<長篠合戦・議事録2>


     
  <甲斐の虎さま [地球外] 2000/04/19(Wed) 00:48>

題名:そろそろ……?

そろそろ名和弓雄氏の『長篠・設楽原合戦の真実』
反論大集会を開けるかな?
もうすぐ終わりそうだしね、『東海乾坤記』も(笑)



<天陽さま [四国] 2000/04/19(Wed) 02:20>

>甲斐の虎さん

私に気にせず、集会開きましょう。丹波さんも、読んだようだし。
で、何が不満っすか? *興味津々*



<こたつ城主 [関東] 2000/04/19(Wed) 13:16>

>甲斐の虎さま

>そろそろ名和弓雄氏の『長篠・設楽原合戦の真実』
>反論大集会を開けるかな?

読んでないんです(^_^;)。すいません。当分、本を買うお金はないし、足の負傷で図書館にも行けませんから、話についていけないかもしれませんが、むろん天さまは読んでますから、どうか、存分にやって下さい。勉強させて貰います。

>もうすぐ終わりそうだしね、『東海乾坤記』も(笑)

あと、4話です。


>天陽さま

>私に気にせず、集会開きましょう。丹波さんも、読んだようだし。
>で、何が不満っすか? *興味津々*  

との事ですよ〜、甲斐の虎さまぁぁ〜!!
 
     

     
  <久住さま [関東] 2000/04/19(Wed) 14:58>

連載小説に物申すというコーナーは、ぜひ作ってほしいです。
(天陽さまの連載が終わってからでもいいですが・・・。
 あと四回? やばいじゃないですか。)
本を手に入れるのも困難なので、キーポイントになる主張の
内容と根拠をまとめたレジュメをどなたか作っていただけると、
誰でも参加できると思います。(って、自分ではできないので
申し訳ないです)



<こたつ城主 [関東] 2000/04/20(Thu) 15:04>

>久住さま

>連載小説に物申すというコーナーは、ぜひ作ってほしいです。

新しいコーナーを(゚.゚)? 「作品の広場」の中にでも?

>本を手に入れるのも困難なので、キーポイントになる主張の
>内容と根拠をまとめたレジュメをどなたか作っていただけると、

天さまにお聞きした話では、「土塁に空掘に竹槍」は、名和さんのお説だそうです。ただ名和さんは同時に、「織田・徳川連合側は一兵の死者も出なかった」と言い切っておられる……とか?(100%、天さまからのウケウリですが(^_^;))「東海乾坤記」に関する質疑応答は、編集サイドの私としては、むろん歓迎です。



<久住さま [関東] 2000/04/20(Thu) 16:10>

>作品の広場の中にでも?
掲示板で話された内容をまとめる場所があるといいなあ、
と思ったのですが、場所が問題ですね・・・。

設楽原の戦いでの武田方の死傷者は、ほとんど撤退時の
ものと読んだことがあります。また、織田方の野城に
強襲策を取るなら、鉄砲の手薄な右翼の徳川勢を狙うのが
筋かと考えます。(だから佐久間寝返りの噂をまいたという
考えも成り立つでしょうが)
織田勢に攻めこむ隙がないので、武田が撤退に移ったところ、
織田の急追を受けて大損害を被ったというのが、
私の持っているイメージです。
 
     

