<掲示板・議事録>


     
  <志摩の守さま [東海] 2001/12/22(Sat) 23:53>

こたつ城主さま
>「がらめきの瀬」はわかりませんが、この文学碑の下の坂道で
>富永三郎右衛門尉は死んだようです。
>富永政家って人と同一人物かなぁm(。。)m。
がらめきの瀬で討ち死にしたのなら小金の富永四郎左衛門直勝、またの名を政家のことだとおもいます。
>最初の攻撃隊(「がらめ>きの瀬」を渡った)の部将なんだそうです。
この時の先鋒はもう一人いて遠山直景でしたが、両人とも討ち死にしました。



<村上信濃守雅清さま [関東] 2001/12/24(Mon) 21:41>

権六郎さま
思わず乱入してしまいました(^_^;)。
いちおう、僕も村上家関係のHPを運営してますので、良かったら遊びに来てください(爆)

>合戦のあとの応永十年ころ京都から細川滋忠が乗り込んできたとき

応永9年(1402)の関東公方足利持氏と関東管領上杉家との争いの時(上杉禅英の乱)では、村上頼清が統領になっていたようですね。しかし、幕府に反乱するたびに追放されてるし・・・
参考
至徳4年(1387)4月の反乱
頼国が隠居、師国の子満信に家督を譲る
応永7年(1400)大塔合戦
満信を信濃より追放。家督は頼国の子頼清に相続。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/25(Tue) 17:46>

>志摩の守さま

>>富永三郎右衛門尉は死んだようです。
>がらめきの瀬で討ち死にしたのなら小金の富永四郎左衛門直勝、
>またの名を政家のことだとおもいます。

おおっ(゚.゚)?! 三郎と四郎……兄弟ですかね(右衛門と左衛門ってのは間違いがあったとしても)。でも政家だったのですね。この人死んじゃったんだぁ〜。最初の突撃部隊(遠山直景ですか)とは別人だったのですねぇ。知りませんでした! ありがとうございます☆ミ

それにしても……小金と言えば、ウチの辺りですよ。遠山氏って(前に話の出た)明智氏と関連のある遠山氏かな。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/25(Tue) 17:49>

>村上信濃守雅清さま

乱入、歓迎ですよ(^^)。村上氏の事は私も素人ですので。(いつも、お世話になってます(^^ゞ))

ふ〜む。1387年までは信貞系が嫡流だったのを、大塔合戦(1400)で追放されて義国(国信)系が引継ぎ、二年後には信濃は義国(国信)系に定まったという事か。。。
 
     

     
  <志摩の守さま [東海] 2001/12/26(Wed) 22:20>

ところで小金(松戸)に大谷口城の跡っていうのがありますか?
北条氏の他国衆で高城胤辰の居城だったそうですが。
高城胤辰は第2次国府台合戦で勲功をあげているようです。
それから北条家臣の遠山氏は江戸城を守備し江戸周辺の支配権を任されていたようですが、出自は室町幕府奉行衆の流れであるという説があります。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/27(Thu) 17:39>

>志摩の守さま

>ところで小金(松戸)に大谷口城の跡っていうのがありますか?
>北条氏の他国衆で高城胤辰の居城だったそうですが。

それです! こたつが大騒ぎしてる「北条城跡同盟オリンピック」の根拠は(^^)。大谷口城には、夏にじーや様&うーろんちゃんを(車に乗せて貰って(^^ゞ)ご案内しました。畝掘りがクッキリ残ってて、モロ北条氏の遺構ですわ。
では高城氏は、第二次国府台合戦ごろから北条氏の傘下に入ったのかしら……。

遠山直景が室町幕府奉行衆の出身というのは興味深いですね。以前、丹波惟任さまに聞いた話では、北条氏に仕えた遠山直景は美濃遠山氏が出身であるらしく、『恵那叢書』には、その子の景行が明智光秀の叔父(光安)と同一人物、とあるとか。



