<喫茶店メニュー編>


「こたつむり提案編」

     
  その1、「石田三成ティーセット


やっぱりアレですね。最初に出て来るのが「抹茶アイス」。次に出すのが「アイスティー」。……で、締めは熱〜いドリンク。紅茶とかでもいいけど、私としては、ここはやはり、抹茶とお菓子のセットにしたいです。(お菓子が干し柿だったりなんかしてね(^_^;))。


<逸話>
長浜城主だったころの秀吉が、鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で、「喉が乾いた。茶を所望じゃ」と呼ばわった。すると、当時、寺の小坊主だった(あるいは寺男か寺小姓だったのか?)佐吉という少年が、茶を入れて登場する。

佐吉は秀吉の渇きを癒すために、わざとぬるめの茶をたて、大き目の茶碗にたっぷりと入れて差し出した。秀吉はそれをいっきに飲み干し、「さらにもう一杯」と所望する。佐吉は、次は少し熱めの茶を、先ほどの半分ぐらいの量で差し出した。秀吉がさらに所望すると、最後に出てきたのは、小さい茶碗に、ほんの少しの量で、舌が焼けるほど熱い茶だった。

喉の乾きを癒すのに、大変に気のきいた茶の勧め方であった。秀吉は、自身が、おのれの懐で信長の草履を温めた、などのエピソードの持ち主であるから、こういう佐吉が気に入ったのだろう。これを機に秀吉に取り立てられた佐吉が、後の石田三成である。
 
     

     
  その2、「お市の方クレープ


クレープの中身は、やはりアンコでしょう(^^)。小豆が入ってなければなりませんので……。ただ、餡子ばかりだと甘過ぎるので、周りに生クリームを入れた方がいいでしょう。ど真ん中に、ちょっと大きめのフルーツでも入れて、これで信長を象徴します。最後に、クレープの両端を何かで結んで出来上がり。


<逸話>
元亀元年(1570)、織田信長は、同盟者の浅井長政に無断で浅井領内を通り、これまた浅井との約束を破って、浅井の同盟者である越前の朝倉氏を攻めた。これを怒った浅井氏は、織田軍の背後に兵をまわし、朝倉氏と挟み撃ちで信長を討とうとした。

このとき浅井軍の動きを察知し、信長に急報したのが、浅井長政に嫁いでいた信長の妹、お市の方だという。手紙で知らせては浅井氏に気付かれると思い、お市の方は、信長への陣中見舞と称して小豆を贈った。小豆は信長の好物であったというから、浅井氏には怪しまれずに済んだ。

伝説では、この小豆は袋に入れられ、袋の両端を紐で結んであったという。それはつまり、「この小豆のように、兄信長は袋の鼠になっていますよ」という意味であった……とか。陣中で小豆を受け取った信長は、即座にこの意味を理解し、いち早く危険な地を脱出し、一目散に京に逃げ帰った。
 
     

     
  その3、「高松城ポタージュ


透明なコンソメスープでもいいのですが、それだとスープ皿が透けて見えてしまうので、ここはやはりポテトでも摩り下ろしたポタージュの方が効果的。

これの仕掛けは、ポタージュ自体より、スープ皿。ポタージュを飲み終わると、「無念じゃ〜」と書かれた字が出てくるんですね。これじゃギャグだと仰せなら、辞世の句でもいいかもしれません。が、清水宗治の辞世の句を知ってる人など多くないでしょうから、やはりポタージュに、舟を象った食べ物(固焼きのパンか何かがいいでしょう)を浮かべるのが、それっぽくていいかもしれません。


<逸話>
天正10年(1582)5月、中国戦線の羽柴秀吉は、毛利陣営の高松城を攻めていた。高松城は、他の毛利方諸城が次々と織田軍に寝返る中で孤立し、梅雨の大雨に見舞われて秀吉の水攻めの効に埋もれ、落城を目の前にしていた。

そんな最中に、本能寺の変が勃発。明智光秀から毛利軍に発せられた使者が、間違って羽柴軍に駆け込んでしまったため、秀吉は敵よりも先に変事を知ったのである。一刻も早く京に取って返したい秀吉は、毛利の外務僧、安国寺恵瓊を通じて、「城主が腹を切れば、城兵の命はすべて助ける」と約束。

この報を受けた高松城主、清水宗治は、開城を決意。水攻めによって湖となった水面に舟を出させ、その上で腹を切って降伏を示した。辞世は、「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」。宗治の最期を見届けるや、秀吉は、有名な中国大返しを決行して、山崎にて光秀と対峙。天下人への道を踏み出すのである。光秀の挙兵と信長の死を、秀吉でなく宗治が知っていたら、宗治は腹を切らなかったかもしれない。
 
     


「皆様より提案編」

     
  その4、「太田道灌、山吹カレーセット(2001/07/03更新)


山吹色のカレーと山吹色の桂花沈酒のセット(#^.^#)。
これは掲示板上、のりちゃん様から頂いたメニューで〜〜〜す!

