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<石野真琴さま
[関東] 2001/09/15(Sat) 21:36>
>こたつ城主様
真田家臣総覧なので、出来る限り真田家の家臣であった者について、調べ上げようと思っています。主なというか高名な者に付いては既に上げてますので、後は世に知られない者を探し出したいと言う事です。沼田藩の記録は寛文五年(1666年?)から天和元年(1681年)の記録となっています。加沢記の方は天正8年(1581年?)です。
実は加沢記に注目したのは、その中に石野大膳なる者がおり、宮下喜内と言う者もおります。僕と宮下殿の御先祖だろうか?そんな昔から関係があったと・・
>のちに対馬守になる「上総"守"」とは違いますからね。
あのう、古代律令制の時代、上総は古来には親王直轄国とされていたので、その代理である上総介がXXX守と同じ意味を持ちます。これは関東に限られており幾つかあったと思います。常陸介はあっても常陸守はありません。あればそれは表記間違いだと思います。同じように上総も上総守は名乗らず上総介を名乗ります。親王なら名乗ってもおかしくないですけど。と言うわけで上総介と対馬守は同等なので、名乗りを変えても不思議ではありません。ちなみに織田信長も上総介を名乗っています。
>祢津本家と言えば諏訪と同じ神氏ですよね(^^)。これがまた「海野系滋野氏」を名乗っておるのですか? う〜む、滋野氏って、意外と元が古そうですなぁ(^_^;)。
加沢記によれば、56代天皇である清和天皇の皇子よりとなっているので、それが正しければ清和源氏と言う事になります滋野氏は。これが本当なら清和天皇は858年即位だから、藤原時代以前と言う事になりましょうか。神氏はもっと前ですね。
>望月牧
勅使牧なので中央直轄の牧場であったと思われます。勅使牧として有名なのは秩父牧あたりでしょうか。
現在の真田町付近には、信濃国の国牧があったのでは無いかとされており、上田付近には国府があったのでは無いかと推測されています。(上田市付近で国分寺跡地が見つかった為)
>真田は土地名ですね(^^)。前も言ったかもしれないけど、元は「実田(さねだ)」が地名ではなかったかしら?
どうなんでしょうね、一般的には表記ミスとされていますが・・。真田とは美しい田と言う意味があり、古来は山家神社に取れた米を奉納していた家では無いかと僕は想像しています。つまり神主の家柄と言う事でしょうか。
一般的に言えば狭名田から真田へ、漢字が変わったのではないでしょうか。
>鎌原・羽尾氏
鎌原は今の嬬恋村、羽尾は長野原を名字の地としてます。いずれも三原の庄の内です。
<通行人Bさま [地球外]
2001/09/16(Sun) 00:52>
『加沢記』はどこまで信用できるんでしょう?
真田家の総兵力が3800騎になっていた時は
「そりゃ誇張が過ぎる」と思いましたが……
「騎」と「人」を混同した戦記物もありますが、
『加沢記』は併用していたので混同でもないし……
でも3800騎といえば2万の大台も見えてくる数だし……
真田家にそんなに兵がいたなんて聞いたことないし……
さて?
<石野真琴さま [関東]
2001/09/16(Sun) 14:54>
>通行人B様
加沢記がどこまで信頼できる史料かというと難しい問題があります。作者は加沢平次左衛門と言う人物で、沼田藩3万石が改易となった時に、幕府の命令を受けて沼田藩の資材目録を作った人物であったとされます。
真田の総兵力ですが、仰る通り3500騎から3800騎はあまりにも多すぎます。騎兵の割合から考えれば1万数千から2万余となります。
真田単独で動員できる兵力は、せいぜい2000人余から3500人程度なので、いかに武田勝頼の援助を受けていても多すぎます。これは1万石あたり250人を動員したとしても、真田は6万石程度なので1500人程度、600人を動員して3600人と計算されます。25000人の動員は100万石の所領が無ければ不可能な数字です。
加沢記の陣立てには、武田家の重臣の名が見つからないので、武田家から大軍が派遣されたとも思えません。と言うわけであまりあてにならない史料とも言えますが、上州平定を行った真田家の動静を知る上では、他に史料がないためにかけがえの無い史料であるとも言えます。
<求馬(もとめ)さま
[関東] 2001/09/17(Mon) 00:03>
こんばんは。求馬(もとめ)と申します。
>こたつ城主さま、
やっと、書込みました。今後、よろしくお引き回しのほどを・・・
>石野真琴様
お初にお目にかかります。
すでにご存知かもしれませぬが、
「真田一族と家臣団 その系譜をさぐる」田中誠三郎著 社団法人信濃路という本がございます。
これは松代家臣の系譜が上級武士26家、中堅武士12家、松代藩系譜・本藩名士小伝より48家が紹介されているほか、寛永十年分限帳、明暦三年分限帳、文政二年分限帳、明治四年給禄適宜現石調、寛文十二年御役人帳、貞享四年御役人帳、天明年代の「覚」による諸役、慶応三年御役人帳、明治元年御役人帳、御家中御人数調(弘化四年)などの資料が含まれて居ります。
ちなみに私はこの本を15年ほど前に松代で買いましたが其の時2500円でした。もう手に入りにくいかと思いますが、長野県の図書館などにはあるものと思います。
ご参考になれば・・・。
<河内判官さま [近畿]
2001/09/17(Mon) 00:53>
>大塔合戦
む〜、何と気になるその名称(^o^;。
南北朝好みにとってはなぜさう呼ばれるのか
大いに関心のあるところですな。地名でせうか……?
永享8年と云ふことから、おそらく裏には鎌倉公方・
足利持氏がおったのでせうね。
……。ん?「大塔合戦」で検索かけたら、
ココの議事録が出てきましたぞ(爆)!
「応永7年」ではないですか。小笠原長秀の南信組vs
村上満信の北信連合。かう書いたら暴走族の抗争みたい
やなぁ(笑)。ほぅほぅ。長野県篠ノ井周辺なのですか。
ここらへん、けっこう後南朝ともかすってゐて、
興味は尽きませんなぁ。
<源 雅清さま [関東]
2001/09/17(Mon) 08:00>
こたつ城主さま※大塔合戦とは?
◎応永7年(1400)年、信濃守護に任命された小笠原長秀は、村上満信の支配地に入り、この地は元々守護家の知行地であり、村上家が横領したとして、税を取り立てた。知行地を侵された満信は大いに怒って守護に反抗を決意。守護の統治に不満を持つ国人を統合(大文字一揆)し、自ら盟主となり挙兵。都と南信濃の勢力を背にした信濃守護・小笠原軍と、北信濃の豪族が同盟(村上氏が中心となった豪族たち)軍は、大塔(長野市篠ノ井)で合戦に及んだ。結果、村上連合軍が勝利。守護小笠原長秀は京都に逃げ帰った。
結果、幕府は、小笠原長秀の処分だけでなく、満信を信濃より追放。家督は頼国の子頼清に相続。
以上、僕のHPより。現在、「大塔物語」を翻訳してますが、漢文でさっぱりの状況です・・・・。
>大塔合戦の「子供向けの本」があればいいのに(;_;)。←お子様の主張
えっと・・・川中島は2度あったって本はとてもわかりやすいですよ。父がこどもにかたりかけるような内容になってますからね。
>信濃の土豪、国人衆の筆頭である村上氏が守護小笠原家と戦う事
>になり、とうとう信濃でも戦国時代が始まったとされるからです。
うーん・・・信濃守護勢力であった土岐氏との戦いが、至徳4年(1387)4月にもあったので、この戦いがすべての始まりってのはちょっと納得できないですね。
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