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<ぽちさま
[甲信越] 2001/09/15(Sat) 01:42>
源 雅清さま
> 出浦氏系の本家はなぜか佐久地方には沢山存在しています。
>お墓もものすごい数があり、佐久地方との関係(大井系内山氏及び村上家の佐久支配)
>の関係か?
んま!佐久地方にいらっしゃるとは話しに聞いたのですが、そんなく沢山いらっしゃるとはびっくりしました。
>ちなみに坂城からすぐの上田市に出浦という地名が残っていて、
>2つの出浦神社がありました。
この頃よく使っている長野県地図で探したら、確かにありました。私が使っている地図はちょっと大まかでしてバス停の名前で出浦はあるのですが、地名は浦野と書いてあります。
戦国武将の名前って、地名と名前どちらが先なのでしょう?
>ここは坂城とは違い「でうら」と発音します。
そ〜いえば、何かの本にも同じ「でうら」と書かれていました。
>1つはあまりに山奥なので引き返しましたが。
長野の場合ヘタに山へ入ると大変なので、引き返したのは正解だと思います。
>この地方は戦国時代以前から出浦の里と呼ばれていたようです。
出浦氏発祥の地なのでしょうか?
因みに出浦神社、これ一つ目は岡という地区の出浦竜神社の事でしょうか?もう一つはざっと地図を見渡したのですがどの辺りにあるのか分かりませんでした。
くらのすけさま
こんばんは、ぽちです
>坂城は残念ながら松代藩の領地じゃありません。
>明暦3年当時は、越後高田藩領の飛び地だったんですよ。
あり?そんな遠くの藩の飛び地だったのですか?
また随分離れた領地なのですね
石野真琴さま
HPの真田家家臣総覧、拝見致しました。武田さん家のHPにあったんですね、HPをお気に入りに登録してあったのですが、まさかそこに真田家家臣総覧があろうとは思いも寄りませんでした。
ありがとうございます
因みに、私の義叔母の実家は禰津の本家だと義母から話しに聞いています。
世間は狭い!
<ぽちさま [甲信越]
2001/09/15(Sat) 01:43>
こたつ城主さま
>石野真琴さまはお詳しいですよ〜(^。^)。
HPの真田家家臣総覧、やっと見つけて拝見致しました。
ホント、石野真琴さまってお詳しいですね。皆様よくここまでお調べになっているなぁ、っていつも感心させられます。
>それと、そもそもこたつが出浦氏に興味を持った所以は、「忍者の頭領」ってトコなん
>です。武田氏ではその面で活躍したようですし、それゆえに織田氏にも認められたって
>感じです。真田氏に仕えた事情も同じでしょう。後の真田忍者の元締めだった可能性は
>あるかもしれませんが(^_^;)
出浦氏が「忍者の頭領」だったとは、思いも寄りませんでした。もしかして武田氏の家臣だった時は山本勘介と一緒に仕事をしていたとか?
