<掲示板・議事録>


     
  <マダム・フセインさま 2007/01/18(Thu) 09:55>

初めての投稿です。失礼の段はお許しお願い致します。
鎌倉時代の作とされる聖徳太子立像(国・重要文化財)を安置している山梨県甲府市小瀬町の仁勝寺の建基由来を知りたく質問致します。
聖徳太子像説明板等によると武田家10代守護信満の次男信長(上総守護代)が開いたとされています。
武田氏系図に三男として信義、あるいは「宗印(仁勝寺)、あるいは(仁勝寺氏)」という記述が見られるものがあります。
このことは何を意味しているのかご存知の方がおられましたら教えて下さい。
私の推理では、信長が何かの理由により弟・信義を出家させるために開基したのではないかと思うのですが。



<こたつ城主 2007/01/18(Thu) 19:26>

>マダム・フセインさま

>失礼の段
一瞬そう思ったんですが、続きが意外と面白かったです。
確かに系譜に「仁勝寺」とありますが、寺の存在は知らなかったので(今度行こっと♪)。
あとざっと見た限り、ネット上でもお書きの情報以上の事は出て来ませんし。

>信長が何かの理由により弟・信義を出家させるために開基
普通なら「兄が作った寺を(病弱とかの事情で)弟が継いだのかな」で片付きそうですが、実は信長については、もちろん元は本家の動乱が原因でしょうが、その子、伊豆千代丸の家督相続が成らず上総に流れて来た、という記述も見掛けた事があります。

当内関連
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2002/tawagoto-08.htm<久留里城>
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2006/tawagoto-01.htm<宗英寺>
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2006/tawagoto-08.htm<里見公園(国府台城跡)> http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/isawa/report/2005/01.htm<法城山、観音寺><流浪の甲斐守護、武田信重><六角山、成就院>



<たみいさま 2007/01/18(Thu) 22:05>

ちょっと横から、(^_^;)。
武田信長、思い起こせば懐かしいですよね、この名前。
こちらで最初に目にした時には、「なによ、これ」、って思いましたもの。 なんせ、忘れられない名前でした。
あまり、性格は良くなかったような、(?)、と言うご意見が出たような記憶があるんですけどね、(不確か)。

当内関連、のところで、
久留里城のところだけは見れましたが、
あとの3つが、「見当たりません」、と出るのは、
何故でしょうか、私だけ?。



<マダム・フセインさま 2007/01/18(Thu) 23:45>

早速2通もの反応アリガトウです。
「こたつ城主殿」のHPには呆れる程退屈しませんでした。
まだお若いのに溢れる出る才気と夫妻の仲の良さとに。
また、ゆっくりと見させていただきます。
年も年だからゆっくりしておれないかも。
仁勝寺にて眠りにつくかもしれないから。
それはさておき、信玄より大分前のことだから古文書も少ないんでしょうね。お寺さんに有った様なんだけど米軍の空襲で焼けて仕舞ったような話を聞いたような気がします。
信長は次男でもあり暴れん坊とのこと昔からの相場なんですね。しかし、推測通りなら武田家ゆかりの寺ということになりますね。
ただ、重文の聖徳太子立像は甲斐源氏当時からの武田家の家宝だったのを勝頼主従が向嶽寺末寺であり、その檀家の家に隠すように託していったのだということを聞いています。
ご開帳は4月の第一日曜とネット上に出ていました。
立派な六角太子堂で施錠されています。
先月、山梨県立博物館の仏像展では展示されたのですがね。
「たみい」さんと同じくうしろ3つが不可でしたが、最後の「<」が邪魔をしていました。コピーしてそれを取りどこかのHPでアドレスに貼り付けると出てきました。
歴史にはあまり興味がなく大河ドラマも戦のシーンがドーモでしたが「風林火山」は見てしまいそそうです。
これからは武田家のファンになろうかな。
皆様今後ともよろしくお願い致します。長くてゴメン。



<こたつ城主 2007/01/19(Fri) 20:27>

>たみい様

実は去年の秋いきなり真里谷に行ったんです(^^ゞ。温泉目当てもあり。
夕方に着いて、城まで見る余裕は無かったのですが、武田氏の墓参りはしました。いやっ、ちょっと感慨でしたわ!
そうそう武田信長、最初は笑いましたよね(笑)。懐かしい〜。
性格は……「物凄いヤリ手」という感じはしますねパワフルってか。
あと「神話と史実の結び目にいる人」みたいな感じかなぁ?自分的には。

