<掲示板・議事録>


     
  <こたつ城主 [関東] 2001/07/06(Fri) 11:18>

題名:大村由己と出雲の阿国

↑についてご存知の方がおられたら、何でも教えて下さいまし。



<守天働児さま [東海] 2001/07/06(Fri) 21:15>

大村由己については、少しだけですが、小生の光秀のページに書いています。「信長記」のところです。
出雲の阿国については、書いていません。



<こたつ城主 [関東] 2001/07/07(Sat) 16:42>

引き続き、「大村由己と出雲の阿国について」詳しい方がおられたら、ご教授お願い申し上げます。ざっくり御伽衆についてのお話でも、とても喜ばしく思います(^^)。



<こたつ城主 [関東] 2001/07/07(Sat) 16:45>

>守天働児さま

>大村由己については、少しだけですが、小生の光秀のページに書い
>ています。「太閤記」のところです。

「『太閤記』と『明智軍記』」ってトコですか(゚.゚)?(ん? 違うか……)



<守天働児さま [東海] 2001/07/07(Sat) 22:36>

>こたつ城主さま
大村さんは『信長記』のところでした。ごめんなさい。
前のページです。わからないところがあれば、手持ち資料で調べますよ。連絡下さい。



<こたつ城主 [関東] 2001/07/08(Sun) 17:41>

>守天働児さま

『信長記』のトコ読みました(^^)。ありがとうございました。
前に読んだ時も、そういや「あ、大村由己の事が書いてある」と思ったのを思い出しました。その時はあんまし興味無かったんです(^_^;)。

>わからないところがあれば、手持ち資料で調べますよ。連絡下さい。

知りたい事がいっぱいあるんですが(^_^;)、とりあえず一つだけ。
由己に関する系図って残ってないのでしょうか。知りたいのは親とか兄弟なんですけど。あと、由己の大村氏ってのは、赤松氏の家来か何かだったんでしょうか(もしかして赤松法印とも関係あるんですか(^_^;))。三木城攻略の際、由己ってどうやって生計立ててたんでしょ。(←全然「一つだけ」になってませんね:汗)
 
     

     
  <守天働児さま [東海] 2001/07/09(Mon) 17:35>

>こたつ城主さま
大村由己について色々と調べたのですが、期待するような答がありませんでした。

>由己に関する系図って残ってないのでしょうか。
由己も前半生が不明な所が多いんです。手元にある資料からはわかりません。

>由己の大村氏ってのは、赤松氏の家来か何かだったんでしょうか
初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えたとあるので、赤松氏の外交僧あたりではなかったのでしょうか。
三木城攻略が天正8年で、天正10年の秀吉の中国大返しの際には姫路城で軍議に加わっていることから、三木攻めで何らかの有力な働きをして秀吉の家臣として取り立てられたのではないかと思います。

>その他
出雲の阿国を世に出したのが由己だと言われています。
小笠原キヨウ子女史の書物に、阿国が16、7才の頃に大村由己の屋敷で舞を踊ったという記述があることから、女史は何らかの資料を確認したのだと思います。(その後、由己の力添えがあって)阿国についての確実な資料としては、慶長5年(1600年)に出雲のクニと菊というものが宮中で「ややこ踊り」を演じた。とあるのが最初のようです。同じ頃の北野神社の史料にも「くにと申すかぶき女」が記録されています。



<こたつ城主 [関東] 2001/07/10(Tue) 08:41>

>守天働児さま

大村由己についてお調べいただき、本当にありがとうございました(^^)。しかし流石ですね! 今後とも、どうか宜しくお願いします!

由己については、大返しの時、黒田如水らとともに地元(中国方面)の参謀として秀吉の陣営に突然名を現す感じですね(^_^;)。数多くの著作を残してるわりに、自分の事は語らなかったのか、本人について記載されてる著作だけが残らなかったのか……。

>初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えたとあるので、

還俗してるんですね(御伽衆とは還俗してなるものなのか(^_^;))。僧侶だと思い込んでました(爆)。私も三木攻め周辺の功績だと思いますが(それより前がわからないんで(^^;))、播磨出身ってコトは、当時はほぼ赤松氏(か浦上氏?)の勢力下と見て良いのでしょうか?(まさか別所ってコトは無いだろう(^^;))←いや、わからんけど(汗)

>慶長5年(1600年)に出雲のクニと菊というものが宮中で「ややこ踊り」を演じた。

ナヌッ(*o*)?! 宮中?! 「菊」???(だ……誰じゃ?)
じゃ、一応は出雲大社の修理勧進(寄付金集め)支援だったんでしょうかね(^^;)。由己自身が能の台本なんか書いてるから、単なるアイドル贔屓だったりして(汗)。

あと、由己の没年は1596年との事ですが、「秀吉の没後、家康に仕えた」と守天働児さまの所にあるのは、没年が実はハッキリしていない……?(それとも秀吉の生前に家康に乗り換えてたりして(^_^;)?)