     
  <甲斐の虎さま [地球外] 2000/04/21(Fri) 00:06>

題名:反論第一部

どうも〜甲斐の虎です。だいぶ長いですけど、おつきあいよろしく(笑)
 まず私が「おや?」と思うのは信長の鉄砲の数である。名和氏は小瀬甫庵以降の記述に見られる『三千挺』を支持するのだが、甫庵は『千挺宛放ち懸、一段宛て立替々々打すべし』などという素人丸出しの記述をして長篠の『虚構』を作り上げた張本人である。こと長篠に関しては甫庵の記述がどこまで信用できる物か。
 そして名和氏は全長二十四町に及ぶ前線をカバーするためには2160人の放ち手と『分業式弾込め法』による速射が不可欠であることは認めているが、鉄砲の数の『三千』にこだわるがゆえに『2160人を前線に配置、840人が弾込め係となって敵の攻めてくる所に移動、弾込めをサポートする』などという突飛な案を出す。
 これほど実戦に向かぬ方法があるだろうか。名和氏は武田軍が何時間もの間、ついに織田軍の戦術に気付かずに敗退した(これもあやしいことだか)理由として、『濃い硝煙のために前線が全く見えなかった』からだと『推理』する。ならばその濃い硝煙は織田軍にとっても目隠しとなるから、武田軍の攻めてくる一点を見定めて弾込め係が移動するとはいっても、適切な移動ができるはずがないのである。840人280組の弾込め係は全体の八分の一しかカバーできない。濃い硝煙が武田軍の進路を隠し、気付いた時には思いもしない箇所を武田軍にせめられていることであろう。
 しかも名和氏は『膝、腿まで沈む泥濘のために武田軍は這うようにして進むしかなかった』とも推理し、その理由を『連吾川の両岸は田であるから』とするが、ならば織田軍の野戦築城も田んぼのど真ん中に行われたことになるから、弾込め係は全長二十四町(約二・六キロ)の陣地の中、右から左、また右へ、と武田軍も苦しんだ泥濘の中を動き回らねばならない。名和氏の推理が正しいなら濃い硝煙が武田軍の正確な動きをギリギリまで隠すから、いざと言う時に間に合うはずがないではないか。
 問題はまだある。武田軍を鳶ノ巣山奇襲で進退極まる状態に追い込んだのだから、数に劣る武田軍が乾坤一擲の一斉突撃をかける可能性は充分、予想できる。この時、わずか八分の一しかカバーできぬ弾込め部隊はどうしろというのだろうか。
 もし仮に『分業式弾込め法』で武田軍の徹底殲滅を狙うならば、8640挺の鉄砲を集め、四人一組として2160組を前線に配置すればよい。こうすれば各組の判断で武田軍が近づいてきたら撃つ、それだけで勝つ事が出来る。十万の軍を持ち、堺と国友を押さえる織田軍なら各部隊からの引き抜きで一万挺ぐらいは調達できたと言い張ったって文句は言われまい。実は一番定説に捕らわれているのは名和氏自身なのではないか。
 問題は続く。『長篠・設楽原合戦の真実』の第200ページから引用する。 「しかし乾堀、木柵、身がくしの三段陣地は、二重、三重、四重、多い場所には、六重に作られていた。身がくし内部に突入すれば、鉄砲隊は三十間、五十間につくられた出入り口(堀、柵、身がくしと出入り口は各々三十間、五十間をへだててじぐざぐに作られ、まっすぐには移動出入りできない)から無傷のまま撤退して銃眼から狙撃してくる。
 武田軍は一重を破り、二重を破り、三重目の陣地で、全員力つきて戦死したという」
 これこそ虚構であろう。一重目から二重目にはどのタイミングで、どのように下がるのだろうか。
 下がり方は次の様に推測できる。二重目の陣地を防御に使う考えである以上、二重目の堀も柵も土塁も壊すわけにはいかないから、三十間とか五十間にひとつしかないせまい虎口を一列になって次の陣地へと入って行く、というやりかただ。
 この方法は時間がかかる。しかも、下がる時には全軍で下がらなければならない。例えば、もし仮に左翼が突破され、左翼部隊が二重目に退き、中央と右翼がそのまま残ったとする。左翼から突入した武田軍は中央と右翼に残る鉄砲隊を追い散らし、切り伏せる。すると中央と右翼には残りの段を守る兵が一切、いないから、最後の段まで侵入し放題である。もしそうならなくても、840人の弾込め係は一重目から二重目、また一重目とさらなる移動を求められる。武田軍の動きに追いつけなくなるではないか。
 また、全軍で下がるとなると、タイミングが難しい。
 武田軍は堀さえ渡れば、柵を引き倒し、土塁を乗り越える。彼等にとっては土塁に設けられた狭い虎口など眼中にはない。土塁を乗り越えて鉄砲隊に切り掛かったり、あるいは銃眼から槍や刀を突っ込むのもいい。前日までの雨で土塁そのものが押せば倒せるようなものであったことは名和氏自信が実験したことだから、土塁を突き崩すのもいいだろう。
 武田軍が一重目を破ってから次の陣地に退くのでは遅い。武田軍は陣地を壊す事を前提に前進する。だが、織田軍は追ってくる武田軍の恐怖に耐えながら、一列ずつ粛々と退かねばならぬ。これではすぐに追いつかれて切り崩される。狂乱した兵士が自ら陣地を壊して逃げ惑い、織田軍はそこから総崩れへの道を歩む。
 一部の兵だけさがる事に意味はない事はさきほど書いたから、一部だけ六重などにしても意味がない。
 では見切りで下がるのはどうか。そろそろ堀が死体で埋まったから退く、というやりかただ。だが、堀そのものがよほど近づかねば見えぬ事は名和氏自身の実験で証明された。つまり、狭い銃眼から正面だけを見据える銃手や、流れ弾に注意しながらやや後方で指揮を執る指揮官に堀の中は確認できないではないか。
 つまり、一重目をひたすら死守する以外にないのである。
 そして、武田軍の武将の死についても、「硝煙で前線が見えないから自ら前に出て、弾に当たった」とするが、どうか。土屋昌次戦死の地とされる場所はなるほど連吾川のすぐ側である。が、それ以外の武将が戦死したと伝えられる地は、連吾側からはるかかなたである。
 例えば「真田信綱戦死の地」は連吾川から実に六百メートルも離れた場所だ。織田軍陣地からは鉄砲の射程距離外である。つまり、土屋昌次以外は追撃の際に討ち死にしたということだ。「地元の伝承が最も正しい」を基本に推理を進める名和氏がこの点を見逃すのはなぜか。自分の推理にあわぬから事実ではないと主張するのでは歴史考証にならないではないか。
 まだいいたいことはあるが、それは次回にする。なお、よりくわしい考証は私のホームページにて掲載する予定である。完成したら、URLを通知する。



