<2001年・城主のたわごと12月>




小手調べの(ハズだった)大多喜には、意外な強敵が待っていた!

これで懲りては武士(←?)が廃るっ!




     
 

「楽勝!」とばかり駐車場に車を停め、城の急な斜面を上って天守閣に到着(^O^)! しかし……。

「パレード部隊なら……とっくに出ましたよ」天守閣にいた係員の方は心配そうに言った。
「ここに居れば、戻って来るんですよね(^O^)!」と私。
「最後は小学校の校庭で勝鬨を上げて解散です」係員さんは気を揉んだ。
「えっ(・・;)!」
時間は刻々と終了の4時に迫っている(汗)。ちなみに同じ学校でも小学校というのは、山を下りてわりと遠くにあるらしい。

「間に合わないかもっ!」ようやく青ざめる私と主人。
梵天丸さまたちに、電話を入れておこう」と携帯(PHS)を出すやさらに愕然!
「圏外」
電話はそう告げた(-_-;)。……おのれっ! 機械めっ!(←?)

山を下りて駅に行くと、交通整理のお兄さんが、
「ここから先は行けませんよ」
と注意を呼びかけながらも、親切にも駐車スペースを確保してくれた。
「大多喜はいい町だ」
今ごろになってそんな事をつぶやきながら、降りてみると、小学校に続く道に人々が地べたに座り込んでいるのが見えた。

「あそこで待ってればパレードに出会える(^O^)!」
と早合点した私は、通りに向かう途中で「大多喜城モナカ」なんか買ったり余裕をこいていた。
が、4時になってもパレードは通らない!

不安に思った我々は、道にたむろしてる人々に「パレード遅れてるんでしょうかねぇ」と声を掛けてみた。すると……
「だいぶ前に通りましたけど(^_^;)」と、町の人々は答えるのであった。

嗚呼(TOT)。。。

渋々と小学校に向かう。もぉパレードは諦めた。残るはやはり……何としても、志摩の守さまが鎧を脱ぐ前に掴まえよう!

パレードの追っ掛けから、もはやただのストーカーと化した我々は、人並みをかきわけて小学校の校庭に向かった。

すると……何と、パレードから帰ってきた軍団と合流できたではないか(゚.゚)。朝礼台の上には……おおっ、居る! 本日の主役、本多忠勝@志摩の守さま〜〜〜(^O^)!

バシャバシャと写真を撮った(が、残念ながらこの日の写真はフラッシュ焚き漏れにて、写ってないのが多かった(-_-;))。雨が降り始め、徐々にあたりは暗くなっていた。

左から二番目が
志摩の守さま扮する本多忠勝→

お隣の美人は小松殿(?)との事↓


この時の私は「後で写真を見るの(#^.^#)!」と思い込みはしゃいでいたから、雨の中を体育館に戻って来た志摩の守さまと惟新入道さまを掴まえる。残念ながら梵天丸夫妻の姿だけが見付けられなかった。

「やあやあ」
「おうおう、久し振り」
お二人ともくたびれ果てた体にも関わらず、にこやかに写真撮影に協力して下さり、私はウキウキと本多忠勝の兜を被らせて貰ったりして、何しろ大はしゃぎ(笑)の内に体育館まで付いていき、彼らの着替えまでジックリと見守った(爆)。
↑だってもうストーカーだから(核爆)

本多忠勝は戦国きっての英雄である。しかし彼の勇猛果敢の生涯に、何処か「千葉県」は似つかわしくない気もしないではない。私は忠勝の鹿角の黒兜を見て、「きっとコレを被った頃は、周辺にまだ脅威が残ってたりなんかして、大多喜あたりは戦国してたのかなぁ」なんて、ボンヤリ思ったものの、もう一つ実感に乏しい。

着替え終わった志摩の守さまの電話で、梵天丸さまに連絡を取ると、「もう帰りかけてます〜」との事。
そりゃそうだろう。電話は繋がらない。何処に居るのかわからない。日はどんどん暮れて行く。
「残念です〜(TOT)。又の機会にでも……」と言いかける私に、
「でも、主人がそっちに戻るって言ってます〜」と梵天丸さま。懲りない夫婦だ(爆)。

小学校の周囲は車を停められそうな場所に乏しい。一先ず大多喜城で合流する約束をすると、惟新入道さまとはそこで別れた。志摩の守さまは、荷物が別の場所に移動されたそうで、ウチの車に乗ってもらう事になった。

乗るや、車内にあった缶コーヒーを渡す。すると、志摩の守さまは言ったのである。
「いや〜、咽喉渇いてました! 家来や腰元は大勢居るのに、水筒一つ差し出す奴が居ないんですねぇ」
「ぶぶっ(^^;)」吹き出す私と主人。
これは合戦祭りの特徴と言っていい。
4月の石和祭りでも、信玄や謙信に写真撮影や斬りつけ行為でたかる兵士は大勢いたが、大将を敵から守って戦う兵士ってのは、ほとんど皆無に等しい(大苦笑)。

