<掲示板・議事録>


     
  <こたつ城主 2007/01/22(Mon) 16:35>

題名:「今週のご挨拶とお知らせ」更新

↑しました。他、各議事録類も更新。

過去更新状況
01/06「城主のたわごと1月」(2007年)


>マダム・フセインさま

>>「仁勝寺殿月水宗印居士」
戒名の文字列から解釈できる状況もあるんですね(゚.゚)。「月水宗印」の部分かな?

見たのは「戦国大名系譜人名事典」です。ちょっとした事を調べるのに重宝ですが、絶版なのか取り寄せ不可のようです。だいぶ古い本なので最新の材料は反映されてないでしょうし、さらに残念ながら、上総系の武田氏は全く出てません(^_^;)。
武田氏(本家)を監修・系図作成されてるのは上野晴郎さんで、19年前の大河「武田信玄」の……つまり芝辻さんの前に、大河の時代考証を担当された方ですね(^^ゞ。
戒名が武田内部の史料によるのか、上総の文献や墓碑を調べられたのかはわかりません。

それから、この本にも信長の弟に「宗印(仁勝寺)」は書かれてます(^^ゞ。
ただ芝辻さんの言われる通り、動乱期ゆえの史料の乱れはあったと思いますので、仰る通り、重複記載とかその逆(混同)もあったかもしれません。もしちょっとした記載間違いの向きでしたら、お友達との事ですし、ちょっとご確認頂くのが早道ですね(^^ゞ。

>点(甲斐武田氏)と点(上総守護代)
この事は今でも(今後も)重要だと思います。
例えば上総の久留里城主に勝真勝(すぐろ・しんしょう)という人がいて、よく見掛ける系譜に「武田信長の曾孫」という線が出て来ますが、信長から勝真勝までの系譜が、私の知る限りでも二系統あり、ここまでは上総内部の事として、実はこの人、「信長の兄、甲州武田信重から出た系譜」というのもあるんです(^_^;)。それも複数。

ここまでは「系図ってややこし〜(^^ゞ)」で済むんですが、その混同の原因に「上総に来た武田信長は甲州武田氏と連携して行動してたから」という話もあり、こうなって来ると、山梨県と千葉県の「照らし合い」が逐一必要に思えます。人名は「〜氏」とかボカして単独で書けますが、付帯状況に他地域から来る原因・要素が互いにあるなら、それを無視して地域の単独史を描いても、時代を捉えた事にはならないからです(^_^;)。
また信長が上総に進出したのも、武田氏の所領がもともと房総にあったからとも言われ、信玄家臣の原虎胤が下総原氏の出身だったり、勝頼の弟盛信の子孫も房総に逃げ延びた話があったり、意外と「どこを切っても金太郎」繋がりかも(^_^;)。

>こちらにお出かけのときは仁勝寺にお寄りください。
>小さい寺ですが、太子像見れるように取り計らいますから。

ありがとうございます(^^)。



<マダム・フセインさま 2007/01/22(Mon) 19:06>

>こたつ城主さま
ご丁寧返信大変ありがとうござりまする。
千葉のどこかの寺に墓碑がありました。などというお答えを期待していたのですが、ちょっと落胆。
でも貴重な資料まで知らせて頂き、また疑問がひろがりそうです。そのうち県立図書館でも行って調べてみましょう。
上野氏は方言のことで民放ローカルに出ておられます。
それから、またひとつお願いが生じてしまいましたが、武田信長の菩提寺はご存知ではないでしょうか。
ウィキペディアの記事ですと80歳ほどまで生きたとありました。そこから甲斐に戻ったとは思われませんので千葉在住の城主ならご存知ではないかと。
大変お忙しいなかを度々のお願い申し訳なく候。



