<掲示板・議事録>


     
  <河内判官さま [近畿] 2001/03/04(Sun) 00:35>

さう云へば、嵐世記のハンドブックが出てゐたので、立ち読み(笑)
しておったのですが、何でも上総安房方面に新しい大名がゐました。
「真理谷」氏と。まるっきり聞いたこともない名前なのに、「まりや」
(で合ってゐると思いますが……)といふ美しい響きに興味津々。
上総安房方面はつまりは千葉、これは城主さまにお聞きせねば
なるまいて!……といふわけで、「真理谷」氏のこと、何でもいいです
ので、お教えくださいね。わたしの持ってゐる人名辞典では
安房里見氏の家臣としか出てゐないもので……。

お忙しいかとは存じますが、よろしくお願いのほどを。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/04(Sun) 17:24>

>河内判官さま

真理谷氏は、君津市の方(千葉県の南西にチョコと出っ張ってるトコ)に、久留里城(別名"雨城")というお城があって、確か「まりやつ」だったような……(ウロ覚え)。これは千葉県の武田氏で、里見氏が大きくなってから麾下に入ったような記憶が……。悲しいかな、千葉県民の癖に、千葉県の歴史をよぉ知らんのです(TOT)。

>……といふわけで、「真理谷」氏のこと、何でもいいです
>ので、お教えくださいね。わたしの持ってゐる人名辞典では
>安房里見氏の家臣としか出てゐないもので……。

きゃあ! きゃあ! じゃ、ちょっと調べてみますです〜♪(でも何もわからないかも(^_^;))



<河内判官さま [近畿] 2001/03/05(Mon) 01:12>

> じゃ、ちょっと調べてみますです〜♪
お願いします!



<甲斐の虎さま [関東] 2001/03/05(Mon) 04:40>

>河内判官さま
>こたつ城主さま

武田信満--信重--信守--信昌--信縄--信虎--晴信(甲斐武田)
      |    |       |    |- 穴山信介(甲斐穴山)
      |
      |-信長--信高--信興(真理谷武田)
               |
               |- 道信(庁南武田)



<こたつ城主 [関東] 2001/03/05(Mon) 15:20>

題名:千葉県の戦国時代

真里谷氏について調べていたら、あれ(゚.゚)、前に行ったコトがある、というお城が出てきました。その名は「小弓城」。そういや、前にここに行った時もちょっと調べたけど、何だか複雑で頭に入らなかったです。

まず享徳のころ(1452〜55)、千葉介だった千葉胤直は、一族の馬加康胤と重臣の原胤房(小弓城主)に千葉城を追われて自刃し、馬加康胤が千葉介になります(馬加千葉氏)。

敗れた千葉胤直の甥は、上杉氏の支援を受けて市川城にいるんですが、これが今度は、馬加や原らと宜しくやってた古河公方、足利成氏に攻められ、兄弟そろって武蔵の国に逃げます。これが太田道灌とともに豊島氏を攻める(江古田沼袋の乱、1477年)千葉自胤です。

やがて、古河公方、足利成氏と上杉氏が和睦すると、馬加千葉氏は孤立して、太田道灌に攻められて敗れます。

次に永正年間(1504〜21)、やっと真里谷武田氏の登場です。武田恕鑑は足利義明を担ぎ、原氏を攻めて小弓城を乗っ取り、足利義明はこれよりこの城を"小弓御所"にし、"小弓公方"として、里見氏、酒井氏らを従えます。武田氏や酒井氏が里見氏の麾下となったのはこの辺りかと思います。真里谷武田氏は久留里城を持ってましたが、1537年、この城には里見氏が入ってます。

すると原氏は、こんど古河公方の足利晴氏を担いで対抗。小田原の北条氏綱とも組み、武田と里見を国府台に攻めます(第一次国府台合戦、1538年)。義明戦死。武田と里見も敗退。

小弓城には原氏が復帰。原氏や馬加千葉氏はもちろん、味方だった武田氏も酒井氏も、この後は里見氏を離れて北条氏に属しますが、里見氏だけは北条氏と戦いつづけ、しまいには上杉謙信まで引っ張り出す騒ぎになるのでした。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/05(Mon) 15:24>

>河内判官さま

あ、真里谷氏については下の通り。あと虎さまが系図入れてくれました(^^)。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/05(Mon) 15:25>

>甲斐の虎さま

真里谷氏の系図、ありがとうございます(^O^)! どっかで探そうと思ったんだけど、昨日、NTTの工事で回線止められちゃって、検索とか全然できなかったの!

