<掲示板・議事録>


     
  <魔矢さま [関東] 2001/11/23(Fri) 19:41>

ども、こたつ城主様

本日も晴天だったのでバイクでかっ飛んできました。
新田荘の史跡めぐりは順調に進んでますよ。
今後は太田市に舞台を移す予定です。
新田荘の範囲は実に広く、新田町と尾島町を中心に
北は藪塚本町、東は太田市西部、西は佐波郡の境町東部、
南は埼玉県深谷市の利根川沿岸にまで及んでいますから、
本格的に研究したら、たぶんライフワークとなるでしょう。
鎌倉から南北朝時代にハマって、なかなか戦国時代にまで
行けませんな。うわぁーはっはっはっは!

三河松平氏の祖・親氏の情報です♪

世良田東照宮が徳川東照宮(ややこしい!)の境内に設置した
掲示板の由緒書き等によると、新田義貞没後の新田荘は、一族が
全国で転戦して離散してしまい、有力な武将が皆無となり、
足利方についた岩松氏に支配され、足利勢による新田一族の
残党狩りが行なわれていました。徳川郷の領主であった新田氏
支流の世良田親氏も逃亡せざるをえなくなり、郷の頭役である
生田隼人に後事を託して徳川郷を立ち去ったそうです。
生田隼人は親氏に餞別として銭一貫文とその他の品物を与えて、
郷内の百姓と共に中瀬(現在の埼玉県深谷市)まで見送ったと
書かれています。また、青蓮寺の案内板には、足利方に追われた
親氏は青蓮寺に弟子入りし、名を変え僧侶に姿を変えて、
三河にある同じ時宗の寺を頼って出国したとあります。
そんなわけで、地元の伝承では親氏が三河へ行って松平氏に
なったのは「自明の理」というわけなのです。
「家康は家系図を捏造した!」などと言うと、地元では袋叩き
にあいかねません。

天正十九年(1591)、第19代生田義豊は武蔵国川越で家康に
拝謁し、徳川郷の由緒を尋ねられ、「新田徳川系図」の提出と
生田の姓を正田へ変えるようにと言い渡されました。
以後正田家は領地300石を与えられて旗本待遇となるわけです。



<こたつ城主 [関東] 2001/11/26(Mon) 15:49>

>魔矢さま

新田荘の史跡巡りやってますか♪ 宜しいですね〜(^^)。

この3連休はわりと晴天が続き、私も土日は地元(と言っても、高速に乗って2〜3時間はかかりますが:汗)の史跡めぐりをしてました。紅葉が素晴らしいです! 「出掛け得っ(#^.^#)」という感じでした☆ミ

>北は藪塚本町、東は太田市西部、西は佐波郡の境町東部、
>南は埼玉県深谷市の利根川沿岸にまで及んでいますから、

しみじみと群馬県を見てみると、ちょうどズブッと栃木県と埼玉県に差し込んでる地域の根元に当たるんですねぇm(。。)m。

>鎌倉から南北朝時代にハマって、なかなか戦国時代にまで
>行けませんな。うわぁーはっはっはっは!

早く来て下さ〜い! うわぁーはっはっは!(何じゃ〜?)
と言いますのも、城主はこの3連休、里見氏にドップリ浸かってました(爆)。これが新田氏の出身というのは、買い集めたどの本(どれをちゃんと読むという事をせず、あれこれをチラチラ浮気しながら読んでます)を見ても書いてあるのでぃす!

しかし新田氏は、魔矢さまのお話でも、本家本元からしてかなりケチョンケチョンなんですね(゚.゚)。では、その岩松氏ってのが「新田狩り」の先鋒的な立場だったんでしょうか。

>足利方に追われた親氏は青蓮寺に弟子入りし、名を変え僧侶に姿
>を変えて、三河にある同じ時宗の寺を頼って出国したとあります。
>
>「家康は家系図を捏造した!」などと言うと、地元では袋叩き
>にあいかねません。

っつーか、家康自身がそう信じていたんじゃないかしら? 「捏造」とか「改竄」というのは「確信犯」なのだから、真相はどうあれ、家康を説得できる材料が当時なくて、家康がそう信じていたのなら「捏造」は言い過ぎかもしれませんよ。(どっかから本当に捏造になったにせよ(^_^;))



