<掲示板・議事録>


     
  <とめ@伊達男さま [関東] 2004/10/24(Sun) 00:36>

伊達政宗の乱
そんなに詳しくないですよ(苦笑)
色々な事情が複雑に絡み合ってますが・・
根っ子にあるのは幕府と鎌倉府の対立だと思われます。
政宗(儀山)室の善法寺通清女は足利義満の生母の妹であることから、政宗の後ろ盾として幕府があったと思われます。
また、この時期には奥州探題大崎氏が衰退しており、鎌倉府の奥州支配強化の為に足利満兼は、足利満貞を岩瀬郡稲村に、足利満直を安積郡篠川に下向させています。
下向にさいし鎌倉府は伊達、白川両氏に所領の一部を割譲するよう命じた事が伊達政宗の乱の要因になってます。
伊達政宗が3回、孫の伊達持宗が1回、鎌倉府や稲村・篠川両御所に対し挙兵していますが、上杉禅秀や畠山修理大夫により阻まれています。
政宗(儀山)を阻んだ上杉禅秀も鎌倉府に対し反旗を翻す事になるのですから、幕府側の暗躍ぶりが感じられると思います。



<こたつ城主 [関東] 2004/10/25(Mon) 18:50>

>とめ@伊達男さま

お詳しいですよっ(笑)。
9代政宗は足利義満の生母の妹を正室にしてるんですね(゚.゚)。
そっか。奥州探題なんちゅうのがありましたね(^^ゞ。しかし鎌倉府というのは、奥州に人を派遣させる権限を持ってたのですね。その条件に所領の割譲を命じるなんてのも、権限の内ではあったんでしょうか。。
それが鎌倉府の独走で幕府の知る所でなかったのか、伊達氏が奥さんの実家に「割譲は取り消して欲しい」と泣きついて悶着が始まったのか、という辺りでしょうかね。
上杉氏はこの頃はまだ鎌倉府の指揮系統にあったのですよね。そうそう、禅秀の乱で「堪忍袋の緒が切れた〜」になるまでは(笑)。

>幕府側の暗躍ぶりが感じられると思います。

この「暗躍」というのが興味ありますね(笑)。



<ヒロ男爵さま [関東] 2004/10/26(Tue) 21:14>

「関東の動乱」・・・・。小弓御所の時代にも興味を持ち始めましたが、やはり古河公方と太田道灌が絡む時代が面白いです。特に古河公方方の武田信長をもっと知りたいですね。
 太田道灌が出現し始めたときに、武田信長がかなり活躍していたみたいです。ひょっとして一度くらいは直接対決していたのかな?とも期待してます。



<こたつ城主 [関東] 2004/10/27(Wed) 18:47>

>ヒロ男爵さま

ヒロ男爵さまの所のも、ソロソロと大田道灌の時代に近づいてます(^^)。
時代背景が今イチ飲み込めてないから時間かかるけど、こたつも武田信長にはグッと惹きつけられました♪
敵になった、味方になった、が本によってブレがある感じがしてて、ただ今までは、それを指摘するほど人名と時間軸が頭に入ってなかったんで、話が出来る人が居ると(記憶に残りやすいから)嬉しいです(^^)。



<ヒロ男爵さま [関東] 2004/10/28(Thu) 20:54>

武田信長について少しだけ調べたら、こたつさんが言っていた記述とほぼ同じことが書いてありました。
 上杉禅秀の乱で幕府に敗れてからは、結城合戦までは幕府側で活躍していた。
 その後は、古河公方との戦いで捕まってその器量を惜しまれて古河公方側になったのかな?? 以前に持氏に仕えて鎌倉にいたことがあるから古河公方とは親密だったのかな?とかいろいろ想像してしまいます。

 私のところの 「享徳の乱」で、成氏が蜂起する直前に、太田道真と長尾景信が、成氏をけん制して鎌倉を攻めた「江ノ島合戦」というのが記述していませんでした。この後に、成氏が蜂起して「享徳の乱」が始まるようです。
 いろいろこの時代が見えてきました(笑)



<河内太夫判官さま [四国] 2004/10/29(Fri) 00:57>

をを、すっかり御無沙汰してしまって(^^ゞ。何か台風お見舞いをするか地震お見舞いをするか、混乱してました。まぁ今年はえらい年になってしまいましたねぇ(泣)。あと2ヶ月ほどですが、もう何も起こらんで欲しいですね。

>ああも強烈な反乱分子が出る理由は実の所よく判らない
はい、何かもう必死でしょう(笑)?持氏なんて血まで出して願文書いてるんですから。何でそこまで……やはり将門の仕業でしょうか(^o^;。「歴動」で、足利義教vs持氏なんてやってくれんもんでしょうかなぁ。天皇制タブーとは関係ないんだし。

>要するに目付けの上杉が口うるさかった
しかしその上杉からして一時期は南朝におりました。ぬぅ、南朝の内実を知られてしまったと見えます。つまりは頼りにならん(爆)。

