<村上氏の謎、城主からのコメント> ええと、イキナリ村上義清の系図が飛び出てますが(^_^;)、わかりにくいとも思いますので、 ちょっと説明を加えます。 <関係者生没年> 村上義清、文亀3年(1503)〜 天正1年(1573) 村上国清、天文15年(1546)〜? 村上頼勝、〜元和元年(1615)? 丹羽長秀、天文4年(1535)〜天正13年(1585) 丹羽長重、元亀2年(1571)〜寛永14年(1637) -------------------------------------------------------------------------------- 「戦国大名系譜人名事典」より抜粋 +−頼国(頼衡)(信濃守)−+−義清(左衛門尉)−+−国清(景国)(蔵人) |             |          | +−頼房(三河守)     +−義兼(左衛門佐) +−女               |           |               +−義利(常陸介)   +−女                          |                          +−女                          |                          +−女(内山氏室) 天正6年(1578)、御館の乱には景勝側 天正10年(1582)、海津城代として北信濃に一時復帰。 天正11年(1583)、副将の屋代秀正が家康に内通により改易、越後に召還。   以後、二人の奉公人が付き従うまでに落魄。村上姓を廃し、山浦名義となる。 慶長3年(1598)、上杉景勝に従い、会津に同心給総計8900石、陸奥塩松に在城。 -------------------------------------------------------------------------------- 「郷土資料事典16(新潟県)」より抜粋 「村上城跡」 本庄氏の城。本庄氏は武田氏にも一時荷担したが、上杉氏と和睦ののち、天正6年(1578) 御館の乱には景勝につき、慶長3年(1598)には会津に従って越後を去った。 代わって加賀小松から来た村上義明が入城。義明は古城の修築をしていたが、元和4年(1618) 除封され、代わって長岡から来た堀直寄が入城、修築を完遂し、本庄藩から村上藩に改称。