<魔矢さま [関東] 2001/11/28(Wed) 21:48>

こたつ城主殿

そうそう!千葉県館山市の里見氏は新田氏の末裔だったのですね。
新田義重の次男・義俊が新田荘から離れた場所の里見郷に定住して
里見義俊と名乗ったのがすべての始まりです!
里見郷は今でも健在ですよ。v(^o^)/
群馬県群馬郡榛名町には「上里見」「中里見」「下里見」という
地区があり、ここが義俊が拠点にしたところですね。
ここから里見氏の血筋が全国へと分散していくわけです。
私も新田荘が一段落したら、里見義俊の軌跡をたどってみましょう。

私のコーナーもかなり充実してきましたよ。
皆さんも新田本家の史跡めぐりなら、
私のサイトへ散策においでください♪ m(_ _)m



<こたつ城主 [関東] 2001/11/29(Thu) 20:19>

>魔矢さま

>そうそう!千葉県館山市の里見氏は新田氏の末裔だったのですね。

そうなの〜(^^)! 私も最近まで(河内判官さまに指摘されるまで)あまり意識してなかったんです。新田義貞より六代も前に分かれちゃうからね……。
でも、分かれた義俊の頃は「大新田」で、義貞に続く義兼は「小新田」って、系図に書いてあったんですぅ〜♪(ただ、何が「大・小」なのか判らなかった(^^;)。単に兄と弟の違い?)

>群馬県群馬郡榛名町には「上里見」「中里見」「下里見」という
>地区があり、ここが義俊が拠点にしたところですね。

ホントですか〜?! ではでは(^^)、千葉の里見の生みの親は群馬なのですね〜☆ミ

>私も新田荘が一段落したら、里見義俊の軌跡をたどってみましょう。

あ〜ん! 是非ぜひ(>▽<)! 待ってます〜!

>私のサイトへ散策においでください♪ m(_ _)m

は〜い、これより(^O^)/!

>義俊は義重の次男だったみたい。(^^;

長男は……m(。。)m、山名義範かな?
 
     

     
  <畠山義綱さま [関東] 2001/12/13(Thu) 23:41>

久留里城の武田氏ですが、これって真里谷武田氏の
ことなんでしょうか?たしか同氏は15世紀には勢いがあり、
小弓公方の主力をなした家柄だと記憶しています。ああ、
マイナーどころ小弓公方がもっと知りたい(←マイナー病!)



<通行人γさま [地球外] 2001/12/14(Fri) 16:18>

こたつ城の「戦国武将一覧」の「千葉県の戦国時代」の
「掲示板議事録」の「7」に某氏のこのような発言があります。

>(日本でいつごろまで山の放牧していたか?はちょっと調査中)

千葉県の愛宕山は「牧」の一つだった場所でして、
ここでは明治41年まで馬の放牧及び年一回の馬追いを
やっていたそうです。
この頃に在来馬の種付けが禁止され全国的に品種改良が
始まるので、そのために日本馬と山への放牧は廃れたと
見るのが妥当だと思われます。

それでは。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/14(Fri) 18:32>

>畠山義綱さま

久留里城の資料館で買った本によると、最初は平将門の三男(これが天女=妙見菩薩との間に出来た子だっちゅんですね(^^;))、東少輔が妙見社にお参りして、夢で地名を授かったという伝承に始まり、戦国期はじめには、仰せのごとく庁南の武田信長が、長男信高を真里谷、次男信武を峯上、三男信房を久留里に配してより、久留里との領地関係が始まったようです。

が、庁南と真里谷については築城時期が見えるらしいんですが、久留里領主として名をあらわす「勝真勝(すぐる・しんしょう)」という人物の系譜が、久留里の系統だったり真里谷の系統だったり、諸説あって、時期が曖昧らしいです(^^;)。

小弓公方については私も期待したんですが、これをともに支えた里見氏との連携が主に書かれてまして、武田信長は娘を里見義実に嫁がせ、その後、久留里城は里見氏の領する所となりますので、何だかこの舅と婿の関係は、のちの斎藤道三と織田信長の関係に似た臭い匂いを感じ(^。^)、ちょっと小弓を離れた所でワクワクしました。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/14(Fri) 18:34>

