<掲示板・議事録>


     
  <権六郎さま [甲信越] 2001/12/15(Sat) 10:52>

はじめてメールします。信州の権六郎と申します。
検索で初めて覗かせていただいたとき、こんなにも信州村上氏に肩入れしているHPがあるとは驚きました。
ところで、城主様は久留里城をお訪ねになったとのこと。かの地では村上氏時代のことはどんなふうに紹介されているのでしょうか。教えていただければ幸いです。
ちなみに『長野県史中世編2』では、「系図纂要」を引用して「大塔合戦の首魁で信濃村上氏の総領村上満信の子植清が関東公方足利持氏に属し、永享の乱で持氏自害ののちは信濃を去って上総久留里に住した。その子成清も関東公方足利成氏に仕え、旧領の信濃に帰ったが勢いがおとろえ、また久留里にもどって成氏の孫小弓御所足利義明に仕えたが、北条氏康の来攻にあい自殺。」とする系図を載せています。
関東公方に真面目に出仕していた村上総領家は、信濃に戻ってきたももの、すでに義清の系統に連なる坂城村上氏が大きな顔をしていて居づらくなり、久留里に去っていったというものです。
信州では従来あまり知られていない説ですので、久留里になにか資料があればよいのですが。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/15(Sat) 20:08>

>権六郎さま

ようこそ、はじめまして〜(^O^)! 管理人でございます☆ミ よろしくお願いします。

村上氏ですか。元は川中島合戦のキッカケになった武将(地域)なので興味を持ったんですけど、その後に謎が多く、多少のめり込んでるかもしれません(^_^;)。

久留里城は全く違う関心からで、こうしてHPを開き、様々な方からお話を聞く内に、「武田信長」という人物が、戦国期の千葉に居たことを知りまして、千葉県に住み始めてそろそろ三年になるし、元は千葉に長く住んでた事もあるのに、全然しらなかったことを反省しまして、行ってみたって感じなんです(^_^;)。
だもんで、残念ながら久留里に村上氏が居たとは、全く初耳です(爆)。お役に立たず、申し訳ありません。私の方こそお話をうかがって驚いてます!

村上満信というのは、確かに坂城の村上義清に到る六代前から枝分かれして二代後に名前が見えますが、お話によると、こちらが嫡流だったのですね(゚.゚)。

>永享の乱で持氏自害ののちは信濃を去って上総久留里に住した。
>その子成清も関東公方足利成氏に仕え、旧領の信濃に帰ったが
>勢いがおとろえ、また久留里にもどって成氏の孫小弓御所足利義明
>に仕えたが、北条氏康の来攻にあい自殺。」とする系図を載せています。

ふむ。ありそうな事ですね。上総の武将達は、関東公方や小弓公方をずいぶん盛り立てましたから、久留里にやってきたのなら、そのまま居残った方が良かったかもしれません。

と言いましても、私も知りませんので、そうですねぇ……前に村上氏の事をやはり検索で探した時、千葉県市原氏に村上氏にゆかりの深い地域がある、というHPを見付けた事がありました。ご存知でしょうか?

上総村上の旅:http://oak.zero.ad.jp/~zaf42611/kazusa6.htm
(糸久太郎のホームページ:http://oak.zero.ad.jp/~zaf42611/より)
↑アレ? この方って、前にウチに来られたような……?

ただ、こちらに残っているという「古文書」の日付は「応永15年(1408)」になってます。ちょっとお話の時期より古いですね。どうでしょう?



<さま [関東] 2001/12/15(Sat) 22:11>

おお、久しぶりに村上氏ネタが(笑)
僕のHPの更新ネタでしたが、ここは乱入します(爆)
あまり利用者がいないHPなので、閉鎖しようかな・・・

さてと大塔合戦の結果、信濃より追放された満信のその後の
家系・・・・・

満信
T
直清
T
持清(結城合戦後古河公方に属す)
T
成清(里見氏に属す。久留里城主)
ちなみに、成清は北条氏康と戦って戦死だそうです。志摩の守さま、どの戦いかわかりますか?