志摩の守さまを送り届けると、大多喜城で再び合流する約束をして別れ、我々夫婦は再び大多喜城の天守閣へ……。

ところが待てど暮らせど、梵天丸夫妻も志摩の守さまもやって来ない。刻々と日は暮れていき、主人は繋がらない携帯電話に業を煮やし、公衆電話を探して山を下りて行った。

やがて戻って来ると、「駐車場ってのが他にあるらしい」主人は言った。
「えっ(・・;)!」
つまりは大多喜城と言えば、前に来た通り、まずは学校の敷地を目指すもの……という過去の経験が、我々の目を完全に惑わせていたのであった。主人は続ける。

「しばらくそこで待ってたらしいけど、梵天丸夫妻は帰って、志摩の守サンだけ残って待っててくれたんだって」
「えっ! 今でも?!」
「いや、これ以上待たせるのも気の毒だし、今日はもうお開きにしようって言って来た」

「そっか」。残念だが行き違いじゃ仕方ない。きっと皆さん、今度こそ懲りただろう(爆)。

我々も暗くなる前に……と、城を後にしかけて、ふと天守閣を振り返った。

前にここに来た時は、天守閣内の資料館に入れた。そこから下を見下ろすと蛇行する川の流れが見えた。この城や町は、敵の侵入を防ぐべく軍事的工夫が幾重にも施されていると、展示物などで説明されていたのを思い出した。

「おのれっ! 本多にたばかられたかっ!」
今更のようにこの実感が、怒涛のように胸に攻め寄せた。そう(-_-;)。この城のヤケに入り組んだ構造には、町に入って来た当初から翻弄された、とやっと気付いた。
流石は徳川四天王といわれるだけの事はある。本多侮りがたし、今後は彼に敬語を使って媚びようという気にさえなった。

ところが帰りの道々、主人は懲りずにこう言った(笑)。
「本多忠勝って、左遷されてこんな所に来たの?」
「うっ(・・;)」
私は今更ながら、主人の 無神経さ 男らしさを思い知った感じがした(爆)。

しかし「左遷」なんて言葉が飛び出して来るその気持は、私にも全くわからないでもない。
現地に行って、なぜここに?と感じる違和感は、恐らく今の私達には全く見えなくなっている何かが、当時はここにあったからだろう。

この辺りで脅威と言えば、里見氏ぐらいしか該当勢力は思い付かない。が、本多氏が入って来た頃となると、どう考えたって北条氏が一掃され、徳川家康が関東に移封された後しか考えられない。

後で調べたところ、本多忠勝が大多喜城に配されたのは天正18年(1590)。やはり小田原征伐の直後、家康の関東入りとほぼ同時期で、北条を攻めた徳川氏が、北条氏と不仲の里見氏を脅威に思う必要もないから、徳川の家臣である本多を配置するのを、敵地に飛ばしたって話にもなりにくい。

里見氏よりも、海を伝って攻め寄せそうな鎌倉への備えがまず考えられる。おのが基盤に取り入れたい安房や上総の勢力が、海を越えた外の勢力と結び付かない事前の策だったのかもしれない。何しろ北条氏全盛時代、県内には数多くの北条方への内応勢力が割拠していたから、統治するに重要な土地ではあったのだろう。

しかしそんな具合に、頭で納得するのはたやすいが、気持が全く追い付かない(汗)。水軍というものをまるで実感できないからでもあったし、この時の我々は、大多喜はかなり内陸に入り込んでいるような錯覚もしていた。

そしてそれ以上に……要するに、それほど千葉県人である我々にとって、「まさか千葉県に、そんなスゴイ史跡や人物があったとは……」←何もかも、コレが根底から抜けないからと言っていい。

「里見ね〜」主人は言った。
「次は行かないとね〜! 富浦!」声が揃ってしまった。

そして……主人は家に帰るや、こう言ったのだ。

「来週は松代に行きたいっ!」(爆)
(もちろん、松代と里見は何の関係もありませんです、はい(^_^;;;;))
この脈絡のない要求に私は、
「松代って言えば、来週は真田まつりがあるんだって♪」と嬉しそうに答えたのだから、どっちもどっちである。

こうしてこの日は、祭り見物と銘打った「単なるドライブ」で終わり、次週のドライブコースは、何の脈絡もなく信濃路へとバトンタッチされたのであった(汗)。

<まだ続くんだな(^。^)>

2001年12月25日(←クリスマスにこんな話をしている自分を今知りました:汗)

 
     




着々と課題をクリアしつつある(かもしれない)、こたつ一家!

まずは「大多喜城まつり」へしゅっぱぁ〜つ(^O^)!




