<掲示板・議事録>


     
  <こたつ城主 [関東] 2001/10/09(Tue) 15:42>

題名:3日ぶりでございます(^_^;)。

皆様、ようやく帰って参りました。今回、松代行きは、ここでもしばしば話題に出る、出浦氏探索が目的だったんですが、ぽち様が竜泉寺に墓があると教えて下さったので、これを見に行く「だけ」の予定でした、当初はね(汗)。

主人が多忙を極めてるので、最初は「行ける時に行こう(^_^;)」だったんですが、ちょうど『真田祭り』と重なる事を紫さまからの書き込みで知りまして、もぉ20年近く、松代に通い詰めながら、この祭りを見るのは初めてで(^_^;)。でも松代に宿が予約できたのは7/6だけ。仕方なく7/7は長野駅周辺に予約を取りました(^_^;)。やっぱ7/8の大名行列祭りは、近寄れないほど盛大な祭りなんですね〜。

7/6は、松代に着いただけでしたね(^_^;)。松代泊。

7/7、何しろ松代に行くのも4年ぶりで、宿やその周辺をプラプラ散歩したり……。車で行くのが初めてで、ワクワクと皆神山に行ったら神前相撲をやってましたね(^^)。その後、高坂弾正の墓のある明徳寺と、信濃三十三観音巡りの虫歌観音堂など巡ってる内に昼食。

午後は竜泉寺に行ったんですが、墓はやはりわからず、でもお寺の奥様のお薦めで、真田宝物館に行って、坂城の出浦氏と松代の出浦氏の関係に関する資料を頂きました(^^)。

その後、大室の霞城跡と中野の高梨氏館跡も見に行きました。長野に戻って、梵天丸夫妻と夕飯をご一緒(^^)。この日は長野泊。

7/8は、梵天丸さま達と松代の真田邸で待ち合わせだったんですが、ちょうど長野の宿を出る時、真田宝物館の方から電話をいただいて、宝物館で資料を頂いてから、梵天丸さまや紫さまと合流。一緒に祭りを楽しみました☆ミ

午後は紫さまと別れ、梵天丸夫妻と長国寺→妻女山→典厩寺→八幡原古戦場のルート。古戦場付近に新しく出来た「おぎのや」で釜飯を食べて解散。我々はこの後ヤボ用で、また長野に出ましたが(^_^;)、その後帰路に着いた次第。帰宅、真夜中の一時。

梵天丸さまが速報を出しておられるようですね(^^)。私は「城主のたわごと」ですかね……。出浦氏については、頂いた資料をまだ読んでませんが、内容次第では「村上義清、子孫の謎」の方にでも掲載するかもしれません。



<こたつ城主 [関東] 2001/10/10(Wed) 17:26>

松代の真田宝物館で頂いた資料によりますと、前に求馬さまに教わった通り(^^)、坂城出浦氏と松代出浦氏は、出浦主計頭清種の子から分かれておるようです。

<出浦氏>
清種◎−+−清正(下野守)−(以後、坂城出浦氏)
    |
    +−盛清(対馬守)−(以後、松代出浦氏)

今回新たにわかった事は、出浦清種は村上義清の下に属し、村上氏城持高家八人の中の一人だった事。またこの子の清正が、坂城に慰霊塔を建てた出浦正左衛門清重の先祖にあたる事も判りました。(慰霊塔については「城主のたわごと」2000年11月に詳細)

また、松代出浦氏のはじめとなった、同じく清種の子の盛清は、天文17年(1548)の上田原の合戦で真田幸隆の捕虜となり、これが真田家との最初の関わりではないかと思われます。

以下は補足になりますが、出浦氏が村上氏から分家したのは、義清より12代遡った成国からです。

<(信濃)村上氏>
頼信−頼清−仲宗−惟清−盛清−為国★−安信★−信村−胤信−信条−義国−頼清−国衡−政清−政国−顕国−義清−国清

<村上氏と出浦氏>
為国★−+−安信★(村上)
      |
       +−成国☆(出浦)……(12代)……清種◎



<石野真琴さま [関東] 2001/10/11(Thu) 21:40>

 真田家臣団総覧改訂のお知らせ
 真田家家臣団総覧が改訂されましたのお知らせいたします。
 今回の改訂は以下の二点です
 1.加沢記に記載されている真田昌幸の陣立てに残る武将の名前と兵数
 2.沼田藩改易時に真田家に仕えていた武将名
  興味があれば、一度ご覧下さい。



<こたつ城主 [関東] 2001/10/12(Fri) 17:24>

>石野真琴さま

改訂、果されたんですね(^^)。お疲れさまでした。
後で拝見させて頂きますね。お知らせ、ありがとうございました。
 
     

