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<石野真琴さま
[関東] 2001/09/17(Mon) 21:08>
>求馬様
「真田一族と家臣団 その系譜をさぐる」田中誠三郎著 社団法人信濃路という本がございます。
これは松代家臣の系譜が上級武士26家、中堅武士12家、松代藩系譜・本藩名士小伝より48家〜
情報ありがとうございます。この本はおそらく松代藩の古文書が、真田家より国立史料館に寄贈されていますので、その史料を現代語に訳したものでは無いでしょうか。76家分か凄い量ですね。
沼田藩三万石で、上級・中級・名士・茶坊主含めて、四百名程の名前が残ってますので、松代十万石なら、最低でもその三倍以上、千二百家ぐらいはありそうですね。調べるだけで気が狂いそうです。
<石野真琴さま [関東]
2001/09/17(Mon) 21:37>
>こたつ城主様
加沢記の加沢平次左衛門は、幕府の人なんですね。
いえ、幕府の依頼を受けて残務整理・書類整理を行った沼田藩の藩士です。彼はこの仕事を終えて後に野に下り、加沢記に着手したとされます。加沢記自体は軍記物として書くつもりであったとされますが、現在にまで残っているのはその下書きかメモのようなものだと言います。
そうそう、「元禄繚乱」で、沼田藩が改易になった話をやりましたけど、あの時のです。
>神氏
神氏についてはのりちゃんさんの掲示板で、少し説明したことがあるのですが、その祖先は神世に遡ります。諏訪大社に祭られている建御名方神と八坂刀売神の子供であるとされます。もしその通りならば、神氏は神世の時代、出雲王朝が国譲りした時以来と言う事になります。非常に古い家系であると言えましょう。なんと伊達政宗の片腕、片倉家も神氏に連なっているとされます。それが縁で仙台真田家に大八君が匿われたのだとか。諏訪信仰は信濃から東国一帯に広がっていたのでしょう。
>勅使牧と国牧
古来より牧とは牧場、馬の生産地を示す言葉であるとされます。馬は武器であるとも言えるので、現在で言う軍需工場であると言って良いのでしょう。勅使牧は国が運営する軍需工場、国牧は地方自治体が整備している軍事工場と言えます。
真田に牧が与えられたのではなくて、現在の真田地域に牧があったのではないかと言う事です。
>真田の兵力
真田の兵力は第一次上田城合戦、第二次上田城合戦(関ヶ原の合戦)で動員した兵力、2500〜3000前後と言うのが一般的な数値です。3800人なら可能かも知れませんけど、3800騎はぜったーいに不可能な数字です。ちなみに加沢記にはXXX騎と足軽XXX人と言う記述が併記されています。
<求馬(もとめ)さま
[関東] 2001/09/18(Tue) 00:15>
城主殿
>あ! ようこそおいで下さいました(^^)。いつぞやは、お声をお掛
>け下さって、嬉しゅうございました。今、お茶でもお入れしましょ
>う。 *トポトポトポ*
おお、忝い。結構なお手前でござった。
石野真琴さま
>情報ありがとうございます。この本はおそらく松代藩の古文書が、
>真田家より国立史料館に寄贈されていますので、その史料を現代語
>に訳したものでは無いでしょうか。76家分か凄い量ですね。
いえ、本自体は、原典の現代語訳とかではなく、各家について家系を概観解説しています。上級武士の家で記述が2ページ〜3ページくらい、中堅武士で1ページ強、「松代藩系譜」「本藩名士小伝」よりの部分は各家、二段組で5行〜10行くらいです。史料の部分はむしろ附録ですね。
<石野真琴さま [関東]
2001/09/18(Tue) 01:38>
>求馬様
家系図の話をこの掲示板で繰り返してもしょうがないし、当該史料を見ていないので何とも言えないのですが、真田家家系図として良く知られているものには、1,滋野通記、2,寛政重修諸家譜、3,真武内伝、4,浅羽本州滋野三家系図、5,白鳥神社石和家海野系図、6,飯島家滋野正統家系図、7,加沢記。いずれも江戸時代に書かれたもので、幸隆と表記されている事から、いずれも正しくないと言うのが通常の見解です。
また矢沢家の家系図にも、良泉寺矢沢系図、矢沢家に伝わる矢沢家系図、松代藩の古文書にもあります。
しかし、真田家臣78家の家系図を収納した史料と言うのは、僕の知っている範囲では松代藩真田古文書以外にないので、邪推してしまったようです。少なくとも真田家の家系図であれば、上記の家系図を調査し比較した結果が報告されているのでしょう。
これは僕が確認したわけではないのですが、真田古文書に記載されている出浦氏の家系図は、清和天皇から始まっているとか・・、そのまま村上源氏の家系図となり、信濃村上家の家系図で、その途中から出浦氏家系図となっているらしいです。特に何らかの活躍を残した者に関しては、相当量の記述があるとか。
家系図の調査も歴史を調査する上で、必要不可欠な題材ですから、これを調査比較検討する事も実に面白い作業だと思います。
<河内判官さま [近畿]
2001/09/18(Tue) 02:21>
>■大塔宮、護良親王(おおとうのみや もりながしんのう)■
……。わはは、その通りです。なんか関係があるのかなぁ、
と思って。と云ふのも、大塔宮は鎌倉で弑害されたことに
なっておるのですが、一方で甲斐から信濃に脱出して
遠く奥州の地に赴かれた、と云ふ伝説があるのでして。
……なんで「大塔」と云ふのでせうな?「大塔」があった?
<源 雅清さま [関東]
2001/09/18(Tue) 08:38>
こたつ城主さま
>そもそも「税の取り立て」ってのが、どっちが正論なのかよくわかりませんね
「一所懸命」って言葉もありますよね。
つまりその土地は「一生懸命」の言葉の語源になったとの事ですから、土地の執着はかなりのものであったという事でしょう。
>スイマセン。そちらの何処にあります(^_^;)?
僕のHPは、現在、
『風雲急を告げる旅』・※歴史と旅の掲示板付
史跡巡りのHPです。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2578/
「義清の野望」・・・※信濃ののもののふ掲示板付
僕の家のご先祖様のHPです。
http://users.goo.ne.jp/muramasa30/
となっており、「義清の野望」の方にございます。 |
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