カレーにセット価格でつくサラダに、"きぬさや"のみじん切り(実が入ってない)でも入れるのもいいかも☆ミ

そして……カレーを食べ終わると、皿の底に「当方滅亡!」と書いてあったり、お皿自体が「湯殿に見立てた深い」ものであったり、さらに、カレーとご飯の合い間に、頭に布巾を乗せた「道灌スナック」が入ってるとか(^_^;)、議事録でも意見が交わされました。


<逸話>
太田道灌が狩りにいった帰りに大雨に会い、みすぼらしい一軒の家の戸を叩いて、「雨道具を所望したい」と言った。中から出てきた女は山吹を差出し、

「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」

と山吹の実がないことと「蓑」がないことをかけて歌った。
道灌がこれに感動したとも、これの意味がわからずに怒って帰り、あとで意味がわかって歌の勉強に励んだとも、いろいろ言われているが、何しろ道灌には歌にまつわる逸話が多いことは確かである。
 
     

     
  その5、「小田原風お茶漬け(2004/10/01更新)


これも掲示板上、河内判官太夫さまから頂いたメニューです〜〜。

ただし現在の所、最終的にどういう形の食事になるか決まらず(;_;)、ここに上げるのに、亭主と「ああでもない、こうでもない」と考えたのですが、コレ!という決定打が無いので、出たアイディアを全部載せます(笑)。

@「目隠ししてお茶を注ぎ、量が足らずに二度継ぐと家が滅ぶ」(河内判官さま)
A「忍風茶漬け」との名称も頂きましたが、「茶碗が脆く、早く食べないと茶が溢れ出る」(河内判官さま)
B永谷園レストランでやってるような、後足し用の湯を急須に入れ、コンロなどに乗せて出す。この急須の内側に「ここから先はお家滅亡」と書いたラインを引いておく(こたつ)。
C↑Bの「後足し湯専用急須」方式で、注ぐ時に「北条も長ぉない」という泣き声が出る(こたつ)。

@BCあたりは、仕掛けが大変で実現不可能な感じがしますが、Aなんかは良さそうに思えますね。よく「パン生地を器に仕立てたスープ」ってあるから、いっそ茶漬けじゃなくて「リゾット」にしたら出来そうな気がします。


<逸話>
父の北条氏康が1515〜1571、子の氏政が1538〜1590だから、氏政が多少は大きくなってからとして(三歳とかだったり:笑)、だいたい1548〜1571ぐらいかと推定。

北条家の者達は、主従みなで湯漬けを食べていたが、氏政は最初に継いだ湯が足らず、途中で湯を継ぎ足して続きを食べた。
するといきなり父氏康はハラハラと涙を落として泣き出した。居並ぶ者は慌てふためきて窺いを立てると、氏康は「北条の世も自分の代で終わりか」と言った。
これを聞いた周囲の者達は、あまりの不吉な言葉にさらに慌て、その理由を聞くと氏康は、「湯漬けの湯の量を一度で決めかねるようで、多くの将兵の采配が出来ようか」と氏政の無能を嘆いた。

食事の作法に対する注意のようでもあり、また臨戦態勢における武将の緊張感(心配りと合理性)が常に必要、といった示唆にも思われる。
この氏康の心配が後に当を得て、北条家は秀吉の小田原征伐で終焉を迎えてしまった。


<城主コメント>
氏康の妙味は、指摘の順序にあると個人的に指摘。普通は、

@「湯の量を一度で加減できないで何とする」と文句を言う。
A周囲は「ああウルサイ、又始まった」と思う(汗)。
B「そんな事では、北条の世も自分の代で終わる」と愚痴を言う。
C周囲は「いつものアレだ」と、もう聞き流す気になっている(笑)。
D言ってる内に悲しくなって泣く。
E既に誰も相手にしない(爆)。