>あとの3つが、「見当たりません」、と出るのは、
ごめんなさい! かなり後で気付いたのですが「明日〜」と思っちゃって。。
マダムさんの仰る通りなんですが、たみい様にはもう読んで頂いてるので……
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/tiba-doran.htm
国府台と今度の臼井のを書いた時、時系列を整理してる内にデキ(^^ゞ。


>マダム・フセインさま

いえ(^^ゞ若くもないし頭もアレですが(笑)、夫婦で出掛けられるのは凄く助かってます。

どうやら甲府あたり地元の方なんですね。
空襲でって事は、仁勝寺に聞いても詳細を得るのは難しそうですね。あと、

>甲斐源氏当時からの武田家の家宝だったのを勝頼主従が
念のため穿ってみると、仰せの信長より9代遡った武田家にも「父信光−子信長」の組合せがあり、そのさらに上が「信義」で、この信義は源頼朝に仕えてますが、これとは違うんですよね(^^ゞ。鎌倉時代の作というので、ちょっとね……。
と言うのは、上総にいった室町時代の信長の弟「仁勝寺」が「信義」という俗名だった事を、私は初めて聞くものですから。
ただ、他にも「信満の次男・信長が開祖」と出て来るサイトはあり、鎌倉期の信長は「六郎」で「仁勝寺」とは書かれてないので違うでしょう。ただこっちの信長の兄は当主にして五男なんです(^^ゞ。「次男」が「当主の次弟」という意味だったら紛らわしい事に(^^;)。。

>推測通りなら武田家ゆかりの寺ということになりますね。
とは思いますけど(^^ゞ。系譜の何代目であろうと武田は武田ですから。
出来れば上総系の武田氏と関係あって欲しいですね、千葉県人としては(笑)。
信玄の三男が上総に渡って血筋を残した、とも伝わってますから、甲府と上総は何重か縁が深いのかもしれません。

>最後の「<」が邪魔を
そうそう、ありがとうございました(^^)。仁勝寺の太子像の関連情報も。
風林火山は目が離せない展開になって来ましたね。次も楽しみ。
 
     

     
  <マダム・フセインさま 2007/01/19(Fri) 22:48>

>>こたつ城主さま
@「信満の子としては、信重のほか信義(仁勝寺氏)・信泰(江草氏)・信景(今井氏)・信賢(巨勢氏)・信広(倉科氏)・信安(山宮氏)らを上げているものもあるが、内乱期という状況もあって信頼性はうすい。」
とここまでは、「風林火山」の時代考証を担当している「柴辻俊六」氏のHPの中の叙述です。(この人は小・中の同級生)あの悪ガキが文学博士なんすよ。世の中そんなモノ。
あの頃信玄提で守られた釜無川で泳いでました。私は今も贅沢にも信玄提の上を毎日散歩しています。
今はこっちが悪爺。
閑話休題。
で、柴辻氏は古文書学が専門で不確かなことは言えない立場にあるようで、史実に忠実な方なんです。

A確かに九代前に信光がおりますが、太子像はまだまだ前に京の朝廷からその頃の甲斐守護の甲斐源氏某(後の武田氏)に下賜された。、甲府盆地の南部に源氏山というのがありましてここに甲斐源氏(後の武田氏)城郭があったのだということです。その頃が始まりのことですから鎌倉期なんです。
略縁記なる古文書の版木による写しがあり。そのように記録してあるとのことです。
とここまでと前メールの話が仁勝寺の室(実は拙者の実妹)の話なんです。

Bそれで今年の大河ドラマが武田家家臣のことと。というわけで好きでもなかった歴史にちょっとはまりそうになっているわけです。
柴辻氏に聞いたところ、仏像に関してはその寺にも何度か行ったけれど古文書がないので解らないそうです。
何を書いているのか自分でも解らなくなってきそうですが前メールも含めて理解して下さい。

Cその後検索で、そのお寺の開基は信長、上人さまは宗印(信義)ではなく本職の僧でした。名前ちょっと今無理。
だから、何かの事情で宗印はオーナーってことかな。

誤字脱字はご勘弁の程を。ちょっと老眼なんです。



<マダム・フセインさま 2007/01/19(Fri) 23:46>

>>こたつ城主さま
【寺院名】鳳堂山 仁勝寺(にんしょうじ)