<マダム・フセインさま 2007/01/23(Tue) 10:26>

こたつ城主さま

  >それから、またひとつお願いが生じてしまいましたが、武 田信長の菩提寺はご存知ではないでしょうか。

度々の連絡申し訳ありませぬ。上記のコピーは私からのお願いでありましたが、先ほど仁勝寺現住職(我が義弟)に電話で話したところ、「仁勝寺殿月水宗印大居士」なる戒名は寺の履歴を記す「略縁記」に記録されており、寺名を使う戒名は寺の開基にみ許されるものということです。
それから推測するに武田信長と宗印は同一人物の可能性が大きいと考えられます。
また、旧仁勝寺のあった墓地(現在も離れ墓地としてあり)には、ほとんど戒名を判読できないほどの墓石が、幾つか残されており信長の菩提寺となっている可能性が出てきました。
しかし、弟君の戒名とされる「脱空道光居士」というものもあるということです。
そのうち旧仁勝寺墓地も見に行こうと思います。
それから、上野晴郎氏の、「仁勝寺殿月水宗印居士」出自として前住職が歴史研究者に閲覧ないし写しを差し上げており、こののためと思われます。

当寺は、聖徳太子像、武田家ゆかりということもあり、檀徒として非常に興味深くなり探求し始めましたが、ちょっと寒気を感ずるほどに思います。(風邪気味のせいか)
太子像の現存については、20世紀の馬鹿な戦争のため本堂、位牌などは焼失したものの、前住職が運命を共にするつもりで背負って逃げ焼失を免れたとのことです。
上総武田家の始祖の信長が、故郷甲斐に自らの墓とする寺を生前開基していたのかもしれない。
歴史も奥深く感じます。
拙い者ではありますが、これからもよろしくお願い奉り候。



<マダム・フセインさま 2007/01/23(Tue) 16:42>

こたつ城主さま

誤  寺の開基にみ許されるものということです。
正  寺の開基にのみ許されるものということです。

よろしく。



<こたつ城主 2007/01/23(Tue) 17:42>

>マダム・フセインさま

>「仁勝寺殿月水宗印大居士」なる戒名は寺の履歴を記す「略縁記」
>に記録されており、寺名を使う戒名は寺の開基にのみ許されるもの
>弟君の戒名とされる「脱空道光居士」というものもあるということです。
>上野晴郎氏の、「仁勝寺殿月水宗印居士」出自として前住職が歴史
>研究者に閲覧ないし写しを差し上げており、

あ〜そういう事でしたか(^^ゞ。
武田信長の菩提寺は知りません。真里谷武田氏でしたら真如寺というお寺があり、こないだ行ったら信興の墓がありました。なかなかイイ所でしたよ(^^)。
ネット上では医養寺というお寺も出て来て、数基の累代位牌があるようで、他にも関連の寺はあるかもしれませんが、何せ上総武田氏の割拠していた地域はかなりの範囲で、枝分かれも多く、また滅亡した折の戦乱被災もあるでしょうし、それこそ未解明の墓石を探すとなるとかなりのアレですが(そういうの、きっと千葉の方が物凄く多そう(^^;))、場所のわかっておられる所から解明していくのが望ましいと思われます。
 
     

     
  <マダム・フセインさま 2007/01/24(Wed) 00:10>

こたつ城主 さま

>真里谷武田氏でしたら真如寺というお寺があり・・・
>医養寺というお寺も出て来て・・・

真如寺については昨年末立ち上げたばかりのブログがありコメントで伺っています。
医養寺と林泉寺の在ることがわかりました。
ざっと見たところでは、系譜には疑問があるものの信長の菩提寺は仁勝寺という確信を得られたように思います。
1477年死去に際し長子・信高(伊豆千代丸と推測)は遺言により自ら開基した故郷の府中に埋葬したのだと思います。
しかし。信高は3年後に死去、孫の信興が真如寺を開基するまでに発展していったのだと推測しました。
医養寺、林泉寺と武田家ゆかりのHPもあり、大変参考になり有り難くお礼申し上げます。 今後も面白く、また真剣に歴史を楽しんで行きましょう。
小説も少しずつ読ませて頂きます。
住職とも一杯引っ掛けながら話が弾むことと思います。
(住職は大下戸ですが口はうまいので、そう言ってました。ユ−モアたっぷりの人なんです。)
一度お出掛け下さい。