>通行人γさま

うん、確かに「某氏」が調査しておられましたねぇ(^。^)。(うひょひょ)

いや、千葉県人でありながら、愛宕山ってのは知りませんでした(恥)。明治41年までってのは、ずいぶんと最近ではありませんかっ! それまで放牧ならいざ知らず「馬追い」をしてたというのは驚きますね。

それにしても、廃止の原因が種付けの禁止だったとは……。明治の時期と言うから、てっきり車道に馬を乗り入れる事を禁じた事と関係あるのかな、なんて思いましたが。品種改良が、かなりいっせいに行われたんですねぇ。



<権六郎さま [甲信越] 2001/12/15(Sat) 10:52>

はじめてメールします。信州の権六郎と申します。
検索で初めて覗かせていただいたとき、こんなにも信州村上氏に肩入れしているHPがあるとは驚きました。
ところで、城主様は久留里城をお訪ねになったとのこと。かの地では村上氏時代のことはどんなふうに紹介されているのでしょうか。教えていただければ幸いです。
ちなみに『長野県史中世編2』では、「系図纂要」を引用して「大塔合戦の首魁で信濃村上氏の総領村上満信の子植清が関東公方足利持氏に属し、永享の乱で持氏自害ののちは信濃を去って上総久留里に住した。その子成清も関東公方足利成氏に仕え、旧領の信濃に帰ったが勢いがおとろえ、また久留里にもどって成氏の孫小弓御所足利義明に仕えたが、北条氏康の来攻にあい自殺。」とする系図を載せています。
関東公方に真面目に出仕していた村上総領家は、信濃に戻ってきたももの、すでに義清の系統に連なる坂城村上氏が大きな顔をしていて居づらくなり、久留里に去っていったというものです。
信州では従来あまり知られていない説ですので、久留里になにか資料があればよいのですが。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/15(Sat) 20:08>

>権六郎さま

ようこそ、はじめまして〜(^O^)! 管理人でございます☆ミ よろしくお願いします。

村上氏ですか。元は川中島合戦のキッカケになった武将(地域)なので興味を持ったんですけど、その後に謎が多く、多少のめり込んでるかもしれません(^_^;)。

久留里城は全く違う関心からで、こうしてHPを開き、様々な方からお話を聞く内に、「武田信長」という人物が、戦国期の千葉に居たことを知りまして、千葉県に住み始めてそろそろ三年になるし、元は千葉に長く住んでた事もあるのに、全然しらなかったことを反省しまして、行ってみたって感じなんです(^_^;)。
だもんで、残念ながら久留里に村上氏が居たとは、全く初耳です(爆)。お役に立たず、申し訳ありません。私の方こそお話をうかがって驚いてます!

村上満信というのは、確かに坂城の村上義清に到る六代前から枝分かれして二代後に名前が見えますが、お話によると、こちらが嫡流だったのですね(゚.゚)。

>永享の乱で持氏自害ののちは信濃を去って上総久留里に住した。
>その子成清も関東公方足利成氏に仕え、旧領の信濃に帰ったが
>勢いがおとろえ、また久留里にもどって成氏の孫小弓御所足利義明
>に仕えたが、北条氏康の来攻にあい自殺。」とする系図を載せています。

ふむ。ありそうな事ですね。上総の武将達は、関東公方や小弓公方をずいぶん盛り立てましたから、久留里にやってきたのなら、そのまま居残った方が良かったかもしれません。

と言いましても、私も知りませんので、そうですねぇ……前に村上氏の事をやはり検索で探した時、千葉県市原氏に村上氏にゆかりの深い地域がある、というHPを見付けた事がありました。ご存知でしょうか?

上総村上の旅:http://oak.zero.ad.jp/~zaf42611/kazusa6.htm
(糸久太郎のホームページ:http://oak.zero.ad.jp/~zaf42611/より)
↑アレ? この方って、前にウチに来られたような……?

ただ、こちらに残っているという「古文書」の日付は「応永15年(1408)」になってます。ちょっとお話の時期より古いですね。どうでしょう?
 
     



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