>何らか独立への期待が高かったのかなとか。
結局、「上杉vs反上杉」の道具やったんかな、と思えたりするんですけどね。独立というよりかは京都の将軍を倒す、って方にこだわってるようですし。ひょっとして義家の置文・家時の願文を関東公方が持ってたのでしょうか(・・;)。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/10/29(Fri) 17:51>

>ヒロ男爵さま

私もお陰様で、いい加減に見逃してたコトが、だんだん頭に入って来ました(^^ゞ。
武田信長の生年が今いちハッキリしませんが、そもそも武田信長の父、甲斐の武田信満は自分の娘(武田信長の姉か妹)を上杉禅秀に嫁がせてるんですね。
だから上杉禅秀の乱(1416)では、武田信満は禅秀に味方し鎌倉府の持氏と敵対したけど、東国じゅう巻き込んでの騒乱に幕府も立ち上がったため、鎮圧されると(^^ゞ。
その翌年(1417)武田信満も持氏に攻められ、甲斐の山奥で自決。

武田領は逸見氏に与えられ、信長は旧領を取り戻すべく逸見氏と戦うが、やはり持氏に攻め込まれて負け鎌倉府に一度降参するので、持氏との縁は取りあえずここであるにはありますね(^^ゞ。
でも自領が無いのは相変わらずだから(笑)、武田信長は跡部氏と戦い、やっぱり負け、京の将軍足利義教を頼り、各地で戦功をあげてやっと侍大将に。

一方鎌倉の持氏は、何かにつけて幕府に反抗するようになり(笑)、「永享の乱」(1435年)で負けて下野に落ち延び結城に匿われたが、この結城が「結城合戦」(1440年)で幕府に反乱。
幕府はこれを鎮圧すると、管領上杉にとりあえず関東を任せ、京に保護してた持氏の子、成氏を鎌倉府に任じるが、成氏は父を殺したのが幕府と上杉だと知って、やっぱり反抗して古河に行き「古河公方」になってしまうと(笑)。この辺りは、ヒロ男爵さまの所で勉強しました(#^.^#)。

この頃の武田信長は将軍側ではないかと。その信長が成氏についたのがハッキリするのが、「享徳の大乱」(1454)のような……。

>以前に持氏に仕えて鎌倉にいたことがあるから古河公方とは親密だったのかな?

私も想像になりますが、成氏(古河公方)の幕府への反乱動機が「父の仇」である以上、武田信長も成氏の父持氏に何らか恩義を感じてた、という事ならあるかな。。ちなみに成氏は1431年生まれです。
太田はもちろん、景春の前の長尾はまだ上杉側ですから、彼らが足利成氏の鎌倉を攻めたなら、信長が「享徳の大乱」(1454)から成氏の傘下に入る理由も符号しますね。
今度は「享徳の大乱」(1454)に至る、その「江ノ島合戦」を知りたくなります(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2004/10/29(Fri) 17:55>

>河内太夫判官さま

>しかしその上杉からして一時期は南朝におりました。
それで(負け組だから)すご〜く頑張る必要があったのかな(笑)。

>独立というよりかは京都の将軍を倒す、って方にこだわってるようですし。
これを又、東国の武田とか結城とかがよぉ助ける(^^;)。。



<ヒロ男爵さま [関東] 2004/10/29(Fri) 19:58>

私も こたつ城主さんのお陰で、室町末期の関東の動乱が鮮明に理解出来て来ました。
 武田信長について、なんかのサイトで古河公方が甲斐に攻めたときに 信長の器量を惜しんで家臣にしたと書いてありましたが、ひょっとしてそのサイトの方が持氏と古河公方を間違って記述したのでしょうかね?
 でもどちらにしても、そのあたりで古河公方と武田信長との接点があったような気がします。

 あと私のサイトにもうひとりの「男爵」さんが書き込みしてます。 おそらくこたつさんは勘違いされていたみたいですが(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/10/30(Sat) 17:38>

>ヒロ男爵さま

私もそちらで「若い信長の器量を惜しみ」と聞いてから、どうも信長より成氏の方が相当若い事がわかり、「成氏×→持氏〇の記述ミス?」とも思ったのですが、成氏も享徳の大乱で23歳ですから、その前に何らか対戦してればギリギリありかな?とも思えますし、ちょっと何とも言えないですね(^^ゞ。

>もうひとりの「男爵」さんが

あらっ。これは失礼。後で参りましょうね(笑)。



<ヒロ男爵さま [関東] 2004/10/30(Sat) 20:48>

成氏も享徳の大乱で23歳ですから>
 そうなんですか?太田道灌も22歳ですね。同年代なんですね。長尾景春は、道灌より12歳年下だから10歳!
  武田信長の生年月日が図書館の資料見ても不明なのでその辺を知りたいです。



<こたつ城主 [関東] 2004/11/01(Mon) 20:13>

>ヒロ男爵さま

そっか(゚.゚)。道灌より一個上なだけなんですねっ。ちょっとそう捉えると、また面白いかも。じゃ武田信長とは半世代ぐらいズレがあるのかな?
ちなみに里見義真が武田信長の娘を妻にしてるようですよ。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/11/04(Thu) 19:23>

