<掲示板・議事録>


     
  <河内判官さま [近畿] 2001/03/09(Fri) 01:29>

> テキトーに石碑とか置いて作っちゃおっかなぁ♪
ないほうがよろしいですぅ!河内に石碑を置いていったら、
石碑だらけになります!。・゚゚・(×_×)・゚゚・。
聖徳太子の時分からすでにやってゐる。南北朝期なんて、
それこそ南北激突最前線だし、室町期にも両畠山が。
掘ったら鎌倉みたいに骨が出てきたりして……m(~-~m)〜

> なかなかその"ヒマ"が……ね(^^;;)。
系図作らんならんし!(*`▽´*)

ところで千葉って馬に関わる地名が多さうですね。
「馬加」「馬津」……。皇室御用の牧場か何かあったんでせうかね?



<たまこさま [東海] 2001/03/09(Fri) 23:05>

小弓御所の事でも少し情報が入りました。



<甲斐の虎さま [関東] 2001/03/10(Sat) 00:11>

>河内判官さま

>ところで千葉って馬に関わる地名が多さうですね。
>「馬加」「馬津」……。皇室御用の牧場か何かあったんでせうかね?

残念ながら、ありません。朝廷の置いた牧(牧場)があるのは甲斐・信濃・上野・武蔵の四ヶ国です。
ただ、甲信地方・関東地方・東北地方といった「東国」はどこも馬の山地です。(当然、千葉も馬の産地です!)火山灰質で農業には向かないものの山・丘陵の多い地形を生かして山に馬を放牧しておき、後で必要な数だけ捕らえて使ったようです。
山に馬を放牧するというのが現在の牧場との一番の違いですね〜
おかげで頑丈で山道にも強い馬が生まれるのです。
(義経による「一の谷の奇襲」もこのような馬の特質あってこそですね)

それでは、また。



<たまこさま [東海] 2001/03/10(Sat) 17:22>

不思議な事もあって、私は昨日、急用で千葉市中央区に居たんです。
小弓御所近辺です。史跡巡りの余裕は無かったけど、チラチラっと小冊子などを。 生実(おゆみ)と言われる所でして、応神天皇の頃、古代朝鮮の帰化人、麻積連(おみのむらじ)に因んで、おゆみ、と呼ばれました。

「足利義明の娘」と「里見義堯の息子」は、婚約していたのですが、足利義明の戦死で立ち消えになってました。 しかし北条氏綱の死後に里見水軍は猛烈な勢いで鎌倉に攻め入ります。(上杉謙信まで引っ張り出したと言うのは、この頃では無いかな)。 そして、
あろう事か!鎌倉で尼になっていた義明の娘を略奪(駆け落ち?)して安房の国へ連れ帰りました。里見義弘の正室とします。

北条氏康→「青岳尼どの、この度の事、誠に遺憾である、せめて持って行った由緒ある観音像だけでも返却して下され」。
里見夫人→「・・観音さま許して、私は夫の側に居たい」。
と言う分けで、海を行き来した観音像は太平寺だか東慶寺だかに現存してるそうです。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/10(Sat) 17:35>

>河内判官さま

河内は石碑だらけですか〜。羨ましいですねぇ。それに説明版でも立っていようものなら、歩いてるだけで歴史の勉強ですね♪

千葉には、確かに馬に関する地名や話題が多いです。千葉氏は北斗七星を信仰してたのですが、この辺りには夜空を遮る大きな山が、ほとんどナイのです。太田道灌も「同じ平野の遠くには雨が降らず、近くに雨が降っている。だから武蔵の原は、天より広いのだ」という歌を詠んでいます。

星を信仰するのは、古くは遊牧民か海洋民だそうです。山がナイ所では、星だけが自分のいる位置を示してくれるからだとか。放牧と星と馬は、切っても切り離せないものかもしれません。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/10(Sat) 17:38>

>甲斐の虎さま

>朝廷の置いた牧(牧場)があるのは甲斐・信濃・上野・武蔵の四ヶ国です。

そうなんですか(゚.゚)。

>ただ、甲信地方・関東地方・東北地方といった「東国」はどこも
>馬の山地です。(当然、千葉も馬の産地です!)