<森田丹波守さま [関東] 2000/04/21(Fri) 00:59>

題名:確かに長いですねぇ(^_^;)

>甲斐の虎さま

挙げられた疑問点
1:鉄砲の数
2:鉄砲隊の配置法
3:鉄砲隊への煙幕の影響の無視
4:鉄砲隊への泥濘の影響の無視
5:三段塹壕陣の構造的欠陥
6:武田諸将の実際の討死場所と仮説との不一致

こんな所で宜しいですか?
確かに煙幕の件は気づきませんでした。武田方が前が見えないなら
当然鉄砲隊も前は見えない・・・うーん確かにそうですね。
鉄砲隊の追い風が吹いていて鉄砲隊前の煙は前方に流された・・・
というのはどうです?
設楽原の風向きはどうなんでしょう?

5:は私も思ってたんですよね。どうやって次の陣に下がるんだろうって。幾度と無く「出入り口は出入りし難い様に作ってある」と書いていたのに一段目を占領されたら「整然と」二段目に下がるみたいに・・・。ここは確かにすっきりいかなかったです。

あとは他の人の考察も待ちます(^_^;)



<天陽さま [四国] 2000/04/21(Fri) 01:19>

どうも、天陽です。
なかなかスカッとした反論で、カッコいいです。
私は、甲斐の虎さんやタンク郎さんのように詳しくないから「自分はこう解釈した」という点で書きたいと思います。