--------------------------------------------------------------------------------
【宗派名】臨済宗向嶽寺派 一等地
【別名】
【住所】山梨県甲府市小瀬町406
【本尊】聖徳太子
【開山】一音西堂禅師
【開基】武田右馬助信長
【由緒】仁勝寺は、室町時代、武田信満の次男・武田右馬助信長を開基とし、一音西堂禅師を開山として創立された。現在は、臨済宗向岳寺派末寺の禅宗寺院で、本尊は、木造聖徳太子立像である。この尊像は16才像で御孝養像と俗称され、太子伝に「天皇病み太子衣帯をとかず、日夜看病し給う。香炉を持してひたすら祈る」と伝えられており、おそらくその姿をかたどって造像されたものであろう。聖徳太子に対する信仰は、古くから発生し、長期間にわたるので、その造像の種類は多い。しかし主要なものを大別すると、南無仏像(幼年期の姿)、孝養像(少年期)、摂政像(壮年期)の三種類となる。本像は、このうち孝養像に属するのであり、16才の太子像にふさわしく写実的な堂々たる姿は、いかにも鎌倉時代様式を思わせるに充分である。
【寺宝】聖徳太子立像/その他多数あり
・・・・・・・
というわけで見つかりましたが、信義--宗印(仁勝寺)については依然として未解明です。
何故この寺に太子像があるのかという疑問が残りますが、略縁記によると勝頼主従が逃れる際にこの寺の檀家である中澤家に託したのだとのことです。
織田方から悟られぬようにお寺に直接持ち込まなかったということと推察されます。
それではお休みなさい。



<マダム・フセインさま 2007/01/20(Sat) 00:02>

聖 徳 太 子 像
 国の重要文化財に指定されている木造聖徳太子立像が仁勝寺(にんしょうじ)にあります。16歳のときの聖徳太子を彫ったもので、高さは約115cm。鎌倉時代製作と見られ、京都から移されたものだといわれています。
 近くで見せていただくと、口には紅が、体の表面には彩色がわずかに残り、当時のきらびやかさが伝わってきます。特に、袈裟の部分には細い金をつかった切金の技法で描かれた鳳凰が。間近に見られて感激しました!


※小瀬には昔、仁勝寺、東光院、浄福寺、玉田(伝)寺、
善福寺という5つのお寺があり、のちにそれらが1つに
なって、仁勝寺になりました。現在の仁勝寺があるのは
東光院があった場所で、もともと仁勝寺があった場所
には墓地が残っています
 仁勝寺の境内に、ちょうど満開の菩提樹がありました。その香りの良さにびっくり!ご住職から、菩提樹の丸い実が数珠になると聞いてさらにびっくりしました。これは星月菩提樹という種類だそうです。

・・・・・・・・
ご覧済みかもしれませんが、こんな現住職からの甲府市広報レポーターへ解説がありました。
確かに小さな離れ墓地があります、そうだと宗印は何かの事情で「墓守だった()ま、オーナーとも」という推理はどうでしょう。
玉田寺跡もあり、石碑が何柱かあります。ですがここは信玄の娘の尼寺だったような記事がありました。
また調べておきます。
それではネマーース。



<こたつ城主 2007/01/20(Sat) 21:15>

題名:明日おらぬです〜

↑毎度(^^ゞ。


>マダム・フセインさま

>信義(仁勝寺氏)
↑で見付かりました。ちょっと検索方法が違うと出て来ないものですね。ヒットが多くても全部は見れませんし……。で、これですね↓
武田一族の基礎知識:http://www2u.biglobe.ne.jp/~shiba/n32.htm
(「芝辻俊六のホームページ」:http://www2u.biglobe.ne.jp/~shiba/より)
見た事ある(゚.゚)。連絡できるようなので、直接お聞きになられてはどうでしょう。
でも……信長が抜かれてますね。。(もしかして系譜に疑問点があるのかな)

>柴辻氏に聞いたところ、仏像に関してはその寺にも何度か行った
>けれど古文書がないので解らないそうです。
あ、もう聞いてるんだ(^_^;)。

>何を書いているのか自分でも解らなくなってきそうですが
いやいや、私は伺って良かったので(笑)。
そうですね……ん〜。ま、「出家させるため」と限定してしまうとアレですが、兄が建てた寺を、弟が出家して、名なり職なりを引き継ぐという辺りまでは、そう不自然でない推測だと思いますよ(^^ゞ。
信長が親族に任せたのか、信長が上総に本拠を移したので弟が兄が興した寺を守ったのか、いずれ「特殊な事情」って感じはしますね、やはり大変な時でしたから。

>宗印はオーナーってことかな
>一音西堂禅師を開山として
色々考えられそうですが、守護ぐらいの男子になると、事情あって僧侶になるとしても、最初から寺を建てて貰ってそこに入るのではなく、京周辺とかの大きいとか名の通ったとか、そういうお寺(比叡山とか(^^ゞ)に行くなり、かなり修行を積んでから改めて帰国して、それからって事にはなるかな〜と。
ただ本当に逼迫してた時なので、そういうゆとりある発想になったかは掴みかねますが。