<こたつ城主 2007/01/24(Wed) 18:29>

>マダム・フセインさま

拝見しました。いきなりですがHN「伏院」にしてみるのはどうでしょう?(^^ゞ

@血筋・功績ともに抜群の信長は上総に仁勝寺を建て、子の信高が信長の葬儀をして仁勝寺に葬った。後を追うように亡くなった信高の葬儀を誰が行なうかで揉め、武田家は丁南と真里谷に分裂した。。そこで仁勝寺は信長の故郷である甲府に移って菩提を弔った。

あるいは、

A信高の葬儀を誰が行なうかで丁南と真里谷は揉め「そういやウチのお祖父さん、むかし禅秀の乱か逸見氏との戦いで、一度死んだ事にされたんだっけ」その時に葬儀をした寺は、かつて信長が建てた甲府の仁勝寺だと判った。
仲の良かった祖父と父の遺骨をともに引き取って貰う事で解決を見たが、信高(かつての伊豆千代丸)も甲府では「死んだ事」にされていた。。困った寺では「信長の弟」という事にして「脱空道光居士」と戒名を立て、密かに弔い続けた。

↑こんな感じですかね(^^;)。。伊豆千代丸と信高のお寺も見つかって欲しいです。

>小説も少しずつ読ませて頂きます。
ありがとうございます(^O^)。

>住職とも一杯引っ掛けながら話が弾むことと思います。
宜しくお伝え下さい(^^)。



<マダム・伏印さま 2007/01/24(Wed) 22:22>

「伏院」じゃ尼寺ミテーだからやだよ、で「伏印」と。
たまたまの変換だつたんだけど、「宗印」から一字頂き。

@・・・信長は上総に仁勝寺を建て、・・・
 ここはね・・・信長は府中(今の甲府)巨勢村に仁勝寺を 建て・・・
 <解説>「今の甲府市小瀬町に仁勝寺に建て自らの死後の  菩提寺とした」ですよ。建てたのは伊豆千代丸(信高)  が甲斐守護になる予定のときでしょうね。

  ここはね・・・後を追うように亡くなった信高の葬儀を  誰が行なうかで揉め、・・・
  丁南と真里谷とに分かれたのは信長生存中なんですね。  ただ勢力圏を拡大するために真里谷を信高に任せ、孫の  信興と庁南に移ったと思いますよ。信長生存の20〜3  0年間は順調だとの郷土史家のページにありました。   信長は己が開基の故郷甲斐に眠りたかったと思う。
  それが男のロマンでもあるんですよ。
  それとね「巨勢村」と書きましたが、弟に「巨勢氏」を  継いだ(婿養子)人が系譜に出てきます。
  巨勢氏−小瀬氏、巨勢村-小瀬村−小瀬町(現)だと。
  「脱空道光居士」は、実弟・巨勢氏の戒名だと。
  だから、宗印と信長は戒名からも同一人物だと強く思   う。
Aについてはね、戦国の世だからそんなナイーブじゃないと 思う。各自の感覚で想像するのはいことだけど。
  
>伊豆千代丸と信高のお寺も見つかって欲しいです。
 真里谷武田氏は、教えていただいた真如寺に歴代当主の位 牌と石碑があるらしいです。写真も載ってます。そちらの 郷土史家にも問い合わせ中なんです。
 庁南武田氏は庁南城址付近の大林寺に立派な石碑が何塔も 写ってるページがありました。墓地だけかとおもっていた ら庁南市のページに寺の電話まで載ってました。
 このどちらかに「仁勝寺殿月水宗印大居士」の位牌、石碑
 がなければ仁勝寺に葬られたと確定できるのではと。
 住職の乗り気如何で出かけるかもね。
 最後にはかの柴辻御大に鑑定をお願いするつもりです。