<こたつ城主 [関東] 2001/12/16(Sun) 08:49>

>雅さま

やっぱ世間の反応を見る限り、村上氏ってマイナーかも(^^;)。そちらは専門サイトだから、私も行く時は(ちょっとは)緊張しますもの〜。でも、きょーび、マイナーネタやる方がカッチョイイって感じもしますけどね。

ところで満信の家系、ありがとうございました(^O^)! 早速系図に追加しないと……(あ、出典どこですか(^_^;))。

それにしても……マジで久留里城主だったのね(*O*)! 雅さま、千葉県来ないとダメじゃ〜ん!(←魔手)

>成清(里見氏に属す。久留里城主)

ふむ。里見氏の家臣って事なら話は早いの……m(。。)mパラパラ。あ、出て来た。

「村上助左衛門」…実名不詳。慶長11年(1606)、長狭郡小原村100石。
「村上助三郎」…↑の子。慶長15年(1610)、父の跡を継いで同知行。足軽小頭。
以上「分限帳」より……と。(『戦国大名里見氏の歴史』図書刊行会)

これより他には里見家の家臣としてはナイです。北条氏との戦で戦死したなら、それで断絶したか、一族が生き残って配下に属し続けたか……上記も「村上」ってだけじゃ何とも言えませんが、まあ村上は村上なんで一応提示しときますね。



<志摩の守さま [東海] 2001/12/19(Wed) 08:50>

雅さま
>成清は北条氏康と戦って戦死だそうです。志摩の守さま、どの戦いかわかりますか?
ちと調べましたがわかりません。
里見と北条の戦いは数え切れないほどですから。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/19(Wed) 16:57>

>志摩の守さま

>里見と北条の戦いは数え切れないほどですから。

数えに入ってない戦も多い感じがするッス(^^;)。千葉県って、そゆトコよ(爆)。
 
     

     
  <権六郎さま [甲信越] 2001/12/21(Fri) 19:17>

こたつ城主様

おそまきながら久留里村上氏の件、ありがとうございました。
上総市原市の村上HP拝見、こんな所縁の土地があるのですね。驚きました。信濃は南北朝から関東府と京都のはざまで翻弄されて、とくに信濃総大将村上信貞以来国人をリードしてきた村上総領家は大塔合戦以後、急に影が薄くなってしまうようです。応永年間にはすでにそうした一族が関東に散らばっていったのでしょうか。

雅様も乱入ありがとうございます(笑)
雅様のところの系図では満信は大塔合戦のあと追放となっているのですか?。
合戦のあとの応永十年ころ京都から細川滋忠が乗り込んできたとき、またぞろ村上一派が抗戦しますが、このときの信濃国人衆のボスは満信ではなかったということでしょうか。



<こたつ醤油(爆)さま [関東] 2001/12/22(Sat) 22:50>

>権六郎さま

>上総市原市の村上HP拝見、こんな所縁の土地があるのですね。
>驚きました。

私も最初に見付けた時は、すぐ行ってみようって思いました!(まだ行ってないんですけどね(^_^;))

>信濃総大将村上信貞以来国人をリードしてきた村上総領家は大塔合戦
>以後、急に影が薄くなってしまうようです。

信貞、義国(国信)、義日(義光)の兄弟のうち、結局信濃で義国の系統が残ったのは、当時からそうした委譲が多少はあった(総領家がダメでも家名を残そうと配慮された)のか、もう全くの結果論だったのか、その辺りも知りたいですよね。ただ、前者であったとしても、結局房総に落ち延びた方が滅んでしまえば、どうにもなりませんけどね(^_^;)。

>応永年間にはすでにそうした一族が関東に散らばっていったのでしょうか。

少なくても房総って土地は、亡命者の避難しやすい場所だったんだなぁ(^_^;)、って感じが最近しております。(それだけに謎の系譜も多い:汗)

>応永十年ころ京都から細川滋忠が乗り込んできたとき、またぞろ
>村上一派が抗戦しますが、

そんな事があったんですか(゚.゚)。宜しかったら教えて下さいまし☆ミ



<村上信濃守雅清さま [関東] 2001/12/24(Mon) 21:41>

権六郎さま
思わず乱入してしまいました(^_^;)。
いちおう、僕も村上家関係のHPを運営してますので、良かったら遊びに来てください(爆)

>合戦のあとの応永十年ころ京都から細川滋忠が乗り込んできたとき

応永9年(1402)の関東公方足利持氏と関東管領上杉家との争いの時(上杉禅英の乱)では、村上頼清が統領になっていたようですね。しかし、幕府に反乱するたびに追放されてるし・・・
参考
至徳4年(1387)4月の反乱
頼国が隠居、師国の子満信に家督を譲る
応永7年(1400)大塔合戦
満信を信濃より追放。家督は頼国の子頼清に相続。



<こたつ城主 [関東] 2001/12/25(Tue) 17:49>

>村上信濃守雅清さま

乱入、歓迎ですよ(^^)。村上氏の事は私も素人ですので。(いつも、お世話になってます(^^ゞ))

ふ〜む。1387年までは信貞系が嫡流だったのを、大塔合戦(1400)で追放されて義国(国信)系が引継ぎ、二年後には信濃は義国(国信)系に定まったという事か。。。
 
     



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