     
 

今回の旅行編は、意外や意外、けっこう冒頭からウケた。よしよし(^^)。(←いい加減にしとけ)

さて、大多喜城祭りに行くと決まってからも、尚も主人の多忙な日常は何も変わらなかった。ゆえに私は、関係者に「行けたら行きます。行けなかったらスイマセ〜ン」という、全く迷惑なお知らせを出さざるを得なかった(汗)。

そして前日、主人が帰って来たのは真夜中! さらに、それから仕事の続き。作業終了は朝7時!!(汗)

とりあえず寝る。10時には(一応)起きる。「運転、大丈夫(^_^;)?」なんて言いながら、何となくフラついたりしつつ、やがて出発。

とりあえずヤボ用など片付け、家を出る事30分ほど。おもむろに忘れ物に気付く(爆)。
取りに戻る。また出る。そうこうする内に渋滞に巻き込まれる(汗)。

やむなく車内から、行く事を知らせておいた梵天丸さまに電話。石和の合戦でご一緒したメンバーである。

「朝から着いてました〜♪」と梵天丸さま。何やら嬉しそうな声である。
「(スイマセン、その頃まだ寝てたかもしれません(-_-;))」と思いつつ、
「それが私らは、まだ松戸辺りに居ます。昼食は先に召し上がって下さい」と伝えた。
「さっき志摩の守さまと惟新入道さまにも会いました〜♪」梵天丸さまは、あくまでも明るく優しかった(ホッ)。

次の連絡先は、志摩の守さまである。
「何とか間に合うように行きます」私は願望を述べる。
「待ってます〜♪」と、こちらも負けず劣らずテンション高そうである。
「もう甲冑着てるんですか? いつものアレ(^。^)?」と私。
彼は毎回自前の甲冑でアチコチの戦場に参加する、まさに「歴戦のツワモノ」だからだ。
「それが……」
ここから彼の言ったセリフに、我々はぶっ飛んだ。
「実は〜、本多忠勝の役になっちゃいましてぇ」
「ぬ、ぬわにぃぃぃ〜っっ(*O*)?!!!」
これを亭主に言うや、彼も、
「ホ、ホントォォォ〜(*O*)?!!!」
あとで知った事なのだが、ナント、この祭りでは、一般応募者に純粋な倍率ドン!で、大将役を引き渡してしまうのだそうで、しかもその倍率を志摩の守さまは見事に射止めた、というわけだ!

「狙うなら次は大多喜だっ!」と今の私は思っているが(爆)、この時はただ興奮するのみで、もう一度梵天丸さまに電話し直した。

午前中を史跡巡りに当てておられた彼ら(ご夫婦である)は、恐らくこの事を知らないだろう。案の定電話すると、やはり……。
「えええええ〜っっ(*O*)?!!!」
彼女がご主人に伝達する様子が伝わって来る。そして近くから、
「ええええ〜っ(*O*)?!!」
う〜ん、残念。電話から伝わって来る声は流石に小さいのぅ。(←何の実験だよっ!)

こうなったからには、何としても志摩の守さまが甲冑を脱ぐ前に行かねばなるまい。
主人は焦る。私は急かす。そして高速の乗り口を間違える(-_-;)。今回は前に高速教習をした(詳しくは、「7月のたわごと」をご覧下さいまし)のとは違うインターに初挑戦なのであった。

どっかで方向転換しようと入り込んだ道でまた迷う。妙な路地に入り込んでいる内にも時間はどんどん経過する(汗)。

そして……相変わらず渋滞している元の道に辿り着く。前よりさらに混み具合が増したような気が……(-_-;)。
じっと我慢の子でやっと高速に乗る。ここからは快調。亭主、ちょっとスピード出しすぎでは(^^;)?

やがて木更津北で下り、国道409号線に入るとあとはひたすら一直線。千葉横断は結構長距離である。ひたすら飛ばす飛ばす。

……のハズだったが、やはり途中から妙な道に入り込む(爆)。慌てて方向を元に戻す。このあたり、混雑の激しい都内の道路と違い、ただユーターンできるからラクで良い(^_^;)。

しかし、そのまま焦って先を急ぐ内、私は気付いたのである。間違って入り込んだその道は、そのまま行けば、前から行きたいと思っていた久留里城に続く道でもあった。

「久留里城にも行きたいっ!」私は騒いだ。主人は問答無用で大多喜に向かう。私は途中に「本多忠勝モナカ」なんて看板を見掛け、それはそれで「やっぱ今日は大多喜城に行こっ(#^.^#)!」と気を取り直したり、その又先に「浅井一族の墓」なんちゅう文字を発見しては、「うぬっ、何があるんだっ(*O*)!」なんて騒ぎながら、とにもかくにも大多喜に着いた。

何処に行けばいいのかわからないから、とにかく城に行ってみる。城は遠くから見えるが、どう入って行けば良いのかが又わからない。そこへ何かわかったような動きを見せる車(どんな動きだよ(-_-;))を発見!

「ついて行ってみよう」犬の鋭い臭覚をもって、主人は見事に大多喜城に到着。

実はここには15年ほど前に、電車に乗って来た事がある。城の裏手にある学校に入り込み、「スイマセ〜ン。屋上から写真を撮らせて下さ〜い」なんてパーな事を頼んで、許可を取り付けた過去があった。

過去のこのオイシイ経験が、我々を翻弄する結末に導こうとは、この時は思いも寄らなかった。

<また続くんだな(^。^)>

2001年12月19日

 
     





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