     
  <さま [関東] 2001/10/13(Sat) 22:19>

こたつ城主さま

この前はHPに遊びに来ていただいてありがとうございました。
この前お話してた伊達家中の村上の件です。

村上一族って本によると、元々、奥州地方には村上家は存在
していたのですが、村上義光の弟村上判官義清が護良親王を
密かに守護して海路陸前石巻に落ちたそうです。
(護良親王の墓や一王の宮が石巻にあるらしい・・・)
その義清の末の村上吉次が伊達政宗に従ったらしいです。

村上義清-定房-定重-義利-吉次(清兵衞)
尚、義利の弟雅定(新左衞門)の子政重の娘が政宗の側室となったそうです。

他にも村上一族がいたようですが、使用した家紋は、『丸に上文字』ではなく、
『丸に扇に日の丸』、『五三の桐』等でした。



<こたつ城主 [関東] 2001/10/14(Sun) 17:12>

>雅さま

伊達家中の村上家(゚.゚)? 奥州石巻に護良親王の墓ですか?
村上義光と言うと「義日」ですなぁ。南北朝動乱期、確かに義日とその子、義隆が護良親王を護衛して吉野で討死したってありますね。では、これらが落ち延びたという伝承が伊達領内にあるのですね。

信貞の子の「師国」は、後に村上水軍を継ぐ「信濃の村上師清」と関係ないかなぁ……なんて思ってます。師国と師清は、ほぼ同時代の人って気がするんで。

あ、脱線してますね(^_^;)、すいません。義日の弟と言うと、信貞と、村上義清に繋がっていく義国(国信)しか知らんのですが、これの他に「義清」なる人物がいるって事?

>村上義清-定房-定重-義利-吉次(清兵衞)
>尚、義利の弟雅定(新左衞門)の子政重の娘が政宗の側室となったそうです。

ふむふむ(゚.゚)。ありがとうございました。ちょっと間が足りなくは無いですか(そうでもない?)。政宗ってのは17代の政宗ですよね。



<源 雅清さま [関東] 2001/10/17(Wed) 08:49>

こたつ城主さま

そのとうりです。独眼流政宗の事です。
政宗の妻の資料で、確かに村上氏ってのがいましたね・・・



<こたつ城主 [関東] 2001/10/17(Wed) 18:26>

>源 雅清さま

>政宗の妻の資料で、確かに村上氏ってのがいましたね・・・

おお(゚.゚)? そうでしたか。詳しく教えて下さい。
 
     

     
  <源 雅清さま [関東] 2001/10/18(Thu) 12:12>

>こたつ城主さま

>おお(゚.゚)? そうでしたか。詳しく教えて下さい。

側室・村上氏は、四女・千菊姫(京極高国室)を出産したとの事です。詳細は・・・わかりません。伊達家に詳しい方、フォローお願いします。尚、この件は、「村上一族」って本に出てたので、資料の裏付けは出来てません・・・



<こたつ城主 [関東] 2001/10/18(Thu) 17:23>

>源 雅清さま

娘を政宗の側室に出した「政重」も、「村上」を名乗ってたのですね。政宗には確かに4人ほど女子が誕生しているようです。四女というと、伊達騒動で有名な兵部宗勝より、更に下に確認できますが、長女で松平忠輝に嫁した五郎八姫以外は、縁付いた先を知りません。

しかし、京極高国室を生んだ村上氏の名は、ネット検索からはよく出て来ましたね(゚.゚)。寛永3年誕生と言ってる所まである(なぜか「村田氏」になってますが)。↓
政宗の略歴:http://www07.u-page.so-net.ne.jp/xb3/minagi/nenpyou.htm
(「夢の跡」:http://www07.u-page.so-net.ne.jp/xb3/minagi/index.htmより)
↑おお! みなぎ様のトコですね(爆)。

後は、「伊達政宗の閨閥」:http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/date/date903.htm
(「戦国群像」:http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/index.htmlより)
↑おお! 三楽堂さまですね(爆爆)。



<源 雅清さま [関東] 2001/10/20(Sat) 12:55>

>こたつ城主さま

色々な情報ありがとうございました。
しかし・・・「村上一族」って本には、村上水軍系や、千葉の村上一族の家系図等ものってました。一番意外だったのは・・・僕の親戚(本家・・全然親交はないですが・・)の家系図まであるとは・・・



<こたつ城主 [関東] 2001/10/20(Sat) 19:57>

>源 雅清さま

「村上一族」、ずいぶん情報が盛りだくさんですね(゚.゚)! 千葉にも義清の子孫の話があるにはあるようです。水軍の話は私も知りたい! 水戸や伊達も載ってるなら、私も買おうかなぁ〜。お幾ら?(爆)
 
     



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