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<求馬さま
[関東] 2001/09/18(Tue) 22:52>
ちょっと長いけど、「真田一族とその家臣団」から出浦氏の項を引用します。どんな感じの本か、わかっていただけるかと・・・
=========ここから=========
出浦対馬守盛清の子孫
「出浦氏は清和源氏村上氏の支族で更級郡村上村から出ている。左衛門尉清種の長子下野守清正が坂城出浦氏となり、次子対馬守盛清が松代出浦氏の祖である。そのあとは、(※盛清から5代の系図が書いてある)
「真武内伝付録」に「出浦対馬は村上義清の一家なり。甲州崩れの後、松城(まつしろ ママ)にあって森武蔵守(註:森長可 海津城主)信長公御生害につき、川中島地侍心変じて武蔵守退き兼ね候ところを、対馬一人味方を致し武蔵守を猿ヶ番場峠まで送る。武蔵その志を感じ形身にとて脇指を賜る。その後房州様(安房守昌幸)へ随ひ数度覚あり。忍の城にて仕寄せ工夫あり。」とあるのは有名な話である。また「真田家戦功録」に
「出浦対馬守甲州信玄へ給仕せり。その頃スッパを預かり、他国の城へスッパを入れけるに、そのスッパより先に城内へ忍び入り城内の様体つぶさに知りて帰りけるに、スッパは行かずして偽りて行きて見たるよし云ひける時、対馬スッパの不行事を見届け、その身の行きたるしるしを顕しけるにぞ手柄の程顕れしとなり。対馬は更級郡上平の城主(註:出浦城)にて壬午(註:天正十年)の頃は上総守と云ひ後に対馬と改む。天正十一年末に御家へ来りし者なり」とある。天正十一年九月十二日付の真田昌幸から上総守宛ての「武石之内三十貫文進置候」という宛行状がある。
対馬守幸久の子を半平幸吉といい、真田信之に仕えて千五十石の大身で、信之の信任が厚かった。これが次子織部幸生六百石、第三子五左衛門安豊七百石(寛永十年分限帳による)の二流に分れた。しかし、織部系は子の新四郎が十一歳で死亡して後継者がなく断絶。安豊の子半平幸重が嫡流の名跡を継いだ。廃藩時代の禄高は六百石であった。子孫は松代町に現存しない。」
===================ここまで===============
っていうカンジで書かれています。(^0^)
<石野真琴さま [関東]
2001/09/18(Tue) 23:58>
>求馬様
よく調べた結果をまとめて一冊の本にしたのですね、その作者は・・脱帽です。
真田家だけでも大変なのに、78家ですか。気が狂いそうな量です。基本的な史料が比較的同じというのが救われそうですけど。
ちなみに、寛永十年分限帳と言うのは、先ほど僕が示した真田家古文書の一つに当たります。まさに様々な史料を集めて分析し、後にまとめたと言う感じです。ちなみに江戸初期の分限帳もあるらしいです。
盛清から5代の系図が書いてある・・この部分が真田古文書の内の家系図部分と言う事見たいです。
真田家家臣総覧も、そう言う史料にしたいのですけど、何しろ古文書が読めないし、手に入らないので・・難しいです。
<通行人Bさま [地球外]
2001/09/19(Wed) 00:38>
>「併用していた」って、何の事(^_^;)?
詳しい記述は記憶の彼方に逝ってしまいましたが、例えるなら「部隊Aは100人」で「部隊Bは100騎」って感じですね。
一つの表に両方の単位が出てくる以上、「人」と「騎」の混同ではないのだろう、という意味です。
>時々いるんですよねぇ、そういう人。
何だか微妙なニュアンスですね(笑)
正体バレる前に逃げます……
<紫さま [関東]
2001/09/19(Wed) 05:57>
>矢沢家
松代矢沢家門の説明板によれば、矢沢家は「松代藩の無役席(家老職より上席)」で「知行千四百石松代藩第一の高禄」とあります。真田一門であり頼綱公・頼康公の真田家に対する献身的な働きを思えば当然ですよね。
一般的にはあまり有名な人ではありませんが、頼綱公は幸隆公や昌幸公を支えた名将だと思っています。 |
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