前にここでも話に出た「武田信長(スゴイ名前(^^;;))」の孫の代から興った家だったんですね♪ ちょっと過去ログ洗ってみるかのぅ。
 
     

     
  <たまこさま [東海] 2001/03/05(Mon) 16:21>

>城主さま。
>甲斐の虎さま。
武田信長、私も懐かしい。 名前が衝撃的だったもん。
この系図では無いけれども、確か、味舌さまか惟任さまが系図を提供して下さった様な記憶が・・(^_^? 。

父、信満は上杉禅秀の乱で敗れ、天目山で自害。
信長は甲斐武田になれずに上総へ、そして久留里城を作る。
それが里見氏の城となる。そっか、武田と里見は協調した後離れたんですね、それにしても、千葉県の戦国も複雑、(ー_ー;)。

えーと、思い出すと、里見氏の事で里見八犬伝の話を久住さまから伺いました。とっても寂しい滅亡だったんですよね。
葵三代をやってた関係上、この件には大久保忠隣や信康妹の亀姫まで登場させちゃったと思う。

追加: 庁南武田・・庁南て?



<河内判官さま [近畿] 2001/03/06(Tue) 00:40>

真理谷氏、様々な情報ありがとうございます!\(^O^)/
すごい面白い一族ではないですか!"武田信長"から出てゐる
ことが何よりも気に入った!それと、小弓御所とも関わって
おったのですね。鎌倉公方家第三勢力の小弓御所には
しかし戦国期はどこも複雑ですなぁ。結局誰がいちばん悪いので
せうね?どうも原氏がいかんやうな気が。(i i)
それで確か甲斐武田信虎・信玄の配下に「鬼美濃」こと「原虎胤」が
ゐたと思ふのですが、「胤」という字からしてこの上総の原氏と
同族なのでせうね?

> 馬加千葉氏
……これは何て読むのでせう?「まか」?それとも……「○か」?
こっちでいう「阿保」さんみたいなものですな。ちなみにこれは
「あほ」ではなく(IMEは"あほ"でこの字を出す)、「あんぼ」と読む。

> 天目山で自害。
勝頼が死んだところと同じなのでせうか?

> 嵐世記(信長の野望最新版……武田信長ぢゃないよ)
……はゲームです。戦国ゲームの王道です。これがために戦国に
興味を持つ人々が増殖されるのです。今回の嵐世記には武将が
1300人も出ます!かなりマイナーな人が大量に出てゐるのです。
今回提起した「真理谷」氏なんて、今までのシリーズには影も形も
なかったのに、今回いきなり大名です!だから妙に興味が。

千葉ってけっこう面白いところですねぇ。新田一族たる里見氏が
ゐるので興味はあったのですが、これほど奥が深いとわ!また
千葉に関するさまざまなことをお聞きするかもしれませんが、
どうか答えてやってくださいませ。f(^_^;



<こたつ城主 [関東] 2001/03/06(Tue) 15:38>

題名:千葉の戦国時代<過去ログ編>

過去ログ見たら、ナント、去年8〜10月にかけて、ちょこちょこ話題が出てるんですね(^_^;)。たまこ様、甲斐の虎さま、久住さま、味舌政宗さまがこの話題に参加しておられました。河内判官さまはご存知ないので、そのうち又ゾロ、議事録を作成しましょうか。わりと膨大な量なんで、今日の所はとりあえず、↓