題名:石神井公園(石神井城跡)に行って来ました〜。

↑昨日です(^^)。
今週に入ってから行けそうな気配になったので、亭主や雅之介さまと一緒に♪
この日はイベント用に、日頃は見られないお城の遺構の内部にも入れ、本当はパネル展というお話だったんですが、行ってみたら、係の人が少人数単位を相手に、お城巡りのコース案内をしてくれる事を雅之介さまが教えてくれたので、「どうする? 行ってみようか♪」なんちゅう事になって、ゾロゾロついて行っちゃいましたっ(笑)。

ちゃんと地図が作成されてて、それを見ながら公園内部の堀の跡(歩道)や、各施設跡の盛土など見ながら、やがて住宅地に出て、今はすっかり家の建ち並んだ道路を「ここにはお城のあった頃は堀があって」などと説明されながら歩きました。
石神井城は東京都練馬区にある、豊島泰経(?〜1477)の城のですが、やがて坂道の向こうに、太田道灌が石神井城を攻めて来た時に陣を構えた高台の林が見え、あの住宅密集地の大都会の中を、肉眼でハッキリと至近距離に「昔はあそこに道灌が」と確認すると、思わず「え! あそこ?」とか素っ頓狂な声が出てしまいました(笑)。

その後は再び公園に戻り、既にパネル展は終わってましたが、ちゃっかりパンフを頂いて内部の遺構も見学し、氷川神社を参詣したり、近くのお店で焼き団子を食ったり(笑)、図書館の郷土史料を見学しました。
ここんとこジワジワと忙しくなって来て、あまり外にも出られなかったので、久々になかなか良いお散歩コースでありました(^^)。



<ヒロ男爵さま [関東] 2004/11/04(Thu) 21:36>

築土神社。
面白いページを発見。
http://www.tsukudo.jp/hito-doukan.html
太田道灌が江戸城を造るときに、将門の霊を勧請して津久戸明神(田安明神)を建立した。
太田道灌と平将門の意外な接点ですね!!!

将門って 怨霊が有名ですが、実際は武士の鑑的な人物だったようですよね。



<雅之介さま [関東] 2004/11/04(Thu) 23:53>

こたつ城主さま

昨日は大変お世話様でございました(ぺこり)

>お城巡りのコース案内

実は、何度か僕も石神井城址を訪問してるんですけど、
堀跡や櫓跡の所在は初めて知ったので興味深々でした。

それに関連して、小話を・・・・
この石神井城は照姫伝説を始め、色々な伝承がありますが、
豊島泰経(城主)は、農民に化けた太田軍の兵士により闇討ちされ、城主不在の石神井城へ鎌倉街道を南下して援軍に赴く軍勢と小石川みち(石神井みち)を西に向かう道灌いる城攻隊が交わって戦端を開いた場所が江古田原の合戦だったとか。詳しくは某のHPにて後日UPしたいと思います!



<こたつ城主 [関東] 2004/11/05(Fri) 20:04>

>ヒロ男爵さま

江戸城の北西。あ、何か前にパンフレット類で見たような?
で、神田明神の前身と言いますか、結構将門にまつわる東京の史跡(神社)の類って、かなり太田道灌が関わってる事績が多いですよね。
と言うか、東京の歴史って、だいたい太田道灌から書かれてるんですよね(^^ゞ。
その後の徳川家康と言い、後で来た支配者の崇拝を受けたってトコはスゴイです。


>雅之介さま

こちらこそ楽しかったです〜(#^.^#)。お団子が美味しかったですね(爆)。

そうそう、私も石神井公園ってだけでかなり広さがあるから、住宅地の奥深くまで案内して貰えるとは全く予想してなかったです!

鎌倉街道……むむ、どこだろ。石神井に南下して来ると言うと、千葉が北に割拠して挟み撃ちでしたっけ。
合戦は、道灌が東の平塚城を南から攻め、平塚の豊島泰明から連絡を受けた泰経が西の石神井を出て、道灌留守の南の江戸城を攻めようとしたので、道灌が平塚は放火だけで引きあげ、南下する泰経と江古田沼袋で遭遇、というのが定番ですが、泰明からの連絡ではなく、道灌のおびき寄せだったという伝承のようですね。
う〜ん伝承も色々あるんですね〜!(^O^)



<とめ@伊達男さま [関東] 2004/11/06(Sat) 01:08>

>こたつ城主さま
そう言えば昨年「新選組!」は群像劇として書きたいって三谷さんも言ってましたね。
「一代記」ではなく「群像劇」としての大河が成り立つのであれば、そのうち室町期の関東動乱辺りを描いてくれると良いのですが・・無理かな?元ネタになりそうな小説も無いし(苦笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/11/06(Sat) 18:14>

>とめ@伊達男さま

「新撰組!」は、そうそう(^^)、「大河で群像劇を」という三谷さんの夢が適った番組だそうで、近藤勇のことを調べたら、水滸伝や三国志(これも群像劇ですね)が好きだった事がわかったなんて話をしてましたね。
関東の動乱については、誰を主人公にするかが難しいですが、知名度の高い太田道灌では、もう一つ動乱の全容が出ないし、足利持氏・成氏親子が出来ればいいのですが……。
 
     



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