<守天働児さま [東海] 2001/07/10(Tue) 18:53>

>こたつ城主さま
矛盾をよく見つけて頂きました。(笑)
秀吉が亡くなったのは1598年、由己が没したのは1596年。
でも、手元にある資料には確かに、「秀吉没後は家康に使えた。」と書いています。
途中で乗り換えたのかな?
もう一度、調べなおします・・・
(後日、守天働児さま調べにより、 「自らが集めた戦国時代の貴重書を徳川家康に託した」と判明)



<こたつ城主 [関東] 2001/07/11(Wed) 17:10>

>守天働児さま

あ、そうそう(^_^;)、大村由己は意外と早く亡くなっているんですね。私も没年を意識したのはつい最近ですけどね。

御伽衆は謎の部分が多いですね。真田太平記では立派な諜報活動者って具合にされてますけど、そういう面もあったんでしょうかね。家康の御伽衆では赤松法印が居ますね。講釈を始めた最初の人だって言われてるようですね。これらの何らかのツテがあれば、大村由己も家康に仕えられたかもしれませんね。
 
     

     
  <守天働児さま [東海] 2001/07/11(Wed) 18:54>

>こたつ城主さま
ご質問の件は、我が家の方に書いておきました。
御伽衆というのは、その言葉で錯覚してしまうんですね。
実のところは、気の許せる相談相手なんです。(ソウダンデス。サブー)



<こたつ城主 [関東] 2001/07/12(Thu) 05:02>

>守天働児さま

ご回答、ありがとうございました(^O^)! 今日はちょっと出掛けるので、後でまた書きに行きますね! 御伽衆は……御伽話ってぐらいだから、「話をする人」なんでしょうね(^^;)、基本は。



<守天働児さま [東海] 2001/07/17(Tue) 18:14>

>こたつ城主さま

阿国の「ややこ踊り」が気になってインターネット↓で調べました。
でも、公家の日記の方は出ていませんでした。
http://www.sakuragaoka.ac.jp/sp3/kabuki/kabuki.htm



<こたつ城主 [関東] 2001/07/18(Wed) 19:11>

>守天働児さま

あ、阿国のURLありがとうございました(^^)。女歌舞伎は、

>寛永6年(1629)幕府によって禁止

とありますね。「風紀を乱した」って、そんな悠長な時代かなぁ……。阿国が56歳の頃。70歳だか80歳だかまで生きるんで、やはり生存中に迫害されたのですね。 *ニヤ*
 
     

     
  <くらのすけさま [関東] 2001/08/02(Thu) 20:12>

こたつ城主様、ご無沙汰いたしております。

さて、お尋ねの大村由己についてですが、
以前こちらの掲示板でも話題になっていたと記憶しています。
しかしすでに一番後ろまでさかのぼってもみつからないので、
とりあえず話を蒸し返すような感じで書きますが、

『戦国人名事典』では播磨三木の出身、と書いてありました。
(おそらく以前に書き込まれているものと思います。)

しばらく合宿などで家をあける&夏休みなので学校に行かないため、この程度しか現時点では分かりません。すいません。
『国史大辞典』などがみられる環境に復帰して何か追加出来ることがあれば書き加えたいと思います。
失礼しました。



<こたつ城主 [関東] 2001/08/03(Fri) 15:01>

>くらのすけ様

くらのすけ様の所で播磨の戦国を見て、没落した赤松氏(村上源氏なんですね(゚.゚))と、その家来の浦上氏が抗争してた事がわかりました。大村由己は、秀吉の三木城攻めの頃に忽然と史上に現れる感じで、ちょっと地理的には違う気もするけど、別所を攻める戦に加わったのだから、別所氏とは違う関係じゃないかなぁ、とか、いろいろ考えたのですが……。

合宿(゚.゚)。まだ学生でいらしたのですか?(信じられない!)
『国史大辞典』。。。出て来る資料がスゴイ。(←単に聞いた事がないだけ)
 
     



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