   「信長の野望」というHPで「もう一人の信長」として書 いてる「ごくう」という人がいます。
 でも武田信長は甲斐武田のかなり最初にもう一人います。
 織田信長が三男坊なんですけどね。私も三男坊。
それでは、いずれまた。



<マダム・伏印さま 2007/01/24(Wed) 22:51>

こたつ城主さま

>>ただ勢力圏を拡大するために真里谷を信高に任せ、孫の  信興と庁南に移ったと思いますよ。

の部分は「ただ勢力圏を拡大するために真里谷を孫の信興に任せ、長子信高(伊豆千代丸)と庁南に移ったと思います。」

ここは以上のように訂正します。ウィキペディアより。



<こたつ城主 2007/01/25(Thu) 19:35>

>マダム・伏印さま

まず「ご自分のHPを作って下さい」。スグには難しいかもしれませんが、そちらの掲示板で話せる時を待ってます。

どこが菩提寺でも構いません。ただその理由づけが一方的だと重苦しいです。
伊豆千代丸と信高が同一の場合、信長の親心は歴史的に見ても珍しい類かと思います。
継承のゴタゴタから、結局は同族同士の揉め事になるのがオチな時代、子のために外に出てって国を作ったのだから、もしかしたらこれ以上無い美談と言えるかもしれません。

それを大変な時期に子孫を見放して、自分一個の感傷で故郷に帰りたがるとは、ちょっと思いにくかったです(政治的判断が働いて、というのならまた話は別ですが)。
自分を追い出した故郷に戻りたがる心境もよく判りません。
また「先祖の墓が先祖の地に残って、子孫が行った地にはそこに新たな系譜の墓がある」という事はよくあると思いますが、このパターンはそれとは違いますよね。
信長は上総で成功してます。「故郷に帰らねばならない悲哀」みたいな話に今すぐ乗れと言われても、多少の抵抗感があるのはやむを無いと思います。

また一般的な遺族感情としても「母国で戒名も納骨も済ませたから、自国には何も残らなくていい」とはなりにくいと思います。それは分骨されたり房総内にも他に墓が建てられた、と考えればいい事を、「他に無ければ」と仰ると「唯一無比」って発想に聞こえます。

>丁南と真里谷とに分かれたのは信長生存中なんですね。
そうです。それに二つが揉めたって話も知らないです(あるかもしれないけど)。違和感を覚えたので「事情がある場合に限り」と消極的に受け答えました。
前回も書いた通り、信長は血筋も功績もかなりの人物です。増してや大領国の開始者です。子孫が継承権を争奪しあう可能性の高いパターンかもしれません。特殊な事情が当時の房総にはあった気もしますし、未然に問題を防ぐため他国に菩提寺を定めた、とかいう事ならあるかもしれません。継承に関しては異常の連発した時代ですから。

最初いらした時に言い掛けたのですが、信長が戦死とされたとか、伊豆千代丸も甲府では死亡、千葉では信高と、説が分かれるって話がありますね? 信長は保留として信興以降がハッキリしてるとなると、残るは信高だけですよね?

>「脱空道光居士」は、実弟・巨勢氏の戒名だと。
信高の可能性はナイという事ですね。これは解りました。
あと宗因は重複としても(否定はしてないですよ(^_^;))、信長の強さと繁殖力を見ると、親類や家族郎党を大勢つれてった線は外せず、林泉寺はその辺り匂わせてますが、仁勝寺の開設時期っていつですか? 上総から来た線は100%ナシですね?

>建てたのは伊豆千代丸(信高)が甲斐守護になる予定のときでしょうね。
と伏印さまが思ってる、という事ですか?

>住職の乗り気如何で出かけるかもね。
ぜひお出掛け下さい(^^)。

>最後にはかの柴辻御大に鑑定をお願いするつもりです。
必須かと(^_^;)。。

丁南武田の城と大林寺については把握してません。ありがとうございました。
 
     



ホーム