<志摩の守さま [東海] 2001/12/29(Sat) 12:26>

>高城氏は、第二次国府台合戦ごろから北条氏の傘下に入ったのかし
>ら……。
高城氏は北条家では他国衆の扱いで大谷口の支配は独立してまかされていたようですね。
こたつさまの言うように多分国府台合戦のころから傘下に入ったようですね。
かなり北条家に対する貢献度は高かったみたいです。
徳川家康との若神子の戦いでは先陣を務めたとのことです。
伊豆での対武田戦にも出陣し、合間に箱根の底倉で湯治したんだそうですがなんか人間くさくていいですね。
跡を継いだ息子の胤則は小田原篭城戦で秀吉軍と戦かったとのことです。
ちなみに底倉って秀吉の小田原攻めのとき遅参した伊達政宗が待機させられたところだったような気がします。
>景行が明智光秀の叔父(光安)と同一人物、とあるとか。
なるほどそれはおもしろいつながりですねえ。
綱景の娘は氏康の養女となっていますから明智氏と北条氏は繋がりがあるっていうことになりますね。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/30(Sun) 00:06>

>志摩の守さま

>高城氏は北条家では他国衆の扱いで大谷口の支配は独立してまかされていたようですね。

地域的には、北条連邦の縄張りからちょっと外れてる感もありますから、どうでもいいっつっちゃ、どうでもいい場所だったかも(^_^;)。でもわりとこの辺りではハバを利かせていたようなので、どこに帰属するかは、他の豪族への影響に関係したかもしれません。

>徳川家康との若神子の戦いでは先陣を務めたとのことです。
>伊豆での対武田戦にも出陣し、合間に箱根の底倉で湯治したんだ
>そうですがなんか人間くさくていいですね。

へぇ〜! やっぱ高城氏の事は、北条氏の文献には多少は記載されてるんでしょうか。伊豆や箱根まで頻繁に足を運んでいたのなら、北条氏の重臣から築城術を習ったり、人がやってきて指導してくれてたのかも〜(#^.^#)。

仰せのごとく小田原では最後まで北条氏に味方してて、ゆえにその後しばらくは、ウダツが上がらなかったと思います(^_^;)。政宗の待機の事は初耳でした。その間、多少は交流があったかしら。

遠山氏も北条氏に養女を出すほどの重臣だったんですね(゚.゚)。遠山の金さんもこの家系(か一族か)から出てるそうですよ。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2002/01/07(Mon) 18:03>

題名:昨日は……

一昨日行った七福神巡りの一つ、徳蔵院という所に又行きました。寿老人が祀られているお寺です。一昨日は人が居なくてご朱印が頂けなかったので、昨日買い物に行くついでに行ったのですが、お寺で発行してるご本に大谷山城の高城氏の事が書いてあったので買いました。

千円(*O*)! そんなに大きい本じゃないです。高いです。装丁も立派です。

徳蔵院は、市川国分寺の子院あるいは隠居所、永亨の乱以降、お寺は攻撃目標とされたので、お坊さんの避難目的のために作られたとも伝えられるそうです。真言宗ですが、真言宗自体は太田道灌以来、急速にこの地域に勢力を確保したようで、七福神巡りのお寺はいずれも真言宗でした。

徳蔵院の作られた1426〜63の前後に、九州肥前の千葉氏から出てきた高城氏もこの辺りに定着し、お寺の近くにお城がありましたが、これが手狭になったので、高城氏の本城は大谷口(北小金)に1530年に着工、1537年に完成、居城を移したようです。

徳蔵院の入口には、今でも「日暮さん」の名前が見られますが、日暮とは高城氏の家来で、十郎左衛門、又左衛門、大内蔵、理右衛門らが認められ、周囲の領地で平時は農耕を営んでいたようです。

大谷口城が出来た1537年は、北条氏(氏綱)が制覇の矛先を武蔵に向けた年で、千葉昌胤のすすめで小弓公方を討った第二次国府台合戦の時、高城氏は北条氏に組して戦には勝ちましたが戦死者が多く、遺骸や鏃を日暮村に葬ったのが藤塚稲荷で、今は徳蔵院の境内にあります。
が、訪れた時は何も知らず、私は「お金持ちになれますように(^^)」とお祈りしてきました(爆)。

高城氏は北条氏に重んじられ、羽振りも良かったようで、埼玉県の三郷市や、神奈川県の綾瀬市や横浜にも領地を貰ったのですが、最盛期の当主、高城胤辰が若死にして以来落ち目で、秀吉の小田原征伐では、大谷口城は浅野長政に攻められて落城。

これが大谷口の石碑には、小田原が落城したから開城しろ、と北条からの知らせを受け開城に到った、とあったような気がするんですが、いずれにせよこれ以来、高城氏の家来たちは帰農。一方、真言宗の寺々は、徳川家康の寺社対策によって統制されたため、徳蔵院もその厳しい体制下で惟新まで生き延びたそうです。
 
     



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