原雪斎の弟子となり、承芳と称して善徳寺に入門。善徳寺殿と言われた。

大永6年(1526)、氏親が没し、家督を継いだ氏輝も、10年後の天文5年(1536)、24歳で没した。氏輝に子がなく、二男の良真は生母が側室であったところから、氏輝と同じく正室を生母にもつ義元が、還俗して家督を継いだ。これに不満をもった二男良真が兵を起こし、これを押す一門もあったため、同年(1536)6月10日、花倉の乱に発展。敗れた良真は普門寺で自害。

この折、義元は武田信虎(信玄の父)の支持を得たため、その娘を、翌6年(1537)妻にむかえ、台頭してきた小田原北条氏を牽制して、三河から尾張まで勢力を拡大。同7年(1538)、長子氏真誕生。武田氏との同盟により、伊勢新九郎(北条早雲)以来の北条氏との友好関係に終止符を打った。一方、北条氏も、武田今川に対抗するため駿東と富士に兵を進めた。

天文9年(1540)6月、三河岡崎の松平氏は二分し、その一方が尾張織田信秀とはかり、今川の拠点安祥城を攻め落とし、三河進出をはかった。

天文10年(1541)、6月14日、信州から帰陣した武田信虎が、今川家に嫁いだ娘と孫の見舞いに来た帰路を信玄の家来に遮られた。一説に、信虎の今川領視察の芝居とも言われているが、信虎の悪行を、武田家臣や領民が恨み、信玄が追放したという説が有力と思われる。義元は雪斎(太原崇孚)と岡部美濃守を甲府に送り、信虎の処置を協議。以後、信虎を今川家で預かることにした。信玄とは了解済みの上、ともに信虎を陥れた、とも言われる。

なお、雪斎は軍師として名高く、臨済宗の僧侶であると同時に、義元の学問の師でもあり、川中島での信玄、謙信の講和調停などにも活躍した。他、直属家臣団としては一門に堀越、瀬名、関口、蒲原、名和。譜代衆に三浦、朝比奈、松井、福島、庵原、由比、飯尾。また、寄親寄子制が今川氏軍政であった。

天文11年(1542)8月、松平広忠から救援依頼をうけた義元は、生田原に出陣。織田信秀は安祥城に兵を進め、矢作川付近の小豆坂で合戦となるが、今川勢は敗北。

天文14年(1545)、武田氏との盟約により甲州への不安の無くなった義元は、東駿河に出兵。上杉憲政とともに北と西から北条氏を挟撃しようとしたが、同じく出兵した武田信玄に織田氏の脅威を説得され、信玄の調停により、北条、上杉、今川三者の講和が整った。北条氏は伊豆の国境まで後退。東駿河と富士の二郡は今川氏の勢力になった。

天文15年(1546)、10月、義元は矢野安芸守に命じ、戸田金七郎の吉田城を攻略。東三河の拠点をつくった。

天文17年(1548)3月、義元は西三河から織田氏勢力を一掃しようと、雪斎を大将に、副将の朝比奈備中守、搦め手大将の朝比奈小三郎、岡部五郎兵衛を進発させた。先陣は岡部五郎兵衛。山中藤川に陣取り、6日に矢作川を渡り、上和田に出、小豆坂に陣する。

織田方では、織田三郎五郎信広、津田孫三郎信光に4千騎をそえて出発させ、8日に安祥城着陣。上和田の砦に移り、織田信秀もやがて到着。再び小豆坂で合戦。今川が勝利。信秀は上和田まで退き、上和田を津田孫三郎に守らせ、安祥城に織田三郎五郎をおいて引き上げた。

天文18年(1549)3月、岡崎城主松平広忠が、24歳で没し、嫡子竹千代は、人質として今川家に送られる途中を浚われ尾張へ送られたため、今川氏は広忠の死をかくして、雪斎を総大将に7千騎を12手にわけ、11月駿府を出発。6日早朝、 織田氏の拠点、安祥城を攻略開始。

天文20年(1551)、織田信秀も没し、嫡子上総介信長が清洲を出陣。鳴海まできて安祥城の黒煙を見て落城を悟り、兵をとどめた。今川勢は安祥城の織田信広を捕え、雪斎は信長の先鋒、林佐渡守へ書状を送って、織田家にいる松平竹千代との人質交換を申し入れた。

人質交換後、竹千代は一度岡崎城にもどり、11月22日、駿府へ送られた。駿府で元服し、義元の一字をもらって、松平二郎三郎元信と名乗り、のち元康と改名。その間、義元は、領主不在の三河を領国化し、尾張東部まで制圧にかかる。

領国経営の充実が今川伸長の背景であり、検地による年貢と軍役を定め、財政基盤と軍事力を整備し、楽市による商工業の自由化する一方、軍需物資のみ統制経済を実地した。富士・安倍の金山開発も重要な資金源であった。

天文19年(1550)6月2日、義元の室が没したため、同21年(1552)4月、義元の娘を信玄嫡子、義信に嫁すことを決め武田氏と再び同盟。同23年(1554)2月、義元が三河へ出兵すると、その隙に北条氏康は駿河へ出兵。吉原、蒲原に陣したため、信玄は富士川の加島、柳島に陣を張り、小山田昌辰、馬場氏房を先鋒として、先端を開いた。

三河へ出陣しかけた義元は兵を返し戦ったが、雪斎の奔走もあって、間もなく三者和睦し、善徳寺にて、氏康、信玄、義元が会見。氏康の娘を義元嫡子氏真に、信玄の娘を氏康嫡子氏政に嫁すことで合意。これにより、北条氏は関東、武田氏は信濃、今川氏は三河へそれぞれ出兵の基盤を確保した。三国同盟である。

この同盟により、弘治元年(1555)8月、義元は松平親乗に、織田氏の蟹江城を攻略。一気に織田を滅ぼし、美濃、近江を従え、上洛の機会をうかがう態勢に入った。

織田家の部将、山口左馬助は鳴海城主のまま今川氏に通じ、鳴海城には嫡子九郎二郎を、笠寺に築いた砦に今川部将、戸部豊政を、中村に築いた砦に自分が入った。天文22年(1553)信長は鳴海城を攻めたが敗れ、左馬助は勢いにのって大高城、沓掛城も攻め落とした。

しかし義元は、「戸部と山口が共謀し、義元を討つ」という噂を信じて戸部を駿府に呼んで殺害。山口父子には岡部元信をつかわして駿府に誘い出し、切腹させた。この噂は、信長が森可成を商人に化けさせ、ばら撒いた物だともいう。信長は鳴海城付近の、丹下、善照寺、中嶋などの砦を作って対抗した。

永禄2年(1559)5月、松平元康は兵をわけ、一方で織田勢を霍乱する内に、兵糧を大高城に入れたため、翌3年(1560)、軍備を整えた義元は、2万5千の大軍で西上の途についた。14日池田原、18日沓掛城で軍議を開き、19日早朝、桶狭間で休息を取って、鷲津城、丸根城の陥落を聞き、織田の先手将、佐々隼人助、千秋四郎太夫、山室長門守の首実検をおこなう。義元のいでたちを、「八竜の五枚兜、錦の陣羽織、松倉郷の太刀、青馬に金覆輪の鞍」などと伝える。

この時、豪雨に紛れて信長は奇襲を行ったという。義元は狼狽する兵を下知し、服部小平多忠次に槍あてられ、毛利新助に討たれた。42歳。その間際、首を討とうとする新助の指を食いちぎったと言われる。

義元の首は清洲の信長のもとに届いたが、岡部元信が信長に請うて持ちかえったとも言われる。