こうなんですが、ここが天下の北条氏康。効果を高めるためか逸話として残すためか、こう工夫するんですね〜(^_^;)。

@まず泣く(爆)。
A周囲は一体どうしたのかと色めき立つ(汗)。
B「北条の世も長くない」と爆弾発言。
C周囲は理由を聞きたくなる。
D「湯漬けの食い方がどうのこうの」。グチグチ。
E既に皆が「何かを気を付けなくてはならない」という強迫観念に陥っている(笑)。
 
     

     
  その6、「片切り且サンド(2004/10/01更新)


これも掲示板上、河内判官太夫さまから頂いたメニューです〜〜。

サンドイッチのサイズは食パンの半分(ちょっと大きめですか)。中身のカツで片桐且元を象徴し、それを挟む2枚の内1枚は黒パン(ライ麦パン)で黒塗りの大坂城に見立て、もう1枚は白いパンで白い江戸城に見立てます。白いパンの方にカツを、黒いパンとカツの間には、キャベツとかレタスとかカラシって説もあったけど(笑)、何しろ沢山の「障害物」に見立てた「その他の具」が挟まってます。


<逸話>
加藤清正や福島正則とともに「賤ヶ嶽七本槍」の一人として頭角を現した片桐且元は、その主君、豊臣秀吉が死に、関が原合戦の後、徳川家康の命で秀吉の子、秀頼の補佐を務め、豊臣氏の所領と財政を預かる立場にあった。

が、大坂の陣の前年(1614)、方広寺、大仏供養の鐘銘について豊臣は徳川に言い掛かりをつけられ、且元は駿府に出向いて家康に弁明したが、家康側には聞き入れられず、やむなく大坂城に戻ると豊臣側からは家康内通を疑われ、ついに身の危険を感じて大坂城を退去し、家康の元に赴いた。

この後、大坂の陣に至り、徳川と豊臣は決裂したため、そのまま且元が家康の麾下となった事、冬の陣で家康とともに大阪城を攻めた事などで、後年は不忠者呼ばわりされる事もあった。

が、冬の陣と夏の陣の間の一時和睦の時には、再び豊臣と徳川の調停に尽力し、結局夏の陣が勃発した時には、既に病床に臥していたとも言われ、さらに大坂落城をついに聞くと、駿府において自刃したとも(京で病死とも)言われている。
徳川と豊臣の二大勢力に挟まれ、苦境に立たされるために存在した人生だった。
 
     

     
  その7、「長尾・武田・鳩ハンバーグセット(2004/10/01更新)


これも掲示板上、ヒロ男爵さまから頂いたメニューです〜〜。

ハトムギ入りミニ・ハンバーグを鳩の形(鳩サブレみたいな♪)に2個作り、ちょっと深い器に入れて、タップリ目にソースをかけ、「鳩が二羽で水浴びをしてる」ように見せます。二羽の間には、殻ごと(でも銀紙の器にでも入れた方が綺麗ですかね)の「温泉卵」を副えます。


<逸話>
文明11年(1479)、太田道灌に鉢形城を追われた長尾景春が各地を転々とした最後に熊倉山城にこもった。これを攻撃したのが、甲州武田の軍で、城内の水を断ち、日を追うごとに敵を追い詰めつつも、野戦の不便な中で困窮し、日々の戦いで両軍ともに死傷者が増えた。

療養していた甲州勢の負傷兵達が、ある日、鳩が二羽水浴びをしてる光景を見て、刀を杖に歩み寄り、戦いに汚れた身体を洗った所、驚くほど傷が回復し、再び戦いに出られたので、この言い伝えにより、荒川村日野の鉱泉を「鳩の湯」と呼び、農村の人々が数多くここを訪れたそうだ。


<城主コメント>
この逸話は、当初「長尾景春にまつわる話」としてお知らせ頂いたのですが、文意としては武田軍の方が温泉を発見したように読み取れるので、両軍の名を冠させて貰いました。

また、この話の紹介に、参考提示頂いたサイトの、あまり詳しい内容を写すのでは良くないように思え、ここではかなり省略しております。
詳しくは、ご提示頂いた、以下のサイトをご覧下さい。

「荒川区の民話と伝説:鳩の湯:http://www.ksky.ne.jp/~kawasemi/ohanashi-7-.htm
(「民宿すぎの子」:http://www.ksky.ne.jp/~kawasemi/index.htmより)
 
     



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