> まず私が「おや?」と思うのは信長の鉄砲の数である。

鉄砲の数は賛否両論なんですよね。 私も三千という数を出してますが、特に意味はないと思っています。「三千=十分な数量」という見方です。これは、ニュアンスが似ているもので例えると、中国では「99=永遠」という見方があるそうで、そんな感じですね。

> 鉄砲の数の『三千』にこだわるがゆえに『2160人を前線に配置、
> 840人が弾込め係となって敵の攻めてくる所に移動、弾込めをサポートする』
> などという突飛な案を出す。  

私も突飛というよりも、苦し紛れだと思いました。あるいは、名和氏はもっと違うことを言いたいけれど、文章として拙く正しく伝わってないのかなとも思う。

> 840人280組の弾込め係は全体の八分の一しかカバーできない。
> 濃い硝煙が武田軍の進路を隠し、気付いた時には思いもしない箇所を
> 武田軍にせめられていることであろう。  

まさにそのとおりで、しかも武田軍が隊ごとに個別に突撃してこなかった場合をまったく想定していないことにもなる。織田信長ほどの者が、そんな懸けに出ることはないでしょう。

>  これこそ虚構であろう。一重目から二重目にはどのタイミングで、
> どのように下がるのだろうか。  

名和氏はそこまで書いてなかったですよね。
私が小説を書いていて考えたのは、鉄砲隊に関わっていない他の足軽たちは追撃戦になるまで何もしていなかったのかということでした。追撃なんてものは勢いが勝負だから、兵数は特に問題でないはずなのに、信長は三倍ともされる兵数をそろえ、わざわざ武田軍が突撃しにくい材料を揃えている。突撃を誘引したいはずなのに、ちょっと矛盾してるんじゃないかと。

> つまり、一重目をひたすら死守する以外にないのである。

突破された時こそ足軽隊の出番じゃないのでしょうか。
もしくは、一重目の担当部隊は斬り捨て、二重目を担当していた部隊がこれに代わる。鉄砲の数が問題ですが、一万挺あってもおかしくないのであれば、このほうが効率的ではないでしょうか。そうすれば、そうとうな大軍を率いてきた矛盾もなくなるし。でも、射手に技術がいるのなら、それは問題かもしれませんが。

>  そして、武田軍の武将の死についても、「硝煙で前線が見えないから自ら
> 前に出て、弾に当たった」とするが、どうか。

これは採用した私も、「実際はないだろうな」と疑問付きでした。下で久住さんが書いてあるように、退却戦時に命を落としたというのが自然な感じです。
私は、ただ、早い時期に山県昌景が死んでたらどうなったかなというのを書きたかったもので。

> 自分の推理にあわぬから事実ではないと主張するのでは歴史考証にならないではないか。  

これって、小説家はアリですよね? (^_^;)



<こたつ城主 [関東] 2000/04/21(Fri) 13:33>

>久住さま

>掲示板で話された内容をまとめる場所があるといいなあ、

何とか改善したいと思います。ご面倒をおかけして、申し訳ないm(__)m。

>甲斐の虎さま

>だいぶ長いですけど、おつきあいよろしく(笑)

いえいえ、私も、何とか見やすくする方法を考えないと……。 *難問*

>まだいいたいことはあるが、それは次回にする。

次回、待ってます(^^)。



<こたつ城主 [関東] 2000/04/21(Fri) 13:34>

>森田丹波守さま

出て来るのが遅くて、すいません。まとめ(1〜6)、ありがとうございます。助かります。何しろ知識レベルが低いので、今後とも、お助け願いまする〜。m(__)m

>天陽さま

実際には、連載終了してみないと、作者の意図を完全には伝えられないとは思いますが、今まで連載させていただきながら、論議を起こせずに心苦しく思っていました。何もかも「他人のフンドシ」でまことに恐縮ですが、この際、作者の考えも存分に聞かせていただけると、嬉しく思います。

>> 自分の推理にあわぬから事実ではないと主張する
>>のでは歴史考証にならないではないか。
>
>これって、小説家はアリですよね? (^_^;)