わ〜い(^O^)! じゃあ、お馬さんをシンボルにしてて、いいんですねぇ♪

>山に馬を放牧するというのが現在の牧場との一番の違いですね〜
>おかげで頑丈で山道にも強い馬が生まれるのです。
>(義経による「一の谷の奇襲」もこのような馬の特質あってこそですね)

う〜ん、山で放牧されている様子、一度目にしてみたいです(゚.゚)。日本で無ければ、どこかにありそうな気が……?



<河内判官さま [近畿] 2001/03/11(Sun) 00:51>

> 千葉の馬
甲斐の虎さま、城主さま、貴重なご意見をありがとうございました。
たしか、いずこかの本で「昔の馬は気が荒く、足軽を咬んだり
蹴ったりした」と書かれてありました。また、某マンガでの「松風」も
関東の野生馬でしたよねぇ。

> 日本で無ければ、どこかにありそうな気が……?
結局、モンゴル。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/11(Sun) 18:19>

>たまこ様

ナント! たまこ様、千葉にいらっしゃってたんですね!  そうそう「生実」は現在の地名ですが、これで「おゆみ」と読むんですね(゚.゚)!(灯台下暗し)

>応神天皇の頃、古代朝鮮の帰化人、麻積連(おみのむらじ)
>に因んで、おゆみ、と呼ばれました。

ええ〜! そんなに古くからっ!
あと! そうそう! 鎌倉で尼さんになってたお姫様を略奪した話! 私もどっかで知って(鎌倉に行った時だったような……)、いつか調べてみたいと思ってました。そうです! 青岳尼でした! きゃあ! 小弓公方の娘だったのね! しかも強奪したのは里見義弘だったの?! きゃあ! きゃあ! ロマンチック〜♪

>北条氏康→「青岳尼どの、この度の事、誠に遺憾である、せめて
>持って行った由緒ある観音像だけでも返却して下され」。

これって何か、北条氏康にもソノ気があったような……(^_^;)。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/11(Sun) 18:20>

>河内判官さま

>「昔の馬は気が荒く、足軽を咬んだり蹴ったりした」

そうなんですか。こないだ歴史民俗博物館で見た、中世の頃の馬の骨(化石?)、と〜っても小さいのですわ♪ 私も小さいけれど、私でも飛び乗れそうなカワイイ感じでした(^^)。
 
     

     
  <河内判官さま [近畿] 2001/03/12(Mon) 00:56>

> と〜っても小さいのですわ♪
加藤清正は、馬に乗ると足が地面についたといいますね。



<甲斐の虎さま [関東] 2001/03/12(Mon) 03:36>

>河内判官さま
>こたつ城主さま

日本では明治に至るまで馬の品種改良は行われず、日露戦争のあたりまで日本馬の原種が使用されていました。
そのため、馬の情報は結構、残っているんですな。
明治33年の北清事変の際、列強が中国に出兵したんですが、この時、日本の軍馬についてロンドンで「日本軍は馬のような形をした猛獣を使用している」と報じられているんですな。
品種改良・去勢・調教によってさながら「馬の形をしたロボット」のような馬しか知らない欧米人には日本馬はまさに「猛獣」だったんですな。

問題
モンゴルで遊牧民は馬に乗ります。しかし、羊の群れを連れている遊牧民はいても馬の群れを連れている遊牧民はいません。なぜでしょうか?



<こたつ城主 [関東] 2001/03/12(Mon) 15:32>

>河内判官さま

>加藤清正は、馬に乗ると足が地面についたといいますね。

清正が? 確か、斎藤義龍もそうだったような……。


>甲斐の虎さま

>「日本軍は馬のような形をした猛獣を使用している」

ほほぉ〜。猛獣とは(゚.゚)! では、江戸時代とかも、ず〜っと山で放牧してたのかしら? それとも、単に品種(遺伝子)の存続がされてたからかな? 今の馬は、確かに山道には弱そうですよね〜。足も細いし。

>羊の群れを連れている遊牧民はいても馬の群れを連れている
>遊牧民はいません。なぜでしょうか?

まあ! まあ! なぜかしら(^O^)! 何処にでも居て、何処でも取り替えられるのかしら?!
 
     



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