<2001年・城主のたわごと5月>




旅は道連れ、世は無情。

どんな旅もやがて終わるのなら、終わったとは知らずにいたい(爆)。




     
 

今年も、石和川中島合戦戦国絵巻に参加した。

実はこれに行った帰り、この「信州旅行編」にたびたび書いた通り、城主が旅の終わりに「死にたくなっている」現場を少数のメンバーに目撃された(-_-;)。

さすがに他人とともに居たし、その他人ってのは、このコーナーを読んでいたりするものだから(汗)、尚更「城主さま、アレが出ましたな(ニヤ)」と思われたり、後々まで「アレが出てましたね(ニタ)」なんて言われるかもしれない、という危惧も多少はあり、極力隠してはいたのだが、やっぱりわかる人にはわかってしまったようだ(恥)。

石和の旅については、この後、別の機会に書く事もあろうから(又「城主のたわごと」だったりして:汗)、ここでは触れないが、とにかくこの信州旅行最終ラウンドは、いつもの事ながら、私は最後の最後まで「あと1時間でも居られること」に命を託していた。

しかし無情にも、車は坂城駅に着いた。
「又、ぜひいらして下さいね。待ってますよ」
なんて励ましてくれる郷土史研究所の職員さんを恨めしげに見ながら、私と主人は車を降りた。

駅に預けた荷物を取り出し、ホームに出て、村上義清の居城跡のある坂城の山をすぐ近くに仰ぎ、「やっぱり坂城っていい所だな〜(TOT)」とか言ってる内に電車は来た。

乗る。

電車は走り出し、やがて、荒砥城山頂から眺めてキャーキャー騒いだ風景……すなわち、一番遠くの山と山のすれ違う接点をさらに通り過ぎていった。

ちなみに、今回の旅行の範囲は信越本線の上田から別所線の別所温泉までのルートと、信越本線を北から戸倉、坂城、テクノ坂城、西上田、上田までのルート。

この後者のルート、最北端の戸倉にあったのが荒砥城で、そこから東南方向に見下ろした左右の山同志の最後の接点とは、西側の狐落城跡と、東側の和合城跡である。駅的には”テクノ坂城”付近。この二つの山は、信越本線を川でも挟むように間に挟み、荒砥城山頂から見ると、その先の路線を揉みこむように消し込んで見える。

この合間を抜けて通り過ぎていくという事は、紛れもなく、美しいと感動した風景の終わりの地点を過ぎて帰って行く、という事に他ならない。

ここを過ぎる時までは、私は今回はじめて見た荒砥城からの風景が、現地近くまで迫るとどう見えるのかを楽しみにしていた。だから、ここを過ぎるその瞬間まで、私の旅行は終わってはいなかったのである。

しかし主人と二人して、「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ〜」と行ってる内に、狐落城跡らしき山と和合城跡らしき山は過ぎて行った。

はあぁぁ〜、とため息。
「俺、疲れたからちょっと寝るわ」と主人。後は新幹線に乗るために一路、上田へ……。

上田に着くと、どちらからともなく「上田で一服してから新幹線に乗ろう」という話に……。もはや”旅”はとっくに終わっているから、”無駄なあがき”の最終ラウンドである。

上田からは、戸倉から見た山々とはだいぶ内容が違うが、それでも「東京にはナイ」山が見える点が、まだ”旅行っぽさ”を提示してくれている。

「夕飯食べちゃってから帰ろうか♪」とばかりに、上田の駅ビル最上階の店に座をしめる。

「ううっ、夕闇に映える山のシルエット〜♪」とか言って、強い西日を避けるべく、店じゅうで閉まってるブラインドをわざわざこじあけて飯を食う。

すると店員さんが、親切にもブラインドを開けてくれたりする。途端にバシャバシャとカメラ撮影する私。

飯を食い終わると、ドップリと夜。新幹線のホームに着くと、意外にも元気が沸いて来る私たちだった。それは……。

「うふっ、もう夜だから、東京も上田もおんなじだもんね〜」

この意味がおわかりだろうか。近くのネオンぐらいしか認識できないこの闇の中では、何処に帰っても「実はこの闇の向こうに、まだ山があってぇ♪ 明日はまだどっかの城巡りが出来るんだもんね〜」なんちゅう勝手な想像(と言うより”妄想”だろう)をする事が許されるのである。

新幹線は非情にも上野に帰って行った。

その夜、主人は「温泉の効能あって」とてもよく眠れたそうである。

そしてその翌朝、何の祟りか、主人は腰痛を訴え始めた(爆)。

やはり思った通り、「主人の慰労の旅」というのは、全くのデマに終わった。

やっと<おわり>

2001年5月1日

 
     






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