描き方ではないでしょうか。たとえば一人称か、三人称でも、それに近いスタイルで「こう感じた」「絶対こうだと思った」という主観的な描き方をし、それに力があれば、読者は「正しい」「間違っている」の判断を離れ、「好き」「嫌い」に分かれてくれると思います。そして、そこが、歴史学と文学の違いなのでは?
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2000/04/21(Fri) 13:35>

題名:「東海乾坤記」について

先日のレスで、表現不足な所があったと思います。名和氏の、「織田・徳川連合側は一兵の死者も出なかった」については、天陽さまから、やや否定的なコメントをいただいております。この辺りは、現段階の連載でも、多少伝わっているとは思いますが……。

どさくさに紛れて、私の勝手な感想を述べさせていただきますと、第9話、戦死まぎわの山県の言葉、個人的に感動しました。



<こたつ城主 [関東] 2000/04/21(Fri) 13:36>

題名:長篠合戦

私も「武田勝頼のHP」における、タンク郎さまや甲斐の虎さまのお話、いつも、「スゴイ〜(゚.゚)」と思いつつ、知識的にまるで追い付かず(^_^;)、字を眺めているだけの時が多いのです。よって、ここで、きちんとまとめる事は出来ませんが、お話の内容は、たいへん興味深く拝見しております。

また、名和氏のお説、本を読んでないのですが、皆様のお話から、うっすらと伝わって来るのが、大変な収穫です(^_^;)。

私が長い間、一番疑問に思ってきた事は、甲斐の虎さまも触れておられますが、織田兵士たちを、信長をはじめ各隊の隊長は、一体どのように訓練して武田騎馬隊と向わせたのか……です。つまり、恐怖心の問題。

いぜん大河ドラマ「信長」で、長篠をやった時、鉄砲隊の一斉射撃は、途中で指揮系統に従わなくなり、迫り来る騎馬隊の前に、てんでに乱れ討ちになってしまう……物凄くリアルな、ゾッとする修羅場として再現されていました。これは、戦場を経験した人間が描くと、どうしてもこうなるのであって、ドラマではこれを、各隊の隊長が声をからし、体を張って、兵士たちを辛うじて止め、何とか収拾をつけた具合に描いていましたが、長時間これを保っていられたとは、とても思えません。

馬防柵をエンエン作るぐらいの土木作業が可能であったのなら、たとえば、兵士の発射位置を高台におき、その外側に柵を張り巡らせれば、騎馬が迫って来ても、高見から落ち付いて射撃できるかもしれませんが、そういう事は難しかったのでしょうか(難しくなくても、一目でわかっちゃいますけどね→武田軍のおびき寄せに失敗するでしょうね)何しろ騎馬の利点は、高所を保てる事ですし、射撃の網をかいくぐって目前に来る騎馬兵に、柵があるとは言え、動揺するなと言われても一介の兵士たち(それも大勢)には無理ではないでしょうか。



<久住さま [関東] 2000/04/21(Fri) 19:57 22/100>

>天陽様

弟子の杉本苑子に「先生、史実と違います」と言われた吉川英治が
「おもしろけりゃ、いいじゃないか」とのたもうたという話、
小説家とは、かくあるべきではないか、とすら、小生、
思っております。もっとも、西洋中世史の教授に「史学概論」の
講義の中で、「司馬遼太郎と学者の論文の違いは何か。
司馬遼太郎は文章がうまい。」とまで言わせた司馬遼太郎も、
一つの理想なのですが。
小説家は頭脳と体力の限りをつくして、面白い話をひねり出す
商売だと思いますから、史実と矛盾しない範囲において、
ぎりぎりまでの「見てきたようなホラ」を吹くのですから、
「面白くなかった」という批判は甘受すべきですが、
「史実と違います」と言われれば、「それがどうした!」
と叱りつけるのが小説家の持すべき節ではないでしょうか。
ああ、自分で自分の墓穴を掘っております。