戸隠忍者については少しだけ知っているのですが、真田忍者についてはあまり知らないんです。ごめんなさい
>その真田に、かつて村上氏はやられたワケですね。何とも複雑な心境(汗)
複雑な心境お察しします
ですが村上氏が真田幸隆の兄海野義幸を倒した事を考えると、これでおあいこかな?とも思うのです。
>「松代町誌」ではないですかね。前に国会図書館で見た事があります
言われてみれば、確かに「松代町誌」でした。ありがとうございます
>そうだ。メールの返信遅れててごめんなさい(^_^;)
いえいえ、私も遅れる事がありますから気にしないで下さい(^^;
>慰霊塔ですが、ぽち様に教えて頂いた事柄より前の出来事ですね。明暦ですから、ぽち
>様のお話で行くと、まだ水戸村上氏とのやりとりがある頃です。しかもくらのすけ様の
>お話だと、明暦の頃は、松代藩ではなく高田藩の飛び地との事。
明暦って西暦何年頃になるのでしょう?未だにそこのところが苦手で、あちらこちらを調べまくっています(−−;;;
>いろいろアチコチに話が飛びますね(^_^;)。村上関係の史料が統一されにくいのも、そ
>ういうややこしい土地事情があるのかもしれませんね。
ホントです、現在坂城町の上五明地区は坂城に合併される前は更級郡だったそうですし江戸時代も松代藩だったり、板倉領だったり、鎌倉時代は親が息子2人に土地を分けて与えちゃったりややこしい土地です。
>「板倉領」ですか(゚.゚)。初耳。
え〜とその記述は、最近読んだ本なので信濃史料叢書(下)に書いてあったと思いました。子猿(子供)連れの時は図書館へ行って短時間でバタバタと調べている事の関連資料を拾い出してくるので、たまに帰宅後ノートを見ると訳が分からなくなっていたりする(爆)
言い訳じみていますが、間違えていたらごめんなさいm(_ _)m
>そうなんですか(゚.゚)? 確か大塔合戦に絡んでたような……。
大塔合戦に確か小笠原氏が絡んでいたとは思いますが、大塔合戦は私あんまり詳しく無いんです。「永享8年に小笠原政康が村上実攻め込み村上敗北、これを聞いた足利氏は5千の兵を送って村上を助けた」と言う史料があり、家のご先祖様はこの永享8年の合戦の時村上方に加勢して功有りと家系図に記録があります。
<石野真琴さま [関東]
2001/09/15(Sat) 02:31>
>こたつ城主様・ぼち様
真田家臣総覧、見ていただいて済みません。
現在、加沢記に残る真田昌幸の上州平定の陣立てに残る家臣の名前と、江戸時代に改易となった沼田藩3万石の家臣の名前をアップするつもりで、HP主の宮下殿と協議中です。まだいつになるか解りませんが、その時にはまたお知らせに上がります。
その加沢記では出浦上総介が、上州平定戦に参加した事になっておりますので、一応対馬守とは区分けしております。
沼田藩の史料によると、出浦の名は沼田藩の家臣の中には見られないので、真田信之が松代に移封となった際、松代へ移動したか、そのまま帰農したか、あるいはお取りつぶしになったのか。どれかかであろうと推測されます。そこで松代藩の家臣名簿があればそれを調べてみたいのです。
松代藩の史料があれば、真田家臣はほとんど網羅できるのではないか、と思ってます。
戦国時代の武将の場合、ケースバイケースですが、もっとも多いのは地名を名字の地とした例だと思います。もっとも村上氏のような名門の場合は違うでしょうが。
真田氏に限って言えば、真田と言う土地に住み着いていた土豪が真田を名乗って、小豪族として海野に味方したのではないかと思っています。もっとも真田の某かが死んだ地に、真田と言う地名が付いたりもします。
祢津本家ですか、それはまた格式の高い家ですね。この祢津と言う名字がどこから来たのか解りませんが、神氏(諏訪家を筆頭とする家)に連なり、海野系滋野氏を名乗っていますから、どちらが先か解りません。神氏の方が古いから神氏が先かな。
同じ滋野三氏の中で、望月氏は望月牧と言う勅使牧があったことが知られているので、この地名より望月を名乗ったのであろうと思われます。
真田の同族と言うか海野氏より別れたとされる、鎌原・羽尾の二氏も地名を名字の地としてます。
この辺は難しいですね。良く知られている例を上げると、宮本武蔵は、本家の名字を継げば新免武蔵だし、宮本村の武蔵、地名を名字の地とすれば宮本武蔵となるわけで、功を遂げ名を上げた後に、地名を名字の地とする場合もあったのではないかとも思います。
例えば村上氏から枝分かれした分家が、出浦と言う場所に住み着いて、後にその地を管理運営して行くにあたって、出浦と言う名字とした方が統治しやすいとか、そのような何らかの理由があったのではないでしょうか。
出浦氏は大塔合戦、大文字一揆(ちょっとあやふや)にも当然参加していたでしょう。この合戦の物語、大塔物語が注目を浴びているのは、実田(真田)の名が文献状初めて登場すると言う事と、信濃の土豪、国人衆の筆頭である村上氏が守護小笠原家と戦う事になり、とうとう信濃でも戦国時代が始まったとされるからです。
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