<掲示板・議事録>


     
  <こたつ城主 [関東] 2001/11/11(Sun) 20:04>

さっき、近所(でもないか)の増尾城から帰還(^_^;)。
行くつもりは無かったんですが(^^;)、例によって亭主の多忙に翻弄され、巡り巡ってナゼか近場の城廻り(もぉワケわからん)。

増尾城は千葉県柏市にあります。案内版が立ってたんでメモしたんですが、帰って来て検索してみたら、まったく同文を既にアップしてるサイトがありました(^_^;)。

ところがそのサイトによると、その案内板の文章が「極めて悪文」との評価でして、実はこれ、城主も案内板を読んで「?(^^;)」と思ったので、同感せざるを得ないんですが、まあ詳細不明な点が多くて、ちゃんと書けなかったのかもしれません(汗)。

平将門の子の将国が信田(しのだ)小次郎と称して以来、この子孫は八代にわたって信田(って何処(^_^;)?)に居たらしく、師国の代に頼朝に仕えて相馬氏を称し、千葉常胤の次男師常がこの師国の養子となって相馬小次郎と称し、元久二年(1025)に没しました。

師常の長子義胤が相馬氏を相続して相馬五郎に、次子常家が矢木六郎、三子行常が戸張八郎と、各々が在地名を称した事もあり、何しろ柏市とその周辺には、相馬氏の直系も支流も大小の城館を構えていたようで、増尾城には正嘉(1257)の頃、相馬胤村という人物が居城したらしいのですが、文永九年(1272)、相馬胤村の子の師胤が奥州行方郡を領し、元弘三年(1333)(師胤の?)子の重胤が岩城中村に城館を造って、宗家は下総国を去り奥州相馬郡に行ったようです。

柏市とその周辺に居た頃の相馬氏は、一族の守本尊として妙見様を祀ったようで、妙見社が存在するそうですが、これが何処にあるのかは不明でした(^^;)。

鎌倉時代の他の関東平野の土城と同じ型式な事は確からしいんですが、この案内版では、「城を三方に土塁や堀、懸崖などで守りを固め、後方は徐々に民力で補強していったのが城郭史の流れだっ!」っちゅう城郭論がエンエン書いてあるものの、結局この城に対する結論……特に、平城か山城か、その中間かって辺りがハッキリしないです(^^;;)。いかにもマニアック(苦笑)な文でありつつ、まあ、民力で補強した裏が取れないんでしょう(苦笑)。

「悪文ってどんなの〜(^。^)?」って人、居ます? いちお「千葉県の戦国時代」(「戦国武将一覧」)にアップしときますわ(笑)。

http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/tibaken/09.htm
 
     

     
  <増尾城:案内板(^。^)>

相馬氏の居城と伝承される。平将門の子将国は信田(しのだ)小次郎と称し、以後八代にわたり信田に居たらしい。次の師国になって頼朝に仕え、下総国相馬郡を所領とし、後代々相馬氏を称し、子孫は現在に至っている。千葉常胤の次男師常は師国の養子となり、相馬小次郎と称し、元久二年(1025)卒し、長子義胤後を継ぎ相馬五郎と称し、次子常家・矢木六郎、三子行常・戸張八郎と、各々在地名を称した。このようにして、柏市及び其の周辺では、相馬氏の直系・支流が蟠居し、それぞれ大小の城館を造営した。ここ増尾城はそれらの本城で、正嘉(1257)の頃、相馬胤村が居城したと伝えられるが定かではない。その子師胤は文永九年(1272)奥州行方郡を領し、元弘三年(1333)子重胤封を継ぎ、岩城中村に城館を造っているので、宗家は既に下総国を去っていて、後奥州相馬郡になった。相馬宗家が下総相馬郡には氏の守本尊として妙見様を祀ったことを踏まえて、この城址をみると、中世の少なくとも関東平野の他の鎌倉時代の土城と型式を同じくしていること、妙見社が存在することから、相馬氏の城館であったことはたしかである。城は、戦いの方法型式、戦略、地形、武将の人物等が要素となって築かれるので、決定的には言い切れないが、戦闘の時だけ使用する古代の城=山砦と、鉄砲伝来後の庶民経済力と武力が総合された近世城郭と、その中間の中世のものと三つに大別される。山=高地のもつ要素の価値は近代戦にまで受け継がれるが、中世のものは丘陵=凹出台地の凹出部は前後二段に土塁、堀で区画し、三方は懸崖と水を巡らし、後方は庶民と交渉できる形で、いわば戦いが弓矢の槍の力だけでなく、次第に民力を借りなければならなくなって来たことを表している。これが後の大阪城とか江戸城の平地城へと展開する。この城址の現状は、後郭の西側中頃から前方へかけて、外縁が崩されているが、後郭の基底中央から直角に前郭の先端へ直線を引き、これを中心線として、東側を折り返して欠損を補えば原形が求められる。東北約3kmの戸張城址とは近似形である。

昭和57年 柏市 柏市教育委員会
 
     



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