話変わって、 私見・設楽原合戦
私個人のイメージを述べさせていただきます。
(だって、参加したいんだもん)

私は、信長の戦略構想は、「撤退する相手を大軍で殲滅する」
であったと見ており、武田勢を撤退させるための道具として、
(それも、思い切り深入りさせてから)鉄砲を使ったと考えて
おります。武田勢を深入りさせるための手が「鳶ヶ巣砦攻略」
であり、鉄砲の役割は「敵を寄せ付けない」と「敵の機動力を
削ぐ」だけだったと考えております。そこで、信長の取った
であろう方法は、

「千丁ばかり」の鉄砲は、最前線に一段で集中的に配備。
 高所に配するべきは弓隊でしょう。騎馬隊は迂回攻撃対策と
 追撃用に待機。槍隊が鉄砲の護衛をする。鉄砲隊は、
 一斉射撃の必要なし、ばらばらに撃っていれば、敵を寄せつけ
 ない目的は達せられる。狙いをつける必要もない。馬にあたる
 高さで撃てばよい。ただし、戦闘開始初期において、武田方の
 鉄砲隊を殲滅する必要あり(勝頼は経済力の許す限り、鉄砲を
 重視した人だと考えておりますので)。精兵武田鉄砲隊を数の
 力で圧倒すべく、佐々成政を始めとする鉄砲奉行に指示。
 あとは敵を寄せ付けず馬を撃つだけ。目をつぶっててもいい
 状況。恐怖心も起こりようがないですね。だいたい川を
 挟んでの戦いは、恐怖心が起こらないという点で、防禦側が
 圧倒的に有利になります。(杭瀬川の戦いがまったくそれを
 狙って成功した例です)
 また、数的に劣勢の武田勢をさらに分散させるために、
 野城攻略と関係ない行き止まりに最強の徳川勢を配置し、
 (家康にとっては災難ですが)武田の前線指揮官の把握能力が
 高いことを逆手にとって、弾幕の薄い(しかし、野城攻略には
 何の関係もない)右翼徳川勢に攻略軸の中心を向かわせ、
 やがて気がつけば、兵は疲労困憊し、馬もなく、敵は城の中で
 大量の鉄砲で、てぐすね引いて待っている。長篠城はすでに
 包囲から解放された。いかに優秀な指揮官でも撤退以外の
 選択肢が浮かばない状態を用意しておいて、待ちに待っている
 騎馬隊に、機を見て追撃を指令(そのときには鉄砲隊も槍に
 持ち替えていたでしょう)。
 とまあ、私が考える設楽原合戦の情景はこのようなものです。
 問題点は勝頼の勝機が見出せない点ですが・・・。



<光慶さま [関東] 2000/04/21(Fri) 20:37>

題名:訳も判らず反論

本文を読んでいないので、大きな事は言えませんが、ふと思ったので・・・

>丹波守さま
>確かに煙幕の件は気づきませんでした。武田方が前が見えないなら
>当然鉄砲隊も前は見えない・・・うーん確かにそうですね。
>鉄砲隊の追い風が吹いていて鉄砲隊前の煙は前方に流された・・・
>というのはどうです?

と言うよりも、鉄砲隊の方は別に前が見えなくても困らないような・・・。
敵は突入していた訳だし、ある程度は引きつけていたはずだから、たとえ
途中で退却されたとしても、2・3回撃つまでは射程内にいたと考えられます。
(鉄砲隊は個人に狙いを定めるのではなく、自分の前方にいる敵に、
 撃ち込むのが基本ですから)

>天陽さま
>しかも武田軍が隊ごとに個別に突撃してこなかった場合をまったく
>想定していないことにもなる。
>織田信長ほどの者が、そんな懸けに出ることはないでしょう。

逆に全軍で突撃してきてもらった方が良かったのでは?
(理由は、敵の数が多いほど、メクラ撃ちでも当るから・・・)