■8/17城主の発言から、

><久留里城>
>山城。別名「雨城」。
>房総半島のほぼ中央部に位置する君津市久留里。
>
>1400年代、武田信長の子によって築城。1537年頃、
>里見義尭によって攻め落とされてから、里見氏の配下となり、
>二度も北条氏の来襲に堪え抜き、1590年、徳川家康が関東入り
>するに当たり、徳川支配地となり明治の廃藩まで存続。明治4年
>に発令された廃藩置県によって廃城。昭和53年に天守閣が再建。
>現在は、二の丸跡に城址資料館。
>久留里城祭り=平成12年10月15日開催。
>
>関連HP(^_^;)↓ >http://www.interweb.co.jp/guide/kanto/chiba/kururi_jyo.html >http://www.pref.chiba.jp/syozoku/b_bunkoku/edo_bunka/01machinami/0107.html >http://www.kimitsucci.or.jp/kaiinnhp/syougyou/syougyou_01.html >http://www.kimitsucci.or.jp/kimitsucci/iben-2.htm >http://www5.freeweb.ne.jp/travel/yokouchi/doc/12_00kururi.html
>http://www.m-network.com/sengoku/busyo/busyo-sa.html

■8/21、城主の発言から、

>わりとジリ貧なんですよね、里見家は。秀吉の小田原征伐の参陣
>の遅れを問われて、上総没収、安房一国になってしまい、
>家康の死後、大久保忠隣の失脚に連座して改易→当主病死→断絶
>ですわ。時勢に乗り遅れたのでしょうかね。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/06(Tue) 15:39>

>たまこ様

武田信長の家系(真里谷武田氏)と里見家については、前の投稿の通りです。
庁南武田氏は、味舌さまによると上杉禅秀の乱以後の騒動で、真里谷氏と同じように上総に逃れてきたんでしたね、どうやら。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/06(Tue) 15:49>

>河内判官さま

え(゚.゚)、千葉、面白いですか?! わ〜い♪(突然、地元が誇り)

そうそう(^^;)。城主も調べているうちに「ここは原氏を悪者にしとくと、取りあえず頭に入る構図よね」とか思っちゃいました。何しろ100年近い話なんで、同じ〇〇氏というのも実は何度も代替わりしてるハズですけどね。

小弓御所は、これは私が県民だからそう思うのでしょうけど、下総、上総、安房という現在の千葉県に、大きな貢献をしてくれたのではないかなぁ、という感じがして、何となく好印象なのです(^^)。城主の家の近く(松戸)にある高城氏の高城城(大谷口城)にも、小弓公方を招いて宴を開いた、なんて話があるのをどっかで見掛けましたしね♪

それにしても原胤房(小弓城主)と原虎胤(信玄の部将)が同族! 城主、迂闊にも気が付きませんでした(・・;)。でも、ありそうですよね!

ちなみに「胤」は千葉氏代々の名です。千葉氏は元々、平将門と妙見菩薩との間に生まれた子供が発祥、という伝説があるのですが、それで「胤」なのかなぁ、なんて……。馬加氏は元から一族ですが、恐らく原氏も元は同族なんじゃないかなぁ。

「馬加」は、「まか」「まくわり」と読むようです。「まくわり」は現在、幕張メッセのある「幕張でっせ(^。^)」。



<こたつ城主 [関東] 2001/03/06(Tue) 22:10>

題名:判官さまの言われた通り

原虎胤は、千葉県の原氏でした(^_^;)。ついでに原氏は、やっぱり千葉氏の一族でした。きゃあぁぁ〜!!

「原虎胤は、房総(千葉県)で平将門以来の名門といわれた千葉氏の一族で、上総臼井の小弓城主として勢力のあった原氏の後裔である。虎胤の祖父、胤房の死後、守護代の武田氏(豊三)との勢力争いが起こり、小弓御所、足利義明の介入があって、原一族は国を追われて四散したのである。虎胤は父、能登守友胤に伴われて甲斐にのがれ、信虎を頼り、永正10年(1513)17歳で足軽隊将として召抱えられる」

↑武田神社でもらった(買ったのかな(^_^;))小冊子に。でも細かい所が、私の調べた事と違ってるような……???
 
     



ホーム