次に、仁勝寺「氏」というのも初見ですが、逆に実は最初が僧侶かその縁の養子か何かで、後に還俗して氏を名乗ったのかな〜、なんて考えてみたりもしましたが(笑)。
長兄信重の高野山剃髪に連座、て事もありえますし、信長は京の足利義教と懇意の時期もあったようですから、その関連もあるかもしれません。何しろ父は自刃、長兄は不在、信長が一人で切り盛りしてた時もあったでしょうから(^^;)。 *一つ屋根の下状態*

>信義--宗印(仁勝寺)については依然として未解明です
あ、それはもういいです(^^ゞ。その名で通ってるソースを確認させて頂きましたので。
あと上総初代の信長は、よく見たら「仁勝寺殿月水宗印居士」ともあります。

>何故この寺に太子像があるのかという疑問が残りますが、
いや、それももう(^^ゞ。九代前(鎌倉期)との混同ではなさそうなので。
新しく出来たお寺に古来からの家宝を安置するのはよくある事で、木造は火に弱く、その時期は特に、家宝を持ち出すのが精一杯なんて状況があっても不思議じゃないです。

って事は……室町期の上総の信長に決定ねっ!(≧▽≦)←ヌカでない事を祈る。。

>※小瀬には昔、仁勝寺、東光院、浄福寺、玉田(伝)寺、善福寺
>という5つのお寺があり、のちにそれらが1つになって、仁勝寺に
これはまた色んな時代を想像させますね〜。φ(。。)mメモメモ。

>好きでもなかった歴史にちょっとはまりそうに
千葉の戦国史はややこしいかもしれませんが、それだけハッキリ上総の信長ゆかりの寺となると、少なくても妹さんは逃げられませんね(^_^;)。
でもいっそ、好きでない方のほうが余計な煩悩なくスンナリ入れるかも?(爆)



<マダム・フセインさま 2007/01/20(Sat) 22:27>

こたつ城主さま

>あと上総初代の信長は、よく見たら「仁勝寺殿月水宗印居 士」ともあります。

あっ、いろんな角度からの解釈アリです。
上の記述は、またお初ですね。「よく見たら」とは何を見たらなんでしょう。
上総守護代信長の戒名なんですか。
とすれば生前に自分の墓を造っておくという類なんですかね。自分を祭らせる寺を生まれ故郷に作って置いた。
だけど、このこと話、不思議に点(甲斐武田氏)と点(上総守護代)繋がってますね。
「仁勝寺殿月水宗印居士」このこと、おヒマなときにお返事お待ちしております。これが明白になったら武田研究会に入って一つ論文でもかましてやろうかななんて思ったりして。

それと太子像のことですが、勝頼主従が逃れるときに仁勝寺檀家の中澤家に託したというのは本当らしいですよ。
寺の履歴を記す略縁記に確かに書いてあり、写しを所持しているとのことです。墓参のときに見せてもらいますよ。
これ、もう書きましたよね。
それではいずれまた。

サダム・フセインって織田信長みたいで格好いいじゃないですか。一般受けはしないかもしれないけど。
ヒットラーじゃやり過ぎですからね。
それでもじって借りました。

明日は史跡めぐりですか。
こちらにお出かけのときは仁勝寺にお寄りください。
小さい寺ですが、太子像見れるように取り計らいますから。



<マダム・フセインさま 2007/01/21(Sun) 23:03>

こたつ城主さま
留守中に失礼しますが、下記の文は柴辻氏の記述コピーですが、どうも「・・・信重のほか信義(仁勝寺氏)・・・」の
信義は信長の柴辻氏の書き間違いの可能性が大きいですね。
城主の指摘のように信長が抜けており、その実在は以後の史実から確かなとであり「信長-仁勝寺−宗印」が同一人物と思うようになり侯。
甲斐に居た若いときに仁勝寺を創建し自ら出家した際の法名を作って置いたのだが、上杉禅秀の乱、伊豆千代丸の守護相続ならずの件などから、甲斐国内に居られず上総にて出世の道を探り、守護代をも勤め、真里谷城をも創建したという辣腕ぶりにより上総武田家の始祖となった。
というストーリーではないでしょうか。
故に「仁勝寺殿月水宗印居士」なる戒名で上総の何処かに埋葬されたのだという推測が生まれました。
で、是非この戒名の出自を教えて下され。
よろしくお願い申す。

・・・・・・・・・・・

「@「信満の子としては、信重のほか信義(仁勝寺氏)・信泰(江草氏)・信景(今井氏)・信賢(巨勢氏)・信広(倉科氏)・信安(山宮氏)らを上げているものもあるが、内乱期という状況もあって信頼性はうすい。」
 
     



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